まだ夜が明けやらぬうちに、ホテルをチェックアウト。エントランスを出た瞬間、ほのかに届く、海の匂い。海からは遠いデカン高原に暮らして久しく、磯の香りが懐かしい。
わずか3泊4日ながらも、27年ぶりのスウェーデンは、心にくっきり、染み入った。何よりも心地よかったのは、人々のやさしげな様子。穏やかな笑顔と温かな様子が印象的だった。
そしてまた、北の海を望む、遍く土地に通ずる、一抹の寂しさ、無言の叫びについて、思いを巡らす。
オランダ北部のワッデン湾沿岸を訪れたときのことを思い出す。ネット上に記録を残していた。福島の原発について言及した記事に、転載していたのだ。
やはり28年ほどまえ、同じ旅行誌のドライヴ取材で、ピータビューレンという町にあるアザラシセンターを訪問した。海洋汚染で病んだアザラシの保護センターである。
保護センターの女性担当者のことば。
「北海の海流は、南から北へ流れているの。ライン川とマース川がハーグの南で海に流れ出て、その汚染物質が海流に乗って、こっちまで来てしまうのよ。ここにいて、アザラシを見ているだけで、あの川の上流で何をしているか、世界の海がどうなっているかがわかるわ。でも、悲観してばかりはいられない。入院患者は増える一方だから」
国境が目に見えない。けれど、海はつながっている。その汚染水の廃棄は、なんとかならないのか……。
旅をすれば、思うところ多く、綴りたいことは次々に沸き上がるが、ともかくは、次の目的地、パリへ行こう。
スウェーデンに別れを告げる前に、もう一つ。
ニューヨーク在住時、自社ミューズ・パブリッシングで発行していたフリーペーパー『muse new york 』に、「旅するミューズ」という連載ページを設けていた。その1回目に、27年前のスウェーデン旅の一こまを残した。
あとにも、さきにも、あんなに麗しい満月を、わたしはまだ見たことがない。
【ガラスの国、妖精のダンス】(1998年に執筆した記事を転載)
森と湖の国、スウェーデン。ある夏、スウェーデンの南部をドライブ旅行したことがあった。この季節、北欧では夜10時を過ぎてようやく日が暮れ始め、早朝2時頃には、すでに空が白み始める。
極寒の冬の間、息を潜めるように家の中に籠もって暮らしていた人々は、夏になると日がな外に出て、はかない季節を惜しむかのように大自然の中に身をゆだねる。
湖の中へ嬌声をあげながら飛び込み戯れる子供たち。トップレスで緑の丘の上に寝ころび、全身で太陽の光を受け止める若者たち。木立の中に分け入り、籠いっぱいにブルーベリーを摘む老夫婦……。
途中、何台ものキャンピングカーとすれ違った。カヌーにキャンプ道具を積み込んで、湖へ繰り出す家族やカップルも見かけた。皆が穏やかな笑顔をたたえ、居心地よさそうに自然の懐に抱かれている。
緩やかなカーブとアップダウンを繰り返すドライブルートは、ひたすらに青空。時折パッと視界が開け、穀倉地帯や草原が延々と広がる。沿道には、淡いピンクや黄色の花を付けた背の高い草花が、柔らかい風にゆらりゆらりと揺れている。
ヌッと沿道に立ち、じっとこちらを見ている大きな大きなヘラジカ。サッと目の前を横切る子ギツネ。ピョンピョンと森の中に消えていく野ウサギ。そんな動物たちに出会うたび、「あっ」と声を上げ、心動かされる私たち。
ドライブの途中、ガラス王国と呼ばれる地域に立ち寄った。カルマル、ベクショーという二つの町に挟まれた一帯だ。この辺りには、有名なコスタ・ボーダをはじめ、数々のガラス工場が点在している。
工場というと、灰色の公害をイメージしがちだが、このガラス王国のそれは違っていた。豊かな緑と湖に、そっと包まれるように、工場がぽつん、ぽつんと点在しているのだ。私たちは車を走らせながら、いくつかの工場を訪ねてみた。
作業工程を見学できるところもあれば、ガラスの絵付けを体験できるところもある。もちろん、ガラス製品を購入することもできる。ガラス製品と一言で言うにははばかられるほどの、その種類の豊かさ。色、形、デザイン、どれをとっても個性的で、それぞれの美しさをたたえた芸術品ばかりだ。
大きな工場もさることながら、森を走る途中、たびたび出くわした小さなガラス工房は、私たちをさらにひきつけた。工房には必ず広い窓があり、光あふれる場所にアーティストたちの作品が並べられている。その色合いのなんとも美しいこと。
