◎13年ぶりのボストン。敢えてインド風情漂うTAJ HOTELに滞在
今回は、夫の用事で、夫婦揃って久しぶりにボストンを訪れた。4泊5日の滞在だ。我々が最後にボストンを訪れたのはワシントンD.C.在住時の2004年、13年前のこと。ずいぶん昔の話となってしまった。
わたしが初めてこの街を訪れたのは、2000年。当時はまだボーイフレンドだった夫の卒業校であるMIT(マサチューセッツ工科大学)の同窓会に参加するためだった。
なぜボーイフレンドの同窓会にわざわざ参加するのか、と思われるかもしれないが、米国では特別なことではない。結婚前のカップルが、会社などが主催するビジネス・パーティに参加するのも一般的だ。
大学によって仕組みは異なるかもしれないが、MITの場合は、5年ごとに丸1週間かけて大規模な同窓会を行われていた。全卒業生が一度に参加するのではなく、5分の1ずつの卒業生が集まる。つまり、2000年には、95年度、90年度、85年度、80年度……の卒業生が集う。卒業50周年を迎えた1950年の卒業生は、皆、えんじ色のブレザーを着ての参加だった。
1週間の間、パーティーやレクチャー、スポーツイヴェントに観光ツアー、交響楽団の演奏会などさまざまなプログラムが組まれている。卒業生たちは、好みのプログラムに、家族やパートナーと共に参加し、旧友や同窓たちと交流を図るのだ。
そのときわたしは、義父のロメイシュパパや義姉夫妻とも共に過ごしたのだった。
13年ぶりのボストンは、敢えてのタージ、インド風味。インドのタージ系列ホテルと家具調度品、レイアウトが同じで、なんだかくつろぐ。
目の前には公園が広がり、ブティックなどが立ち並ぶストリートに面した絶好のロケーション。以前はリッツ・カールトンだったらしい。特に豪奢な雰囲気ではなく、こぢんまりとした印象の、快適なホテルだ。
ボストンはニューヨークよりも更に寒いのだということを忘れていた。6月になろうかというのに、冷たい風のなか、肩をすくめながら歩く。今回の旅では、半袖の服ばかりを持ってきたのは、失敗だった。
土曜の夜はどの店も込み合っていて、人気店に至っては1時間待ちが何軒も。
キャンセルが出たからと、運よくカウンターに滑り込めた店で、少し遅めのディナー。ボストンといえば、米国在住時によく飲んでいた懐かしの地ビールサミュエル・アダムスの産地。
しかし、サミュエルアダムスではなく、琥珀色が麗しいIPA(インディア・ペールエール)で乾杯。
食事の前に供されるパンが、なんと焼きたて。ほかほかのそれは、本当においしい!
ボストン名物といえば、クラムチャウダー。濃厚かつヴォリュームたっぷりなので、料理はいつものように二人でシェアする。
そして久々に、チリアンシーバスを。米国在住時にお気に入りだった魚だ。なかなかの高級魚なのだが、一時期、乱獲が取りざたされ、市場に出回らなかったこともあった。
銀ダラ風のコクと旨味がある白身魚で、銀ダラよりも身に厚みがある。
バーの一隅に設置されたテレビでは、ベースボールの中継が放送されている。
翌日は、流れでベースボールを観に行くことになっていた。夫にベースボールのルールを教えつつ、若いころ本気で野球をやっていた父の計らいかとも思う。
911でニューヨークでの披露宴がキャンセルとなり、クーパースタウンへ連れて行けなかったことを思い出した矢先のこと。
Take me out to the ball game...と口ずさみながら、冷たい夜、ホテルを目指した。
翌朝は、見事な快晴! 早速、ホテルの向かいにあるパブリック・パークへ。この写真の中央にあるビルディングが、今回の滞在先、TAJ BOSTONだ。
セントラルパークに比べると、こぢんまりとした公園だが、緑豊かに、湖もあり、本当に気持ちのよいところ。夫は張り切ってジョギングだ。
メモリアルデーの連休だったこともあり、公園には観光客らしき人々の姿も見られた。
