昨日は、わたしがバンガロールに暮らし始めたころに出会った友人たちと、ランチをともにした。
それぞれに、日本とインド以外の異国の地に暮らしたことがあり、インド生活を前向きに楽しんでいた彼女たち。
この10年のうちにも、バンガロールはめまぐるしい変貌を遂げているが、その顕著な変化は、バンガロールへの第一歩が、「旧空港」から「新空港」に変わった2008年であろう。旧空港に出迎えられた「世代」の駐在員やその家族の多くは、これから始めるインド生活に対し、「底知れぬ不安」を抱いたに違いない。
ここで詳細は触れないが、それはそれは「語れる」空港であった。
あれから、幾星霜。
バンガロールで生まれたジェイクは小学校2年生だ。出産直後、病院へ会いに行ったことが、つい最近のように思い出される。
ランチは、表参道にあるピッツェリア、カンテラへ。友人お勧めのこのお店。どの料理もおいしくて、普通、久しぶりに再会する人たちに会うときには、ついつい話に夢中になって、料理を味わうことに集中できなくなるのだが、このお店では、おいしさもしっかりと堪能できた。
レヴァーのパテに、フォアグラの味噌漬け、イチジク添え。各種生ハムの盛り合わせもまた、美味。連日、アルコールを摂取し過ぎなので、ランチタイムは控えたのだが、これはもう、飲んでおけばよかったかと、今、写真を見ながら、思い返される。
こちらは、全粒粉のピザ。ヘルシーかつおいしい! なにしろ全粒粉 (ATTA)がたっぷりのインド。バンガロールに帰ったら、ATTAでピザを焼いてみようと思わされた。
我が家のお好み焼きはいつもATTAで焼いていて、それがとてもおいしい。ピザだって、素朴においしく焼けるはずなのだ。
マルゲリータ、数種類のチーズのピザ。シンプルが好みのわたしだが、彼女たちもみな、それが好きとのことで、話がまとまるのも、不思議とうれしい。
彼女たちとは、それぞれ数年の短い間のお付き合いだったが、こうして今でも連絡を取り合い、お会いしているのは、なぜなのだろう……と思い返したところ、いくつかの共通項があることに気づいた。
その一つが、みな、わたしが移住当初に開いていた「ミューズ・クッキングクラス」に参加してくれていたことだった。
当時我が家に住み込みで働いていた使用人のモハン。彼は義父が手配してくれた人で、家事全般を引き受けてはくれたが、本来は料理人だった。
彼が台所の実権を握っていた1年余り。助かったがしかし、いろいろと問題はあった。そんな中、彼の来たインド料理レシピを学び、みなとシェアしていた時期があったのだ。
過去の記録を紐解いてみれば、懐かしい写真が! こうして見ると、やはりこまめに記録を残しておくことの楽しさを思う。みんな、若い!!
■今しばらくは、インドにて。ミューズ・クッキングクラス (←CLICK!)
ミューズ・クリエイションを立ち上げる以前、一人で久しく続けていた「チャリティ・ティーパーティ」に参加してくれ、一緒に慈善団体を訪問したことのある友人もいる。記憶を辿れば遠く、わたしのこの活動も、ずいぶん年季が入ってきたものだと思わされる。
デザートもまた、どれも美味。またこのあたりに来ることがあったら、必ず再訪したいと思わされるお店であった。
瞬く間の数時間。バンガロール移住当初の「インドでの初心」を思い出させられる、さまざまなエピソードを回想しつつ、今の自分を思いつつ、この先の自分の有り様について、思いを馳せる。
久々の東京で、旧友らと会い、楽しき時間を過ごす一方で、現在、この国が抱えるさまざまな大問題について、考えずにはいられず。
日本を離れて20年。今が一番、心が塞ぐ。
考えれば考えるほど、わからないことが多すぎる。途方に暮れる。この国の10年後の有り様が、想像できない。
少なくとも、10年前には、こんな心境にはならなかった。
とてつもない契機のひとつは、福島の原発事故。あの事故以来、楽観視できる要素が、悉く吹き飛ばされた。
にもかかわらず、現在進行形で続いている、拡大している事故の事実が、異次元のことであるかのような扱いで。
自分のライフに関わりのあるインドや米国の話は、この際、さておいて。