淡いもの、濃いもの、虹のようにあいまいなもの……。北欧の夏のやさしい光を受け止めて、まるで呼吸するかのように、ゆらゆらとその光を揺らしている。
その日、私たちはベクショーの観光案内所で勧められた「ヒットシルの夕べ」に参加することにした。この辺りのガラス工場では、一日の仕事を終えたあと、炉(hytt)の余熱でニシン(sill)を焼いて食べるという伝統があるのだとか。このユニークな習慣を旅行者も体験できるというのだ。
まるで体育館のように広い工場の一画にダイニングテーブルがずらりと並べられ、50人ほどの旅行者が顔を合わせる。火の残った炉では、ニシンやソーセージ、ジャガイモが焼かれ、素朴なパンと一緒に供される。
楽団が軽快なメロディーを奏で、世界各地から集まった旅行者たちが自己紹介に始まり、会話に花を咲かせる。食事を終えた後、吹きガラスの体験もさせてくれた。長い鉄の筒をフッと吹くと、先端のガラスは一瞬風船のように膨らんだものの、次の瞬間にはぐにゃりとつぶれてしまった。
食べて、しゃべって、騒いだ後、私たちはまだ暮れやらぬ空の下、黄金色の光の中を、今夜の宿を目指して走る。
丘を越えカーブを曲がり、視界が開けた瞬間、私たちは息をのんだ。一面に広がる麦畑の上に、霧がふんわりと、まるでベールをかけたように漂っているのだ。現のこととは思えない、夢のような光景。
憑かれたようにエンジンを切り、車を降りる。たちまちの静寂。見上げれば薄紫色の空、そして幻影のような満月! それは、私がそれまでに、いや、それ以降も見たことがない満月だった。朧月の周囲に、七色の虹のような光が幾重にも重なっているのだ。それはまるで、大きな貴石のようでもあった。
ふと、昼間のガラス工房が思い出された。あのガラスの色は、きっとこの地方の自然の色彩なんだ、この場所そのものが、アーティストたちの感性をかき立てているに違いないと。
胸を高鳴らせたまま宿に戻った私たちは、宿のおばさんに興奮しながら、さっきの光景を報告した。おばさんは微笑みながら言った。
「ああ、あの霧を見たのかい? この地方ではあの霧のことを、妖精たちが降りてきて、ダンスをしている、って言うんだよ」。(M)
早めにパリへ入ろうと7時半便発の便を選んだのだが、機材の不具合で1時間半ほど機内で状況待ち。
結局、別の航空機に乗り換えだ。
何度か機長アナウンスが流れたが、不満の声が全く上がらないことに驚いた。
「まじかよ」とか、「シット!」とかいう人がいない。
待った挙句に「別の便に乗り換えてください」
とアナウンスされたときには拍手さえ聞こえたので修理が終わったのかと勘違いした。
淡々と荷物を降ろし、淡々と移動する人々。
これがインドだったら、どれほどの喧騒か。
麗しく整備された空港にて。するすると滑らかに、移動する。
機内では、じっくりと沈没船ヴァーサ号の本も読めたし、ノープロブレム。
パリでの、まずはランチを楽しみに、今しばらくは、途上にて。
◎数時間遅れで、小雨交じりのパリに到着
数時間遅れで、パリに到着。10年ぶりのパリは、10年前と同じように、雨で我々を出迎えてくれた。
ストックホルム同様、過去の旅のあれこれが蘇ってとめどない。
シャンゼリゼ界隈のホテルにチェックインしたあと、コンシェルジュの勧めに従い、近所のビストロでランチ。
カラフェの赤ワイン。素朴なグラス。
非常に、パリ。
白い猫、という名のその店で、我が家の4猫を思いつつ。
パリのビストロでシーザーサラダの違和感に、いつからなのだろう、食のグローバル化を垣間見る。
米国メキシコ国境の、ティファナ生まれのシーザーサラダが、フランス流においしくて、幸せ。
◎初めてのパリを回想しつつ、10年前の記録をブログから一部転載
初めてパリを訪れたのは、湾岸戦争ただ中の1991年。世間には欧州渡航を自粛する緊張感が漂う中、先日も記したところの、石油会社大手の情報誌の取材のため、外部のライター、カメラマンとともに、ドイツ取材を経て、ベルリンから直接、南仏へ入ったのだった。
月刊誌だったので、2カ月に一度、2カ国を取材して、残された日数で、2冊分の編集作業を行うというものであった。思い返すだに、無謀なスケジュールだった。
