年に一度の日本一時帰国。今、空港のラウンジで、ラップトップに向かっている。季節外れの雨が続くバンガロール。早めに家を出たので、あと1時間ほど、ここでゆっくりできる。書けるところまで、書いてみよう。
今年は福岡と兵庫で、女子大生たちに海外で働くということについてを、語る。もちろん、自分自身の経験を基に話をすることになることから、プレゼンテーションの資料には、過去の写真を載せる。
先日から、その過去の写真を発掘しつつ、ときに笑い、ときにしんみりと、歳月の流れを噛み締めている。
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今年の6月、ミューズ・クリエイションは5周年を迎えた。立ち上げた当初は、ほとんど先のことを考えていなかった。特段、長期的なプランを立てぬうちに始めたことだが、5年とは結構な歳月だ。
それまでの自分の経験が、潜在力を育み、「無意識の衝動」となって始めたことには違いない。しかし、従来、自分だけに向き合い、独立独行の人生を送って来た者としては、常時大勢のメンバーと共に活動をしているということが、未だに不思議である。
2年前にはNGOに申請するに至った。そしてつい先日、難航していた課税免除の手続き云々がようやく終了、12Aおよび80Gフォームを「賄賂なしで」取得するに至り、一息ついたところだ。そして2年分の納税申告を、本日ようやく、完了した次第。
細く長く続けて行ければと思っていたが、なかなかに太く長い活動となっている。
このような経緯を書き連ねていると尽きないので、今日のところは、このあたりでやめておく。
5周年を迎えたに際しては、諸々思うところも多く、ぜひともブログには心境を記しておこうと思っていた。
ところが、ここ数カ月、書こうという衝動がわかないまま、今日に至ってしまった。そして不完全燃焼の気分の中、20年前のことが、蘇ったのだった。
ミューズ・クリエイション5周年について考えを巡らせていたとき、ふと、ミューズ・パブリッシングをニューヨークで起業したのは、ちょうど20年前であったことに、思い当たった。
わたしにとっての、「ミューズ」の始まり。
当時、フリーランスのライター兼編集者だったわたしは、1996年4月に、1年間の語学留学の予定でニューヨークへ渡った。しかし、語学学校に通ったのは最初の3カ月程度。9月から日系の出版社で、現地採用として働き始めた。
その後、1997年7月、ミューズ・パブリッシングを設立。自分自身に就労ヴィザを発給することが、起業の目的だった。紆余曲折を経て、5カ月後、無事にH1Bヴィザを取得。1998年1月、晴れてニューヨークで独立した。
ちなみに「ミューズ(ムーサ)」とは、ギリシャ神話において、歌や踊り、詩や歴史、天文などの芸術を司る9人の女神の総称だ。
会社を立ち上げようと計画していたころ、会社名を考えていたある夜、夕食の帰りにアルヴィンドと二人、互いにいろいろな会社名のアイデアを出し合いながら、アッパーウエストサイドを歩いていた。
住まいのある60丁目にさしかかったころ、アルヴィンドが、「ミューズ」と言った。その瞬間、「それにする!」と、思った。
本当は、ミューズ・コミュニケーション Muse Communicationにしたく、社名を申請したが、ニューヨークでは、すでに使われていた社名だったことから、ミューズ・パブリッシング Muse Publishing, Inc.とした。
以来、20年以上に亘り、ミューズは姿を変えながら、わたしを支えてくれている。
一番上の写真は、1999年4月ごろミューズ・パブリッシングのセルフ・エンプロイド(自己雇用)だったころの1枚だ。マンハッタンの高層ビルのステュディオをオフィス兼自宅にしていた。
当時の写真は、とても少ない。そんな数少ない中、当時の自分の仕事の様子を伝える、これはしみじみと味わい深い1枚だ。
デスクトップのコンピュータは、初めて購入したアップルのマッキントッシュ。Macintosh Quadraの次に発売された、Power Macintosh 8500。
DTPが出版界に浸透し始めていたころ、自分自身でデザイナー業もこなすべく、編集ソフトのQuarkExpressやPhotoshop、Illustratorなどを装備。数週間の独学で、使いこなせるよう猛勉強した。一方、コンピュータ自体が今では考えられないほどの許容量。しばしばフリーズしたり、故障したりと、たいへんだった。
興味のある方は、こちらをご覧ください。
わたしが就職した1988年当時、出版業界では「ワープロ」ですら、まだ浸透していなかった。多くのライターは手書きだったし、デザイナーも手描きでレイアウトを作っていた。ワープロが広く使われ始めたのは1990年代になってから。わたし自身は、27歳でフリーランスのライター兼編集者として独立したときに、始めてワープロを買った。
コンピュータを買ったのは、1996年。渡米の直前に、Windows95搭載のコンパックのノートブックを買った。電子メール、というものが一般に使われ始めたころだ。電話回線を使っていたので、接続するときには、「ぴ〜ひゃらひゃらひゃら ぺ〜 ぷ〜」というような音がした。
画像など送ろうものなら、果てしなく時間がかかったものだ。
