◎欧州旅、後半。朝のパリを慈しみ眺め、チェコの首都、プラハへ飛ぶ
10年ぶりのフランスは、とてもやさしく感じられた。
たとえば夕べ、ホテルのシャワーが水しか出なくなるなど、あれこれと不都合もあったけれど。
概ね、いい思い出ばかりだ。
敢えて言えば、祖国を追われた、或いは祖国から逃げ出すしかなかった人々を、路傍でしばしば見かける哀しみ。
少しのコインを渡しつつ、「あなたはどこから来たのですか」と尋ねたくなる衝動に、幾度も襲われた。
イミグレーションや空港では、手続きに手間取るインド国籍の夫と旅するときにはなおのこと、無数の国へ自由に訪れることができる日本のパスポートを持っている自分の境遇に感謝しつつ。
今、パリでは日仏友好160年記念のイヴェントが各所で開催されており、そのことにも言及しておきたいところだが、ともあれそろそろ、搭乗しよう。
今回の旅、前半のストックホルムとパリは、夫の仕事の都合で訪れたが、プラハとドレスデンは、わたしの希望で加えられたもので、思い入れが格段に強い。
プラハに到着して、まだ数時間しかたっていないのに、もう、書き残しておきたいことが脳裏から溢れ出している。
今回、3泊をプラハ(チェコ)で、2泊をドレスデン(ドイツ)で過ごしたあと、再びプラハへ戻って1泊し、ドバイ経由でバンガロールに戻ることになっている。
最初の3泊は、「ホテル予約担当」の夫による入念なリサーチによって選ばれた「ダンシング・ハウス」という建築物にあるホテル。
「男女がダンスする姿」をイメージしたとされているとのことで、古都に生まれた斬新な建築物なのだろうな……くらいに思っていた。
ところが、出発前に日本のアマゾンから取り寄せていた『プラハを歩く』をようやく機内で読もうとページを開いたら、いきなり冒頭に、「ダンスをするビル」のことが触れられていた。
第二次世界大戦中、麗しい建築物の宝庫だったドレスデンは、連合国軍からの爆撃で、壊滅的な被害を受けた。その爆撃にまつわる物語を検証しに、今回は3度目のドレスデンを予定しているのだが、その爆撃と、このビルディングは大きな関係があったのだ。
プラハは、基本的に爆撃を逃がれた都市なのだが、米軍がドレスデンと間違って、2発の爆弾を誤爆したという。
その一つが、この「ダンシング・ハウス」が立っている場所だというのだ。
その話を知るともう、このビルディングが特別な物に思えてくる。詳細はまた、後日、改めて記したいが、わたしの目には、広島の原爆ドームにさえ、見えてしまうのだ。
わたしがその話をしたら、夫は顔をしかめて、設計者はそんな意図を持っていないと思うと言っていたが……。
第二次世界大戦、ナチス、ユダヤ人街……と、遠目の過去の話も関心があることしきりだが、1985年以降のペレストロイカによって起こったこの国の革命など、社会主義が崩れ行くころの物語も興味深い。
ちなみにインドは1947年に印パ分離独立して以来、社会主義的政策を取っていたこともあり、東側諸国とのつながりは強かった。
1991年の経済の自由化も、ペレストロイカが端緒となった大不況が契機となっている。そしてインドとチェコの関わりも深く。インドの国民的靴ブランド、と思われているBataは、実はチェコスロバキアのブランドなのだ。
このことについても、いろいろと興味深いエピソードがあるのだが、取りあえずこのへんにしておいて、まずは、導入。
1994年の欧州3カ月放浪旅を決めたとき、基本的には起点のパリに到着したあと、地図を見ながらルートを決めるつもりだったが、いくつかの場所は必ず訪れようと、あらかじめ決めていた。
たとえば、幼少期から憧れていた白鳥の城、ドイツのノイシュバンシュタイン城。やはり子供のころに作品を見て心を奪われた、サルバドール・ダリの故郷フィゲラス、そして彼が晩年を愛するガラと暮らしたカダケスの家など。プラハもまた、必ず訪れるつもりだったから、当時必要だった観光ヴィザを取得するため、チェコ大使館を訪れたことを覚えている。
プラハに関心を持ったのは、中学1年のとき。サントリーのメルツェンビールのコマーシャルで、チェコの作曲家スメタナの交響曲『わが祖国』の第2曲『ヴルタヴァ(モルダウ)』を聞いたのが契機だった。そのことについては、ニューヨーク在住時に発行していたフリーペーパー『muse new york』の「旅するミューズ」のコラムで触れている。
またしても、ネット上に過去の記録が眠っているので発掘して後ほど転載したい。
ちなみに今から40年ほどまえの、サントリーのコマーシャルは、実に味わい深いものが多かった。たとえば2年前にバルセロナを訪れたときにも言及したが、サントリーローヤル(ウイスキー)のガウディ編やランボー編は、本当にいい。まさしく芸術。今でもYoutube上で見ることができるので、関心のある方はぜひ視聴されたい。
夕食は、西側と何ら変わらぬおいしい料理を。イカスミを練り込んだスパゲティ。きれいにデコレーションされたシーバス。24年前には想像し得なかった、今日という日。
眺めのよいダイニングで、モルダウ川、そして彼方に旧市街を眺めながら、脳みそがぐるぐると渦巻く思いだ。
◎プラハ、そしてヴルダヴァ川(『muse new york』1999年執筆より)
その曲を初めて耳にしたのは、中学1年の秋、音楽の授業の時だった。胸を突くような、繊細ながらも力強さをたたえたその旋律は、くっきりと私の耳に残った。部活の帰りにレコード店に寄り、LPを探した。
スメタナの連作交響詩「わが祖国」。授業で聴いたのは、第二楽章の「ヴルタヴァ(モルダウ)」だった。レコードジャケットにはヴルタヴァ川が横たわるチェコの首都、プラハの光景が広がっている。まだ見ぬその地に思いを馳せるように、ジャケットを開いたり閉じたりしながら、繰り返し聴いた。
中央ヨーロッパに位置するチェコ共和国は、ポーランド、ドイツ、オーストリア、スロバキアという4つの国に囲まれた海のない国。大きくボヘミアとモラビアという二つの地方に分けられる。
首都プラハの歴史は、9世紀、プラハ城の創設と共に始まる。天を射るかの如き数々の尖塔、今にも動き出さんとする聖人たちの彫像を備えた建築物など、美しいプラハの街並みを作り上げたのは、1346年、ボヘミア王となったカレル4世だ。同時に神聖ローマ帝国の皇帝でもあった彼により、今日見られるプラハの街が形成された。
プラハを訪れる者を引きつけてやまないのは、今なお中世の面影をとどめる街並み、そして気軽に芸術に親しめる環境だろう。ボヘミア国民音楽の父と称されるスメタナの名を冠したスメタナホールをはじめ、大小さまざまなシアターやホールが町中に点在しており、クラシック音楽やバレエを、まるで映画でも見に行くように気負いなく楽しめる。プラハはまた、実存主義文学の先駆者であるフランツ・カフカや、宗教改革者のヤン・フスらを育んだ街でもある。
あの音楽の授業から十数年経ったある春の日、私はカレル橋の上からヴルタヴァ川の流れを見下ろしていた。やがてエルベ川と名を変えてドイツを貫き、海へたどり着くその川は、思い描いていたそれよりも幅広く豊かに、蕩々と流れている。その姿をぼんやりと眺めながら、「ヴルタヴァ」の旋律を幾度となく口ずさんだ。