湖畔で記念撮影。今年に入って、週3回、パーソナルトレーナーに来てもらい、筋力トレーニングを始めた夫。痩せてはいないのだが、「引き締まった感じ」に撮ってくれと、いろいろ注文が多い。一方のわたしは、「痩せて見える角度(斜め向き)」で立ってはみたものの、寝起きの顔のままだった。まあ、そんなことは自分にしかわからぬだろうが。
メモリアルデーとは、戦没将兵追悼記念日。戦争や軍事行動落命した米国人兵士を悼む日である。
公園の一隅に、37,000もの星条旗が立てられていた。これは、米国の独立戦争以来、今日に至るまでに戦死した、マサチューセッツ州出身の兵士たちの数なのだという。
公園からの帰路、近所のAu Bon Painで朝食を。願わくば雰囲気のよいカフェにでも立ち寄りたいところだったが、近所には見当たらず。
ちなみに、ベーカリーカフェ形式のファストフードチェーン店であるところのAu Bon Pain。拠点はボストンで、ハーバードスクエア店が1号店だという。サワードウのパンの中身をくり抜いたものを容器に見立てたクラムチャウダーが有名だ。
◎ホテルから歩いて、スタジアムへ。ベースボールゲームを観戦
午後は急に雲行きが怪しくなってきた。傘を携えて、ホテルから徒歩で30分ほどの場所にあるスタジアム「フェンウェイ・パーク」へ。
わたしが初めてベースボールの試合を見たのは、1985年のロサンゼルスでのドジャーズ球場。大学時代、初の海外旅行で1カ月間、ロス郊外にホームステイしたときのことだ。米国の、遍くスケールの大きさにともかく感嘆した。あのときの心の高揚を、今でもありありと思い出せる。
その後、13年前に、ボルティモアのカムデンヤードへ夫とともに行った。ちなみにインド人の多くは、ベースボールのルールを知らない。なにしろクリケット熱が圧倒的に高く、ベースボールの入り込む余地はないのだ。
フェンウェイ・パークは、MLBのボストン・レッドソックスの本拠地球場で、1912年に公式オープンした。メジャーリーグで使用されている球場の中では最も古い球場なのだという。
球場ではついついジャンクなものが食べたくなるから不思議だ。以前、ボルティモアの球場で観戦したときにもそうだった。しかも、普段は薄くておいしいとは思えないバドワイザーが、とてもおいしく感じたのもミステリアスな記憶だ。
この日もついつい、ホットドッグを買ってしまう。見るからに、おいしそうではないのに。食べた後、胃がもたれてしまったのに。
さて、肝心の試合であるが、ボストン・レッドソックスは、シアトル・マリナーズに5対0で完敗。試合運びも単調で盛り上がりに欠け、9回表の時点で、ブーイングと共に立ち去る観客も見られた。
◎バンガロールで出会った友人一家のお宅を訪問
試合のあとは、バンガロールとボストンを行き来している友人夫妻宅へ。待ち合わせの場所へ、ハズバンドのプラディープが迎えに来てくれた。
彼らとの出会いは、以前、バンガロールに住んでいた日本人の駐在員夫人に妻のアナミカを紹介されたのがきっかけだ。アッサム出身の彼女はボストンに進学し、コンピュータエンジニアとなり、その後、医療関係に従事する夫の仕事の都合で3年ほどバンガロールに住んでいた。
ミューズ・クリエイションの活動記録でも何度か記している慈善団体、OBL(One Billion Litarates)の創始者であるアナミカ。二人の息子を世話する傍ら、自らバンガロールの村々を東奔西走していたタフで情熱的な女性だ。
わたしはミューズ・クリエイション設立以前に一度取材し、以降、ルビーという女性に運営を引き継がれてからも、交流を続けている。
一方、アルヴィンドは、アスペン・インスティテュートというグローバル組織に在籍しており、その活動の一環としてかつてCSRの支援も行ったのだが、わたしがOBLを紹介したことから、数年前に彼もOBLのボードメンバー(役員)となり、ファンドレイジング(資金調達)の仲介に貢献している。
その関係もあり、現在はわたしよりもむしろ、夫の方がアナミカを含め、OBL関係者とは親しい次第くらいで、現在は単身赴任状態で毎月ボストンとバンガロールを行き来しているプラディープとも懇意にしている。
