◎プラハ。思うところ多く、とめどなく、何を見ても何かを思い出す。
プラハでの一日があまりに濃すぎて、どう書き残すか編集が必要なほどである。
まず特筆すべきは、今年2018年は、チェコスロバキアの独立100周年だということ。ゆえに、プラハはかつてなく、多くのイヴェントが目白押しだ。
第一次世界大戦終結後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊。1918年10月28日、民族自決の理念に則し、チェコスロバキアの独立がプラハ・ヴァーツラフ広場で宣言された。現在のチェコ共和国の礎を築いた歴史に残る出来事である。
歴史の話題になると、尽きないので、一旦ここでおさめる。
今日のわたしは、ほぼ一日中、ここを訪れたときの、28歳の自分を傍らに感じながら、過ごしたのだった。3カ月の放浪旅といえば、いかにも自由で冒険心に満ちているかのようだが、当時のわたしは自分の将来がほとんど見えず、行き詰まっていた。
ひたすらに、働いてはいたけれど、未来のヴィジョンはなにも見えず。ただ、目の前にある「すべきこと」「したいこと」に忠実に向き合い続けて、今に連なっている。
あのころほど思い悩んではいないけれど、しかし未来がまだ見えていない、まだ成し遂げるべきことをやっていない、という点においては、当時も今も、あまり変わらないかもしれない。
昨日、1994年の旅日記を、久しぶりに読み返して、当時のプラハでの1週間を鮮明に思い出した。社会主義国的無機質な、病院のごとき安宿に1週間の宿泊。共同のバスルーム。固いベッド。味気ないシリアルと、水で薄めたよな、まずい牛乳。1週間の宿泊代が7500円という安さにひかれて泊まったが、たちまち後悔しつつ、しかし転んでもただでは起きない自分のがんばりが、文章の端々に滲んでいる。
あのとき、プラハにおいては、実に「残念なものばかり」食べていた。もちろん、低予算の旅だったから仕方がないとはいえ、当時のこの国には、おいしいと思えるものが、限りなく、少なかったのだ。イタリアやスペインでは、廉価でもおいしい食事にありつくことができたから。
翻って今日。この国の歴史、音楽、建築物、文化……あれこれと綴りたいことはあれど、まずは「食」から書来残しておこう。
朝食はホテルにて。朝からスパークリングワインがついてくる。朝から酔っぱらうわけにもいかぬので、ほんの少し、雰囲気を楽しむ程度に。
やれやれ、歳月を重ねて大人になって、贅沢になったものだ。
取りあえず、28歳の自分を安ホテルから呼んで、「卵でも肉でもパンでも、好きなだけ食べなさい」と、言いたい。
ランチタイムは、夫の選択による「Next Door by Imperial」。わたしが「キュビズム建築」を見たくて「チェコスロバキア・レジオン銀行」を訪れたあと、その近くの店を夫がガイドブックとネットでリサーチして選んだのだが、すばらしい選択だった。
チェコ出身の有名シェフ、ズデネック・ポールライフが腕を振るうこの店、伝統的なチェコ料理をモダンにアレンジした料理もあり、敢えてそれらを選んだ。
まずはオリジナルのビールで乾杯。鴨のグリル、牛肉のシチューを注文。料理はどちらもおいしく、ついデザートも頼んでシェアした。コーヒークリームやナッツの香りが絶妙で、思いがけず、充実のランチタイムである。
ランチをたっぷり食したので、夜は軽く、ビール・テイスティングへ。実はチェコは、ビール王国。ビール消費量はドイツでもベルギーでもなく、チェコなのだ。 「チェコではビールを”飲むパン”と呼ぶこともあるくらいに生活に浸透しているらしい。最も人気があるのは、ピルスナー・ウルケルであり、ビール好きの人間は朝食代わりにビールを飲むこともある。」と、Wikipediaは語っている。
透明感のあるピルスナービールの発祥の地でもある。
というわけで、夜はビールテイスティングへ。軽くつまみを頼んだら、これまたヴォリュームたっぷり。