そこから数年のうちに、このコンピュータである。購入する際にも知識が必要だからと、ニューヨークの紀伊國屋でコンピュータ関連書籍を買いあさり、付け焼刃で勉強して、瞬間的にコンピュータに詳しくなり、あれこれと品定めをした結果の、購入だった。
経済状況が逼迫していた当時、清水の舞台から飛び降りるくらいの、投資であった。
自宅兼オフィスのステュディオ。手前も奥も、どちらもソファーベッド。夜になると広げてベッドにして、寝るのだった。
狭い一間だったが、家賃2000ドルを支払うのは、たいへんなことだった。それよりなにより、就労ヴィザを自給自足している身の上。自分の給料を支払うことが大前提で、しかしその3分の1は税金として消えるので、ひたすら、稼がねばならなかった。
アルヴィンドとは、ニューヨークに移って数カ月後、1996年7月7日に出会っていた。彼はMITを卒業して、マンハッタンのマッケンジー・カンパニーに勤めていた。出会った当初、23歳だった。若かった。
これは翌年、一緒に暮らし始めたときの写真。このときは、彼と家賃を折半して1ベッドルームに住んでいたのだが、このあと、彼はマッケンジーをやめて、フィラデルフィアのウォートン(MBA)に通うこととなり、わたしの一人暮らしが始まった。
安い部屋を探したが、なかなか見つからず。マンハッタンの住宅事情は、当時から、高いばかりで狭く、よくなかった。結局同じビルディングのステュディオに移ることができたのは、彼が保証人になってくれたからだ。家賃は自分で払っていたとはいえ、自分一人では借りることのできなかった物件である。
アッパーウエストサイド、コロンバスサークルの近くにある52階建てのアパートメントの屋上からは、セントラルパークをはじめ、マンハッタンが一望できた。
なにかの媒体に紹介される際、写真が必要で、「マンハッタンらしい場所」での働いている感じの写真を、友人に撮ってもらった。これは、ミッドタウンのパークアヴェニュー。ウォルドルフ・アストリアホテルの前。
これは、まだアルヴィンドと暮らしていたころ。ミューズ・パブリッシングを立ち上げるべく準備をしつつ、日系出版社に勤務していた時期だと思う。友人らを招いてのホームパーティもよくやったものだ。この直後に就労ヴィザが取れた。
ニューヨーク広し、日本人居住者多し、といえど、自分で起業して、自分で就労ヴィザ(H1B)を出している人は、周りに誰もいなかった。だからこそ、移民法弁護士には断られ続けたし、実際、取得した経緯も一筋縄でいかぬ、特殊な偶然と、それなりの努力の成果であった。
無論、潤沢に資金があれば、投資家ヴィザなどを取得することはできる。しかし、そういうわけでもなかったから、珍しい存在であった。
ミューズ・パブリッシングを設立した経緯などについては、拙著『街の灯』に簡単に触れている。
海外で就労するには、然るべきステイタスのヴィザを持っていることは大前提。ヴィザなしに、就労することはできないし、してはいけない。違法だ。
それをわかっていて、不法就労する人もいたし、不法滞在の人もまわりに少なからず、いた。わたしはそういう「後ろめたさ」を感じて暮らすことが理解できなかった。当然ながら、ヴィザの問題はクリアにしておきたかった。ゆえに、無理を覚悟で、前例がないことでも、やってみようと思った。
話がそれるが、この20年余り、米国でも、インドでも駐在員の帯同ヴィザで訪れている夫人が働いて、あるいは働こうとして収入を得ているケースを少なからず見て来た。それに伴って、発生したトラブルも、見聞きして来た。だから、身近にそういう人がいた場合には、疎ましがられるのを覚悟で、忠告している。
たとえばニューヨークでは、料理教室をしていたご夫人が、材料費として徴収していた教室代を、しかしそれが高すぎるからと判断し、快く思わない周囲の人が移民局に通報、彼女は日本へ強制送還させられるというケースもあった。
外国人が海外でいつでも働けたら、その国の人たちの雇用に影響が出る。移民法のいろいろなルールがあることを、理解していない人が少なくないことも驚かされる。駐在員を送る企業は、そのあたりの心得をきちんと駐在員の家族に伝えるべきだと、いつも思う。
日本で仕事をしていた人が、夫の帯同によって海外生活をはじめるとき、自分自身の自己実現からは遠く不本意な生活を送ることになると、ネガティヴに考える人もいるだろう。わたしとて、35歳までは自立していたのが、結婚によって夫との共同生活になり、財政管理に変化が生じたときには、複雑な違和感を覚えたものだ。
そんな人たちが、少しでも社会に関わり、ここでしかできない有意義な時間を送れるようにという意味も含めての、ミューズ・クリエイションの存在であるということも、書き添えておきたい。
年に一度の日本旅。楽しんできます。
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当時、日本のメディアにも、ちょこちょこと紹介された。ネット上に残していたいくつかを拾い集めて、転載する。
↑世界各国で働く20代から30代の日本人女性たち20名のエピソードが綴られた本。そのうちの一人として、当時ニューヨークで仕事をしていたわたしのことが、子供時代のエピソードから当時に至るまで、14ページに亘って紹介されている。信頼のおけるライターの女性が取材・執筆してくれたので、自分でも違和感なく読める。記事をスキャンしてブログに転載していたのを、更に転載。クリックして拡大すると、記事が読めます。