ピレネー山脈の山麓にある街、ポーを拠点にカルカソンヌ、アンドラ王国、アルル、エクサン・プロヴァンスなどの町村を経て、コートダジュール(紺碧海岸)沿いの街へ向かって車を走らせた。
たとえ冬でも、南仏は暖かい、と言われていた。なのにその年は十数年ぶりの雪に見舞われ、カンヌも、マルセイユも、ニースも、モナコも、曇天の雪景色。
晴れやかな南仏の青空のもと、バイクを走らせているシーンを撮影する、という当初の目的は果たせず、しかし小さなビストロで味わったブイヤベースのおいしさは、忘れがたい。
南仏での取材が悪天候のためずれこんでしまい、本来は、パリで2泊する予定だったが1泊に。翌日の帰国を控えて、前日、南仏から一路、雨や雪の道のりを、北を目指したのだった。
冷たい夜、無事にパリへ到着した。ネオンに彩られたエッフェル塔や凱旋門。すでにパリを訪れたことのあったカメラマンとライターが、まるでツアーガイドのごとく、車窓からの風景を案内してくれた。
それから数年後。27歳でフリーランスのライター兼編集者になったわたしは、一年のうちに3カ月の休暇をとって旅をすると決めた。そしてその通り、翌年28歳の春、欧州放浪の旅に出たのだった。
その拠点が、パリだった。パリには友人が住んでいて、彼女の家に数日間、居候をさせてもらった。
日本を出発する前は、細かな旅の行程を決める時間的な余裕もなく、大ざっぱな行き先だけを考えていた。パリで旅のノートを買い、3カ月間の行程を考えた。そして3カ月間有効のユーレイルパスを携えて、列車の旅を始めたのだった。
いくつもの街を訪れ、ひたすらに歩き、安宿に身を休めた。地図、ノート、ペン、カメラ、大量のフィルム、そして最低限の衣類と洗面具を詰め込んだ鞄ひとつで。
概ねひとりで、概ね無口で、黙々と、3カ月。当時のわたしはと言えば、公私に亘って辛いこと(色恋沙汰)も多かった。それがたいそうな反動となって、行動力に拍車がかかったようでもあった。
その翌年。29歳のときには、英国へ3カ月の語学留学へ行った。その帰りに、雑誌の取材でスイスやイタリアを巡り、最終的にパリへ戻って、友人宅でお世話になった。
尤も、彼女はそのとき、他の街へ旅行へ出るということだったから、わたしに鍵を託してくれ、何日でもいてくれていいからと、言ってくれたのだった。
だから一人で、暮らすように住んだ。2週間ほど過ごした後、仕事が待っている東京へと戻った。彼女が好きだという、赤ワイン、サンテミリオンをお礼に買い、部屋に残して。
その次にパリを訪れたのは、1999年のニューヨーク時代。
当時は休暇のたびに、アルヴィンドと欧州を旅した。このときは、二人でベルギーをドライヴ旅行したあと、フランスのシャンパーニュ地方、ランスに入り、ポメリーなどのセラーを訪れ、シャンパンを楽しんだ。そのあと、ヴェルサイユ宮殿などに立ち寄って、パリへ入り、数泊滞在したのだった。
そして最後にパリを訪れたのは、ついこの間……と思わずにはいられない、10年前の2008年。このときも、夫の仕事が旅の理由だった。無論、ミーティングは一日だけだったので、残る数日は休暇だったのではあるが。
当時はまだ、グローバルにはさほど有名でなかったシャンゼリゼの「ラデュレ」に偶然入り、タルトタタンを食べて、夫はそのおいしさに感動。それを契機に、わたしはタルトタタンを焼くようになったのだった。
今回、ラデュレへ行くことを楽しみにしていた夫だったが……。ランチが遅かったので、軽くサラダとスープをシェアしたあと、タルトタタンを食べようということになったのだが。
フレンチオニオンスープは味が薄く、ぬるくておいしいとは言いがたい。サラダはまあ、それなりによかったが、タルトタタンがもう、別物だった。
まず、見た目が全く違う。昔は大振りのリンゴが載った、甘酸っぱいおいしさだったのだが、今日のそれはもう、リンゴのうまみも感じられない、ぼんやりとした、締まらない味だった。
マカロンは相変わらずおいしいけれど、それ以外は時代の流れを経て、質が落ちてしまったのだろうか。
気になって、10年前の記録に残した写真を拡大して検証してみる。どう見ても、過去の方がおいしそうだ。それにしても、10年前の、ロン毛なわたしの、若いことよ。あらゆる方面から、10年前とは、つい最近ではない。ということを痛感させられるパリの初日、である。
●2008年:パリ旅の記録 (←CLICK!)