ともあれ、ビールはどれもこれもおいしくて、甲乙付け難い。フルーティな味わいも捨てがたかったが、結局は「3. LOLLYHOP 15°」というIPAを選んで1杯。郷に入れば郷に従え。明日の朝は、ビールで迎えるべきか。
旅も後半となり、そろそろ「日本米と醤油味」が恋しくなるころだが、今のところはまだ、胃袋の疲弊より、食への好奇心の方が勝っている模様。胃腸&増量に気をつけつつ、残りの日々を健康に過ごしたい。
などと書くのも空々しい、飽食感あふれる写真群である。
◎壮絶な観光客の波に気圧されつつ、旧市街、モルダウ川、カレル橋。
プラハといえば、モルダウ川、それに架かるカレル橋とオールドタウン・スクエア。
昔日を面影をたどりに、市街を歩く。
覚悟はしていたが、それにしても、観光客の多いことといったら! 自分もその一人ではあるのだが。
24年前の日記にも、観光客の多さに辟易するとの記述があったが、その比ではない。
1985年、ソビエト連邦で始まったペレストロイカの影響を受け、チェコスロバキアでも民主化改革への機運が高まっていた。1989年終盤のビロード革命によって、チェコスロバキアの共産党政権が崩壊。
そのころから徐々に、チェコスロバキアにも観光客が入りやすくなってきた。
過去わたしが訪れた1年前の1995年、チェコスロバキアは現在のチェコ共和国及びスロバキア共和国に分割された。
以来、今日に至るまで、観光客は増加の一途をたどっているのではないだろうか。
カレル橋の欄干から、モルダウ川を見下ろしつつ、28歳のわたしに出会ったら、何を話すだろうか……などと想像してみる。
「あなた、今、英語力不足を痛感してるよね。来年は英語の勉強をしに英国に3カ月、行くことになるんだよ」
「その翌年は、1年の予定でニューヨークへ渡るんだけど、これが長居するんだな」
「インド人の男と出会って、結婚するんだよ。インド人だよ! 結婚だけならまだしも、インドに住むんだよ、インド! 行ったことないからよくわからないと思うけど」
「で、それ以降はずっと、日本には帰らないの。インドで生涯を終える気らしいよ」
なんてことを伝えても、喜ばれるどころか、気味悪がられるだけだろうな。
望ましいのか、残念なのか、ひとことでは判別しにくい未来の現在。
この橋の上で、ビートルズやABBAの音楽は、極めて違和感に満ちているのだが、それもこれも、時代の流れ。
24年ぶりのカレル橋で、24年後の自分を思う。生きていれば77歳、喜寿な自分。
今回撮影した自分の写真をネットから発掘して、転載したりしつつ、プラハに再訪してみるのも、おもしろいかもしれない。
自分が何をしているのか、まったく想像がつかない。
10世紀ごろのローマ発祥ロマネスク、12世紀ごろにフランスで盛んだったゴシック、16世紀に中央ヨーロッパで流行ったルネッサンス、18世紀初頭フランスで生まれたロココ、そしてアールヌーヴォーなど、さまざまな様式の建築物が一堂に会しているのだ。アール・ヌーヴォーの画家として有名なアルフォンス・ミュシャはオーストリア帝国、モラヴィア(現代のチェコ)に生まれた。
これらの建築様式については、浅薄な知識ながらも存在を知っていたのだが、実は今回初めて知ったのが「キュビズム建築」だ。
キュビズムといえば、パブロ・ピカソがジョルジュ・ブラックと共に始めた芸術表現であるが(説明すると長くなるので割愛。ぜひネットで検索を)、そのキュビズムのコンセプトを形にした「建築物」が、このプラハにだけ、あるというのだ。
今日は2時間ほど、市内のガイドツアーに参加したのだが、そのときに、キュビズム建築で有名な「黒い聖母マリアの家」を訪れた。極めて、興味深い! 更にはツアーのあと、昨日ネットで知ったところの「チェコスロバキア・レジオン銀行」も見に行く。こちらもまた、メッセージ性が高すぎるほどの、印象的な建築だ。
詳細を書き連ねたいところだが、とめどない。
明日からの旅も濃厚な気配につき、今日のことは今日のうちに記録しておきたく、ざっと写真だけでも紹介するつもりが、どんどん深みにはまってネット検索が終わらない。
