A.P.J.アヴドゥル・カラム氏が、昨日7月27日の夜、急逝したからだ。科学者であり、政治家でもあった彼は、教育にも非常に熱心で、多くの学校を訪れては、若者たちに語りかけていた。
昨日、北東インドに位置するメーガーラヤ州の州都、シロンにあるIIM(インド経営大学院)にて、レクチャーをしている最中に心臓発作を起こして倒れ、病院に運ばれたときにはもう、息を引き取っていたという。83歳。
なんという、すばらしい、死に様だろう。
わたしは、彼の偉業を詳しく知るわけでも、人となりについてを知るわけでもない。彼の長い人生の、特筆すべきポイントだけを、活字を通して見知るばかりである。しかしながら、その亡くなったときの様子を知った瞬間、すばらしい生き方をされたのだろうな、と思わずにはいられなかった。
タミル・ナドゥ州の漁村、貧しいイスラム教徒の家庭に生まれ育った彼は、勉強が好きだった。学校に通いながら新聞配達をし、学費に充てていたとの記事も目にした。現在、99歳になるという長兄によって、学費を支援してもらったとの話を聞いたこともある。
彼は特に成績優秀というわけではなかったらしいが、数学は秀でていて、根気づよく、こつこつと勉強をするタイプだったようだ。彼は4年間通って卒業した大学の学科がどうしても気に入らず、改めて別の大学に入り直して航空学を学び直したという。
その経歴を見るだけでも、非常に根気があり、筋が通っていて、我慢強い性格の人物だったということが察せられる。
彼は、「インド宇宙開発の父」と呼ばれたヴィクラム・サラバイによって設立されたISRO(宇宙開発研究機構)に職を得、やがてインド初の国産誘導ミサイルの開発に成功する。ゆえに、「インド・ミサイルの父」とも呼ばれて来た。1990年代、BJP政権だった時期には、核実験の主導権を握っていた。
この核実験が契機となり、印パ間の緊張は極めて高まったこともあり、世論は揺れた。
その後、2002年から2007年までは、第11代大統領を務めた。ちなみにインドは議院内閣制の政体で、大統領は形式的、象徴的な存在である。政治的な実権は、あくまでも総理大臣(首相)が握っている。
これらの写真は、カラム氏の宇宙開発における足跡をたどったサイトから、借用した。1960年代のものらしい。
インドの宇宙開発が産声をあげたころは、ロケットのパーツを、自転車で運んでいた。しばらくたったあとでさえ、パーツが牛車で運ばれている時期もあった。
無論、インドでは今でも、牛車やロバ車や馬車は現役で、ロケットのパーツではないにしろ、我々の暮らしを支える何か、を運んでくれているのではあるが。
インドの宇宙開発の歴史は、多分、非常にドラマティックだ。わたしは、数年前より、日本のクライアントからの依頼で「インド年表」を作る仕事に携わっており、1991年以降のインドの、さまざまなジャンルに亘ってのニュース、トピックスを紐解き、整理して来た。
あまりにも幅広いテーマであることから、それぞれを深く考察することは不可能で、非常に表層的ではあるものの、時代時代のインドのニュースを追うことは、意義深く勉強になる仕事である。その作業の中で、最も感銘を受けたテーマのひとつが、「宇宙開発」だった。
何度かの失敗を繰り返しつつも、2000年代に入ってからの躍進は目覚ましく、「打ち上げ成功」のニュースが相次ぐ。国内の衛星のみならず、世界各国の衛星を複数搭載したPSLV(極軌道打ち上げロケット)を次々に打ち上げ、軌道に載せることに成功している。
2008年4月には、日本、カナダ、ドイツ、オランダなどの人工衛星を10基も積んだPSLVを発射し、一度に10衛星を軌道投入した。ちなみに、インドに衛星を飛ばす依頼が多いのは、その費用が先進諸国に比べて劇的に安いから、ということがあるだろう。
昨年の9月には、前年に打ち上げられていたアジア初の火星探査機「マンガルヤーン」が予定通りに火星周回軌道に入るという快挙を成し遂げた。地球以外の惑星の周回軌道に、探査機投入を実現したのは、米国、旧ソ連、欧州連合に続く4番目であった。
ヤシの葉が揺れる牧歌的な道が、遠く火星の軌道まで続いているのだというその先を見据えて、若かりしころのカラム氏らは、努力に努力を重ね、研究に研究を重ね、切磋琢磨されてきたのだろう。
そうして地位や栄誉を得てなお、奢ることなく、金品にまみれることなく、欲をかくことなく、死の間際まで、次なる世代に熱く語り続けていた人は、ただそれだけでもう、尊い。
彼は生涯、独身だった。しかし、彼を慕い、敬い、愛する「子」たちは、この国には、数多、いることであろう。
これは、わたしが撮った写真だ。5年前、トヨタ工業技術学校の卒業式に招かれた際、撮影したもの。当時、月に一度のペースで連載していた西日本新聞のコラム『激変するインド』にも、この時の様子をレポートした。以下のブログにも記録を残しているので、ぜひお読みいただければと思う。
彼は、自分の言葉を、学生らに反復させるのが常だったとのことだが、このときも、そうだった。
I bring glory to the nation.
Contribute to the nation.
貧困層出自の若者らが、3年間で見違えるほどの成長を遂げ、卒業の日を迎える。大きな目を一層大きく見開いて、きらきらと輝かせて、壇上のカラム氏を見つめ、言葉を反芻する彼ら。
「希望する心」の偉大さをもまた、感じたものだった。
実は、昨日、NGOを運営する友人に誘われ、急遽、NGOのCEOが集う会合に参加したのだった。
NGOとCSRとの結びつき、がテーマであるその会合で、パネルディスカッションに耳を傾けつつ、わたしもまた、どんなにささやかでも、自分にできることを、なぜかこの異郷の地、インドにおいて、続けて行こうと思った矢先のことである。
偉大なる人物の生き様を垣間みることで、改めて、自分の歩くべき道を、見直す。
I bring glory to the nation.
とまでは、いかないまでも、
Contribute to the nation.
とまでも、いかないまでも、
せめて、
Contribute to the society.
を、心の片隅に留めよう。まだまだ見えない、わからないことばかりの人生。
自分の進むべき道を、丁寧に、手を抜かず、模索しなければと、心新たにする今日だ。
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◎トヨタ工業技術学校卒業式の話題だけでなく、企業の社会貢献その他についても触れているこの過去の記事。やや長いけれど、これを機に、ぜひ目を通していただければと思う。
■トヨタ工業技術学校卒業式/日印の狭間で。2010/07/31 (←Click!)