この日は、たまたまアナミカのハズバンドのプラディープもボストンに到着した翌日だったとのことで、夕食に招待された次第。ちなみにプラディープはコルカタ出身のベンガル人だ。
二人ともやはり、ベースボールには興味がなく、「1チーム7人だっけ?」とプラディープに尋ねられた。
ともあれ、ボストンでアナミカ手作りのベンガル地方の料理(マトンカレーにフィッシュカレー、オクラのソテーにダル、チャパティ)を味わいながら、インドの話をする、奇妙に心地よい夜。
コルカタ出自のインド系米国人の女流作家ジュンパ・ラヒリ。彼女の小説そのものの世界が、NRI(Non Resident Indian:海外在住インド人)の人々の暮らしに漂っていることを、肌に感じた夜でもあった。
◎参考までに、初のOBL訪問時の記録のリンク
http://museindia.typepad.jp/mss/2012/08/ミューズクリエイションngo支援の公立学校訪問.html
ボストン美術館を初めて訪れた。過去、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館を訪れて気に入り、2度、訪れたのだが、今回は別のところをと。
あまり時間がなかったので、急ぎ足で巡ったが、特別展のマティスやボッティチェルリの作品も見られ、ヴァラエティ豊かなアートを目にできた一日だった。
中央上はマティスの作品。パープルのガウンとアネモネ。時計回りに朝鮮半島の仏像、アジャンタ遺跡の絵画(誰が削って持ち去ったのか?!)、ドノヴァンの雲(?)、ボッティチェルリのヴィーナス、11世紀ビハールの菩薩(ボーディ・サットヴァ)、モネの描くジャパネスク、派手な着物姿ではしゃいでいる女性、18世紀テランガナのテキスタイル絵画、ガネイシャ像。
時間がないと言いながら、ランチはしっかりとミュージアム内のダイニングで。ムール貝のスチームと、クラブケーキ。どちらも、そこそこに、おいしかった。
◎ボストン旅のハイライト。アマルジート伯父宅への訪問
アマルジート伯父の話は、アルヴィンドから折に触れて聞いていた。アルヴィンドの母方の祖父の、姉の息子。つまりアルヴィンドの亡母のいとこである。
わたしが彼にお会いするのは、今回が初めてのことだ。アルヴィンドもまた、20年以上ぶりである。
アマルジート伯父は、インドが分離独立して間もないころ、18歳でインドを離れ、MITに進学。以来ずっと米国でビジネスコンサルティングをしている。現在の妻は、3度目で、子供はいない。
「伯父さんが車で迎えに来てくれるらしいよ」と聞いた時、一瞬、不安がよぎった。彼は現在80歳を過ぎていると聞いている。最近日本では、高齢者の事故が増えているというし、こんな雨のなか、大丈夫かしら……と。
しかし、彼の姿を一目見て、心配は霧散した。とても80代とは思えない、姿勢もよく、顔立ちもきりりとした、実に若々しい伯父さまだった。
家では、妻のエリザベス、そして犬のスモーキーが歓待してくれた。心地よく、雰囲気よくまとめられた家具調度品。まずはみなで赤ワインを飲みながら、エリザベスが用意してくれたカナッペやチーズ、オリーヴの実などをいただきつつ、自己紹介など。
なにしろ、初対面。互いの親戚など共通項はあるが、彼らはわたしたちのことを、「日本人女性だ」という以外、ほとんど何も知らない。
心理学者で、現役のカウンセラーでもある彼女は、話がうまく、そして人に話を聞き出すのがうまい。アマルジートもまた、とても気持ちよく、人の話を聞いてくれ、自分の話も巧みにしてくれる。
彼らが出会ったのは1995年、わたしたち夫婦が出会ったのは1996年。出会いの当時の話にはじまり、わたしの仕事、インドへの移転の経緯、そして現在の活動などを、思い返せば本当に的確に、尋ねてくれたのだった。そして、こちらが幸せな気持ちになれるくらい、ときどき、褒めてもくれる。
そしてまた、わたしが彼らのことをよくわかるように、二人してインドへ訪れた時のエピソードも、臨場感を伴って、語ってくれる。
アマルジートは子供時代、デリーに住むランジート伯父とはいとこ同士で親しかったこともあり、ランジートを弟のようにかわいがっていたことも聞いた。そのエピソードがまた、具体的で鮮明。彼らのクリアなコミュニケーション力に、ともかく感嘆する。
