夫が今朝、ニューヨークへと飛んだ。1週間余りの滞在となる。我々夫婦は米国永住権(グリーンカード)を保持していることもあり、毎年5月ごろ、必ず一度は渡米している。夫は本社がニューヨークだということもあり、それ以外にも渡米することがある。
しかし今回は、仕事が主目的ではない。親戚の結婚式に招待されたからだ。インド系米国人の伯父ランジャンと、その妻チャンドリカ夫妻の娘、リタが結婚するのだ。その結婚式に出席することから、前後に自身のミーティングなども盛り込み、1週間余りをマンハッタンで過ごす。
夫の一族は、インドでは珍しく、非常に親戚が少ない。夫の父ロメイシュは一人っ子ゆえ、父側のいとこはいない。亡母には兄が一人で、そこにはひとり息子がいるだけ。つまり、夫と義姉のスジャータには日本で言う「いとこ」が一人しかいない。
その一方で、インドの一般的な家庭と同様、遠縁の親戚も、子どものころからの親戚とは親密な付き合いをしている人が多い。世代が上ならおじさん、おばさん、世代が近ければ、「いとこ」だろうが「はとこ」だろうが、「いとこ」と呼ぶ。
ちなみにランジャンは、アルヴィンドの母方の祖母の姉の息子、である。
わたしが初めて伯父夫妻と出会ったのは、夫と出会ったばかりのころ。即ち19年前からの付き合いである。サンクス・ギヴィングデーのランチに初めて招待されたときには、その豪奢ながらも品のあるライフスタイルに目を見張ったものだ。夫婦揃って実業家であり、当人らはもちろんのこと、招かれた身近な人々もまた、優れて世に出ている人が多い。
30歳を過ぎて渡米し、しかし英会話もろくにできないわたしにとっては、自分と夫(当時はボーイフレンド)のバックグラウンドの違いをまざまざと見せつけられる思いだった。が、臆するよりもむしろ、その未知なる世界に身を置けることが、単純に楽しく、面白く、興味深かった。
その思いは、今でも多かれ少なかれ、続いている。
さて、上の写真は、そのランジャンとチャンドリカから届いた「結婚招待状」ならぬ、「結婚招待箱」だ。
出会った当時はまだ少女だったリタが、このたび、米国人男性と結婚するのだ。わたしも出席したかったが、ミューズ・チャリティバザールの直後で、諸々の仕事や雑務が立て込んでいる上、来月には日本への一時帰国もある。迷った末、断念したのだった。
蓋をあけると、招待状が入った分厚い封筒。その下に、化粧紙に包まれた衣類が入っている。
夫にはシルクのクルタ、わたしにはシルクのサリーだ。数カ月前、新郎を含めた一家はインドを訪問し、準備をしていた。バンガロールにも来訪していたので、わたしたちも夕餉を共にした。
その後、チャンドリカの故郷であるチェンナイへ赴いたらしく、そこから発送されたようだ。サリーはチェンナイのあるタミル・ナドゥ州のカンチプーラム織りだ。この写真ではわかりにくいが、艶やかな濃いピンクの美しいサリーである。
招待状のほかに、ぜひ参列して欲しいとの旨が記されたチャンドリカ手書きのメッセージ、返信用の封筒などもある。更には、マンハッタンにある「アメリカ自然史博物館」の地図も入っている。
招待状を見て納得した。3日に亘る結婚式のイヴェントの一つが、「アメリカ自然史博物館」で開催されるようである。
初日は夜、マンハッタンにあるソーシャルクラブで歓迎式典。これはインドの結婚式で言う「サンギータ」、食べて飲んで踊っての音楽の祝宴だ。2日目は夕刻から、アメリカ自然史博物館内のテラスで婚姻の式典。3日目はマンダリン・オリエンタルのバンケットでブランチのパーティというプログラムだ。
どこをどう見ても、オランダ系米国人であるところの新郎の背景は窺い知れない、インド系米国人であるところの新婦とその一族の迫力が全面に押し出された形の「結婚招待箱」である。
面白い。
しかも、結婚式に際しての、オリジナルのウェブサイトまで作られていた。
全世界に向けて、個人の結婚式情報を発信、である。このプライヴァシー感、皆無な感じ、新郎側のご家族はいったい、どのような気持ちで受け止めているのだろうか、興味深い。
■LITA & JIM (←Click!)
チャンドリカはニューヨークのマッケンジー(マッキンゼー)カンパニーにおいて、40代のときに史上最年少でエグゼクティヴに抜擢された女性で、米「フォーブス」誌が発表する「世界で最も影響力のある女性100名」にも選出されたことがある。
その後、自分でもビジネスを立ち上げ成功させ、更には音楽の道でも才覚を発揮。5年前にはグラミー賞にもノミネートされた。
そのときには切に驚いた。記録はこちらに残している。
■天は二物を与える。チャンドリカ叔母、グラミー賞ノミネート! (←Click!)