終わらないところでかなり衝撃的な事実が見いだされた。
本来、「広島県物産陳列館」として建築されたらしき「原爆ドーム」は、チェコ人の建築家、ヤン・レッツェルによるものだという。
現在、我々が宿泊しているところのダンシングハウス。
第二次世界大戦のとき、この地をドレスデンと間違えて米軍が誤爆し、2カ所が爆撃されたうちの跡地に建てられたと、昨日、言及した。この外観の上部の形状をして、「原爆ドームに似ている」と思ったが、意図的に原爆ドームに似せたのではないか、とさえ思えてくる。
ちなみにここで紹介している写真は、「黒い聖母マリアの家」と、「チェコスロバキア・レジオン銀行」。
◎そして音楽の都としてのプラハ。クレメンティヌム鏡の間、にて
音楽の都としての名高いプラハではまた、極めて気軽に、廉価に、すばらしい音楽を肌身に感じることができる。
24年前のわたしは、憧れていたこの街で、気が滅入ることも多く、決していい思い出ばかりだったわけではないのだが、音楽やエンターテインメントに関しては別だった。
当時はわずか数百円で、エステート劇場でのバレエ、スメタナホールでのオーケストラ、クレメンティヌム鏡の間での弦楽四重奏を楽しんだ。
今回、旅の前にコンサートの詳細を調べて予約する余裕がなかったことから、前日ネットで検索し、昨夜はクレメンティヌム鏡の間での演奏を聴きに行くことにした。
およそ50名ほどが収容できる小さな教会のホールにて、演奏が行われる。わたしたちは少し早めに到着し、わたしは24年前と同様、一番前の席を選ぶ。
演奏は、ドヴォルザーク交響楽団のメンバーによって編成された弦楽四重奏のアンサンブルに加え、オルガン、そしてソプラノが加わってのヴァラエティに富んだ構成だ。
プログラムの写真を見ればお分かりの通り、誰もが一度はどこかで聞いたことがあると察せられる、極めてポピュラーで親しみのある旋律ばかりが、1時間の間に十曲以上、演奏されたのだった。
真の音楽好きにとっては賛否両論わかれるところかもしれないが、この観光客の多い町で、気軽に上質のクラシックに触れられるというのは最高だと思う。
どの曲も「サビ」の部分を集約して編集されており、無理矢理な印象が否めない曲もあったが、時に厳かなオルガンの響き、時に晴れやかなソプラノのアヴェマリアなどがホールを包み、夢のようなひとときである。
スメタナの『わが祖国』も、第二楽章の『モルダウ』部分が、起承転結のサビ部分がやや強引に引っ張りだされていて、苦笑してしまうほどであった。しかしながら、4人の息のあった「一糸乱れぬ」演奏は、心の琴線に触れて仕方なかった。巡る音は限りなく安定してやわらかく、滑らかに、高音にさえ深みと落ち着きがあり、心地いい。
アンサンブルの細い音色の向こうに、壮大なオーケストラの音が聞こえてくるような気さえする。『モルダウ』が好きすぎることもあり、最後はもう、感涙の極みだった。
この街は、観光客が訪れるところを駆け足で巡るのではなく、音楽や建築、そして昨今では食さえも楽しむべく、長期滞在すべきなのだということを実感する夜でもあった。
◎そして音楽の都としてのプラハ。クレメンティヌム鏡の間、にて
建築物を巡るツアーでは、アカデミックな風情のガイドとともに、2時間に亘って町を巡った。
ここで得た話もまた興味深く、書きたいことは尽きぬ。
エステート劇場に火薬塔、ユダヤ教の祈りの場であるシナゴークなど、それぞれにキャプションを添えたいところだが、明日からはドレスデン。
今日はまた晴天に恵まれており、そろそろ出かけるべく、写真だけでも載せておきたい。
ユダヤ人街の、とある建物の前の石畳に埋め込まれていた2つの碑文。
かつてここに住んでいたユダヤ人母子らしき名前だとか。
生年と没年、死んだ場所(アウシュビッツ)が、チェコ語で刻まれている。
歴史を未来に残すため、昨今はじめられたメモリアルの活動だという。
こうしておけば、人の邪魔になることなく、永代、残り続けるがゆえ。