露呈している事実。隠蔽されている事実。歪曲表現されている事実。
溢れ変える情報の中から、「真実」を拾い上げることの困難。
国民の、いったい何割が、情報を取捨選択し、理解し、自らの判断力で物事を見極める能力を持ち合わせているだろう。それ以前に、いったい何割が、現状に対する危機感を抱き、何らかの行動に移そうとしているだろう。
わたしがもしも、ここに居続けたら、いったいどういう考え方をしていただろう。
豊かさを追求した果てにたどりつく場所は、状態は、いかなる世界なのか。
思うところは尽きぬが、しかし日本を離れた日本人が、日本のネガティヴな点について語ればたちまち、疎ましがられるということも承知している。今のところは、このくらいにしておこう。
ただ、若者たちのために、未来のために、大人が100年先、200年先を見越して、現在の国づくりをしないことには、ということだけは、強く思う。
夜は一旦、ホテルに戻ったあと、六本木へ。今回の滞在先は、六本木と赤坂の間にあるANAインターコンチネンタル。毎回、帰国のたびに滞在ホテルを選ぶのに迷うのだが、このロケーションはなかなかに、便利だ。
夜は、東京在住時、27歳でフリーランスライターになったばかりのころ、一緒に仕事をさせてもらっていたさかえさんと再会。在日コリアンの女性で、彼女のお姉さんは芥川賞を受賞された作家、李良枝さんだ。もっとも、わたしとさかえさんが初めてお会いしたときには、すでに良枝さんは37歳という若さで急逝されていた。
良枝さんの遺志を継ぐ形で創刊された「日中英韓」の4カ国語情報誌、『We're』の編集を、わたしは1年あまり、手伝っていた。新大久保のオフィスに通い、多国籍な人々と関わり合っていたあの日々は濃く、さかえさんとは、短い間のお付き合いだったにも関わらず、ずっと会い続けている大切な友である。
彼女と再会した場所は、六本木のメキシカン・レストラン。アメリカンなテックスメックスではない、本場のメキシコ料理が味わえる店だ。
わたしがフリーランスになる前、まだ会社員だったころに、メキシコへトウモロコシをキーとする食の取材に出たことがあった。26歳のころだ。そのとき、特集の編集だけでなく、記事も書かせてもらったのが、ライターとしての初めての仕事だった。
ゆえに、メキシコ料理には、実は思い入れが強い。だからこそ、アメリカナイズされたメキシカンは、真のメキシコ料理ではないな、などと思ってしまっているのだが、この店は本気であった。
実はこの店、さかえさんの子供たちがアルバイトをしていた店で、彼女は常連である。わたしが日本を離れたころに、年子で生まれた子供たちは、大学生となり、二人とも米国留学している。またしても、人の子供の成長で、歳月の流れを実感する。
二人して「字が小さいから、メニューが読めない」「老眼鏡、忘れた」などと言い、結局は、オーナーにお任せ。野菜もたっぷり、量より質で、とお願いしたところ……。
前菜のあと、良質な野菜のグリルが、香ばしく炭火で焼かれたもの、それからフィレ肉とポークのグリルが届いた。このポーク、メキシコ産のアボカドを食べて育った「アボトン」という豚の肉とのこと。この豚肉がまた、非常においしく、なんとも幸せである。
さかえさんとは、近況報告にとどまらず、話題はどうしても、社会問題に転ずる。ネットの情報だけではわかりえない日本の現状についてを、彼女に尋ねつつ、不明瞭な点を少しでも明らかにしたいが、しかし、わからないことだらけ。
政治的なことをここで綴るつもりはないが、いずれにせよ、日本が重大な局面に立たされていて、しかしその危機感、切迫感が、日常生活のなかでは、さほど迫っては感じられていないのではないか、ということも、思う。いや、それはあまりにも、漠然とした捉え方で、偏見ある見方かもしれないが。
ほろ酔いながらも、しっかり食べ、しっかり語り、思ったよりも静かだった、六本木のハロウィーンパレードの夜は更けてゆき。
急に冷たくなった秋風に吹かれながら、ホテルまでの坂道を下りつつ、残る人生の、時間の使い方についてを、思う。
我、まだまだ、ぬるい。
もっと、社会を、世界を、学ばなければと思わされる夜。