夫が卒業したMBA、ウォートン・スクールの教授陣がインドへ視察旅行へ来ているということで、卒業生らによる歓迎のパーティが開催された次第。
日本人には、ハーバードやスタンフォードといったビジネススクールがよく知られていると思う。実はわたしも、米国に暮らし始めるまでは知らなかったのだが、ウォートン・スクールは、全米で最初に設立されたビジネススクールでもある名門校だ。
数カ月前に渡米した際、ニューヨークからフィラデルフィアまでドライヴしたのは、このMBAの同窓会が開かれていたからである。
■ウォートン・スクール (←Click!)
欧米各国、また欧米の文化を強く受けているインドにおいては、夫関係の社交のパーティに、伴侶やパートナーが同伴するのは一般的なこと。ゆえに、夫と出会って以来、婚姻前の「ガールフレンド」だった時代を含め、米国で、インドで、かれこれ20年近く、夫のキャリアに便乗して、さまざまなパーティやイヴェントに参加して来た。
夫がバンガロールにて、MITの同窓会を立ち上げたこともあり、拙宅でパーティを催したこともある。その際には、もちろん妻は手料理をふるまって、もてなした。
山口県下関市の、日本を離れたら最早、いや、日本の国内でも、ほぼ、誰も知らない小さな女子大を卒業したわたしが、30歳で渡米し、英語を学び始めるまでは、ろくに英語でコミュニケーションを図ることさえもできなかったわたしが、世界を舞台に、一流の仕事をする人々に接する機会を得られていることは、ほかでもない、夫との出会い、のおかげである。
彼と出会って、久しく歳月は流れたが、未だに「結婚」によって、伴侶の過去をもひとまとめに自分自身が背負えること、背負わされることの不思議を思う。
自分自身のキャリアだけでは、出会わなかったであろう人々、関わることもなかったであろう人々と語ることができるのは、非常に刺激的なことである。
もっとも、会話を楽しめる人物ばかりだというわけでは、もちろんないのだが、それでも、旧知の彼らに会い、言葉を交わすことは、もはや自分の同窓会のような気さえ、してしまう。同時にまた、普段は「微妙」な側面も多い夫の存在を、しみじみとありがたく感じる。
米国でのパーティの場合、カクテル、そして立食……というケースが一般的であった。もちろんテーブルが用意されている場もあったが、立ちっぱなしの時間が長かったように思う。米国在住時には、足腰が強くないとパーティには参加できないな、と思っていたが、インドでもそれは、あまりかわらない。
ただ、インドの場合は、カクテルとアペタイザーのあとに、「しっかりブッフェで食事をする」という文化があることから、必ず円卓が用意されている。会話も一段落したところで、料理を取りに行き、腰を落ち着けて食べるという場合も多々ある。
わたしとて、日本を離れたばかりのころは、そのようなパーティに慣れているはずもなく、戸惑うことも多かった。しかし、徐々に、初対面の人たちとの会話のはじめ方や自己紹介の仕方を、身につけて来た。
世間からは社交的だと思われがちなわたしであるが、そもそもは、特段、ネットワークを広げたいとか、知り合いをたくさん作りたいとかいう衝動はない。自分のビジネスで生計を立てていたころ、すなわち米国在住時は、それなりに利害関係を意識しつつ、人との出会いを探った時期もあったが、今となっては、「シンパシーを感じられる人」と、会話を楽しみたいと思う。
さもなくば、静かに一人、でノープロブレムだ。
言葉を交わす人の中には、わたしが卒業生ではないことを知り、わたしの仕事や行っていることに対して関心がないせいか、あからさまに興味を損なった表情をする人もいる。それもまた、真理、である。
そんな中、ジェイと久しぶりに再会できたのは、本当にうれしかった。インド移住直後の富裕層インタヴューの仕事で、クライアント女史とともに、彼の家を家庭訪問させてもらったことがある。当時、DELLコンピュータのトップエグゼクティヴだった彼は、しかしカジュアルな独身生活を楽しんでいて、米国とインドを行き来する日々を送っていた。
ミュージシャンでもある彼は、自宅にスタジオを作っていて、そこで音を聞かせてくれたりもした。音楽関係の仕事で日本へも1、2年に一度は訪れているという。
中でも忘れられないのが、ムンバイのナイトツアー。当時ムンバイにも住んでいた我々夫婦は、実家がムンバイにある彼と、11/26/2008のテロの直後、再会した。その際に、テロにまつわるさまざまな裏話を聞き、そのあと、彼が夜のムンバイを案内してくれたのだ。
ムンバイの底知れぬ深さ、妖しい魅力を、肌身に感じた夜でもあった。
■テロを巡る真実の断片。ナイトツアー@ムンバイ 12/20/2008 (←Click!)