ともあれ、彼がMITに進んだことで、ランジート伯父もMITを選び、アルヴィンドも、いくつかの大学に合格していたが(←我が夫ながらご立派)、MITとスタンフォードに絞り込み、悩んで悩んで最終的に、ランジートに勧められてMITを選んだ。
すべては、アマルジート伯父から連なっているわけだ。
アマルジートがディナーの準備をしてくれる間、エリザベスが庭のハーブガーデンを見せてくれた。雨で花はしおれてはいたが、綺麗に手入れされたステキな庭だった。
使い勝手のよさそうなオープンの棚。インドだとほこりが溜まりそうだが、これはとても使いやすそうだ。見た目も、とてもいい。米国では昔、こういうキッチン収納が一般的だったそうだ。
現状、料理のセンスには恵まれていない我が夫。アマルジート伯父の血を引いていてほしかった。実は今回の旅を経て、夫はボストンでのビジネスにもかなり関心を持っており、今後、長期に亘ってニューヨークではなくボストン出張を考えている。
帰路のフライトでも
「ぼく、外食はダメだから、料理を習おうと思う。みほ、帰ったら料理を教えて」
というのだが、それはもう、何よりも、わたしにとっては苦痛であり心配となる事態である。一度彼がMBAに進学した際、またNYとDCと遠距離結婚だったとき、何度か教えようと試みたが……本当に、心臓が止まりそうになる事態が多発する「無理!」な状況だったのだ。……気が重くなってきたので、話題を変える。
ところで、アマルジート伯父と、夫の亡母とのエピソードは、非常に印象的だ。
今から約30年前、夫の実母は慢性白血病を患っていた。
そのときにオーガニックの野菜のみを摂取する自然療法を提案したのが、アマルジート伯父だった。加えてセドーナの聖地のことや、ナバホ・インディアンの伝統療法のことなども伝授したという。
そのおかげもあって、医師の告知よりも遥かに長く、彼女は生きることができた。彼女はまた、当時デリーにはなかったオーガニック菜園を作り、多くの病人たちをサポートする活動もしていたのだった。
初めて会うご夫婦なのに、生き方や考え方、ライフスタイルに共通項が見られるのも、とても印象的なことだった。
オーガニックの食材を使っての料理。クスクス、ラタトーユ、そして鶏肉と玉ねぎの煮込み。心の籠った、本当においしいお料理だった。
猫らが恋しいわたしは、最早、「毛があるふわふわとした生き物」ならなんでもいい状況になっていて、やたらとスモーキーに触れ合うものだから、すっかり懐かれてしまった。
近所で人気のベーカリーから買ってきてくれたというアップルパイと、このタルトがデザート。本当に、おいしかった。
歳を重ねて生き生きと暮らす二人を見ていて、希望がわいてきた。心身の健康を保っていれば、年齢を重ねることも麗しい。大切なことを目の当たりにさせてもらえた夜だった。
◎そして、ボストン最後の1日。
最終日もあいにく、曇天と雨。しかも寒くて、あまり出歩く気分ではなかった。曇天から逃れるように、プルデンシャル・センターのモールを散策し、ランチはEATALYへ。
イタリア世界が広がるここで、パスタ専門店を選んでランチ。飲んだら眠くなるのを承知でベリーニを頼み、サラダと手打ちパスタ。
夫は終日ミーティングに出ている。このあとホテルへ戻って昼寝をしてもノープロブレムだ。帰路、ちょっとした買い物をしながら、傘を開いたり閉じたりしながら、ホテルまでのんびりと歩く。
昼寝をして、目を覚ましたころ、夫がホテルへ戻ってきた。あまりお腹が空いていないが、この夜は人気のシーフードレストランを予約していた。ボストン名物のロブスターを食べておきたかったのだ。
中サイズを半分に切ってもらい、サーヴしてもらう。新鮮でシンプルなロブスター。歯ごたえがあり、とてもおいしい。ビールを飲んで、クラムチャウダーを食べ、ロブスターも味わう。そして家庭料理も2度、ごちそうしていただいた。
わずか4泊5日だったが、とても濃厚で有意義な滞在だった。ボストン、また来年、必ず来よう。