上の記事にも記しているが、チャンドリカの妹が、ペプシコのCEOのインディラ・ヌーイで、チャンドリカ以上に、世界的に名の知れたビジネスウーマンだ。
米『フォーブス』誌が発表する「世界で最も影響力のある女性100名」だけでなく、米『フォーチュン』誌の「米国の最もパワフルな女性50人」など、あちらこちらでその存在感がアピールされている。
初めて会ったのは、やはりサンクスギヴィングデーであった。当時はまだ、確かCFOだった彼女。家族や親戚、友人らが集うとはいえ、華やかに着飾る人が多い中、ペプシコのトレーナー姿で、ペプシコ傘下の飲食物(フリトレーのスナックやトロピカーナ)を一抱え、まるで業者のように登場したインパクトを今でも忘れられない。
その彼女が今回の結婚式のイヴェントにも深く関わっているようで、3日目のマンダリン・オリエンタルホテルでのパーティは彼女が主催だとのこと。
こうなるともう、結婚式というのは一つの理由であり、目的ではない、とさえ思える。
世界各国に飛び散って暮らす家族や親戚が一堂に会する稀有な機会。同時に大切な社交の場でもある。もちろん、ビジネスを含め、である。そのようなネットワークは、インド社会においては、ひときわ力を発揮する重要な要素でもある。
インドに移住する前、たとえば英国に拠点を置くミッタル製鉄のCEOラクシュミー・ミッタル(マルワリと呼ばれる商業コミュニティの出自。財閥や富裕層が多い)の娘の結婚式のイヴェントは75億円相当を費やし、ヴェルサイユ宮殿を貸し切って行われた……といった記事を見たときには、「富裕層とはなんと乱暴なお金の使い方をするのだろう」と思った。
確かに65億円はすさまじすぎる。
しかし、数年前、わたし自身がランジャンの兄、アロークの娘の結婚式に出席するため、チャンディガールに数日、ゴアに数日滞在して、すべてのイヴェントを経験してから、少し考え方が変わった。
なにしろ、日頃は会うことのない親戚と顔を合わせることができる。夫の家族のバックグラウンドの話しが聞ける。それぞれの宗教(新婦はヒンドゥー教、新郎はEast Indian呼ばれる宗派のクリスチャン)を反映した挙式を経験できることも楽しかった。
特にわたしは異邦人なだけに、ただもう無責任に、異文化体験が面白かった。
目が眩むような派手な結婚式の様子は、以下に記録を残している。
■[Dehradun] 親戚の結婚式レポート:デラドゥーン編 (←Click!)
■[Goa] 親戚の結婚式レポート:ゴア編 (←Click!)
こうして書いているうちにも、親戚の中に、次に結婚する若者が当分いない状況とあっては、やっぱり多少無理をしてでも、ニューヨークへ行っておくべきだったか、という気持ちになってくる。
自分のバックグラウンドだけでは決して経験できなかったことを、インド人の夫と結婚したことで身近なものにしている。こういうことを思うたび、いろいろあるが、好奇心をかき立てられる出来事が生涯続くであろう国際結婚というのは、面白いものだと改めて思う。
昨夜、夫と夫の親戚の話しをしながら、以前から思っていたことを現実にする時期がきているかもしれない、との思いに駆られている。夫の親戚にインタヴューし、記録を残すという作業だ。
夫の親戚の話、特にすでに亡くなった祖父母や曾祖父母をはじめとする人々の話しは、非常に興味深い。インド独立以前、英国統治時代のインドに遡るそれは、またよりいっそう。
特に、現パキスタンのラホールで弁護士だった母方の曾祖父の話しは非常に興味深い。パキスタン建国の父であるジンナーはかつて検事だったのだが、彼と法廷でたたかい、曾祖父は勝訴したのだという。
それはイスラム教徒とスィク教徒の聖地を争う裁判で、曾祖父はスィク側についていたのだとか。そのような話しを聞くにつけ、うろ覚えの話ししかしてくれない夫ではなく、伯父らに話しを聞いてみたいとも思うのだ。
みな、高齢となった今、話しが聞けるのはここ数年のことかもしれない。
そう思ったら、今やらなければ、という気がしてきた。夫も「それはいいアイデアだ! ぜひやるべきだ。パパにも知らせよう」と乗り気である。
「わたし、日本語で書くからね」というと、
「僕が英語にするから大丈夫」だとのこと。日本語の読み書きが一切できない癖に、何を言うかと思えば、わたしに英語の叩き台も書かせて、自分が校正するとのこと。
英語での執筆は確約できないが、ともあれ日本語では、書くことにした。
というわけで年末から来年にかけては、デリーを訪れた際には積極的に親戚と対面し、時間を割いてもらい、ニューヨーク、バンガロールなどを含め、親戚約20名のインタヴューを実施しようと思う。できればチャンディガールにも足を運びたい。
彼らの人生を通して、インドの歴史から導かれる出来事を照らし、リアルなインドの断片を、わたしなりにまとめてみたいという思いの高まりだ。
折しも今週の金曜日、西ベンガル州政府が、独立運動家スバス・チャンドラ・ボースに関する、これまで公表されなかった史実を公開するとのニュースが流れている。
あのとき、彼が飛行機事故で死んでいなかったら(実際には1980年代まで生存していたという説もある)、そしてネルーやパテルやガンディの前に姿を現していたならば、今のインドとは異なるインドであっただろうか。
たった一人の人間の存在が、国の有り様をかえる。過去に連なる現在、現在から遡る過去。そのストーリーをたぐり、この国を知ることは、面白い作業でもある。
なにしろ、現在のインドは日進月歩、あらゆる事象が変化を遂げていて、何を捉え、何を伝えていいのやら、わからなくなってしまう。
しかし、過去は、変わらない。変わらないが、そこから見える風景は、インタヴューをしているうちにも、めくるめく移り変わることであろう。
身近な人物から接近すれば、歴史も異文化も、ぐっと身近になる。無論、他人が読んでも興味を持てる内容にできるかどうかは、わたしの編集力と筆力にかかっているのだが。
このインタヴューは必ず実現させるべく、敢えてここに公言しておこうと思う。