今、読み返すだに、あのテロの凄惨な場面が蘇り、息が詰まる。このレポートは淡々と書いているが、当時のわたしは、米国で同時多発テロを経験したのと同じくらいの、強い衝撃を受けていて、決して健全な精神状態だったとはいえない。
当時の状況、また自身の思いを、こうしてブログに書き残しておいてよかったと、改めて思う。
食事の際に就いた円卓は、夫やジェイのほか、教授陣が数名。自己紹介をするときに、在留邦人のメンバーを対象としたNGOを立ち上げ、ヴォランティア活動もしている、ということを話すときの、「NGO」というキーワードが、やはりプロフェッショナルな印象を高めるのによい、ということも、今回、痛感した。
たとえ同じ内容のことをやっていても、肩書き、ステイタス、というのは、相手に自分を理解してもらうための近道でもあると、思う。フリーランスのライター、やってます。というよりは、○○新聞に連載している、という言葉を添えた方が信憑性があるように。
教授らは、どちらも日本企業とのビジネス経験があるらしく、当然、日本にも詳しい。
日本はさておき、一人の教授が語り始めたイスラム社会の歴史の話が非常に興味深かった。大半が専門的な話で、理解できたのは多く見積もっても3割未満という残念な状況であったが。
話の中で、ジェイが言う。
「僕が子どものころ(1970年代)のムスリムの女性は、非常に西洋化されていて、モダンでおしゃれでしたよ。アフガニスタン系の女性たちも、ミニスカートなんか、履いてましたからね」
そのコメントに、耳を疑う。漆黒のブルカに身を包んでいるムスリムの女性たちが、ミニスカートだった?
延々と、遥か昔から、ムスリムの女性たちに自由はなく、虐げられてきたのであろう……と思っていたのだが、どうやら歴史を遡れば、全ムスリムがそうだったとは、限らないようである。
大きな鍵を握るのはイラン。同じイスラム圏ということで、アラブの国だと思い込んでいたが、違うらしい。アーリア系のペルシャ人が暮らすこの国は、イスラム圏でありながらも20世紀以降は近代化につとめていたそうだ。ちなみに、インドに流れ着いたゾロアスター教(パルーシー)の人々の出自もペルシャである。
アラブの人たちよりも色白なのが特徴だ。禁欲的なアラブに対し、享楽的なライフスタイルだったのもペルシャだという。
そんな自由な気風のイランに変化が起こったのは、1979年。イラン革命により、王制が制され、ホメイニ師及び、彼を支持するイスラム教会により、「恐怖政治」が始まったという。極端なまでに生活文化が規制され、女性の地位もたちまち下がった。
時代を重ねて、向上するものあり、下降するものあり、まさかムスリムの女性がインドでミニスカートを履いていたなど、うまく想像できない。
それにつけても、ムンバイという大都市の底知れぬ魅力に改めて、引きつけられる思いだ。
ほとんど最後まで残った我々10数名は、二人の教授を囲んで、神妙に話を聞く。同窓生らの表情が、学生に戻っているのが微笑ましい。
わたしはといえば、話にまったくついていけず、眠気を覚ますのに精一杯であったが。ともあれ、短い会話の端々からも、未知なるインドの側面を紐解くことができ、楽しい夜であった。
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タージ・マハルパレスホテルが完成した1903年あたりから、10年おきにムンバイにて、時間旅行をしてみたいものだ。以前も紹介した、ムンバイの古いフィルムを掲載しておく。
◎1932年。英国統治下のムンバイ
◎1958年のこちらの動画は、今も変わらぬ部分が随所に見られる