19年ぶりの、バルセロナ。インドでの日常からは隔絶されて、毎年のニューヨークや日本を赴くときに感じるのとは異なる、独特の時間旅行に身を投じている気持ちに今、浸っている。
今回は、過去を反芻しつつ、いつも以上に「自分語り」も厚めに書こうと思うので、バルセロナ旅についてのみ関心のある方は、ぐっと下へ進んでいただければと思う。
わたしは20歳のとき、初めて海外へ飛び立ち、ロサンゼルス郊外で1カ月間のホームステイをした。その経験が、わたしのその後の人生を大きく左右した。
大学卒業後は、福岡で高校の国語教師になること夢見て、だから教職課程のある大学に進んだはずだった。しかし、帰国後、あっさりと方向転換。海外に出られる職に就きたいと思った。
無論、就職活動がそうそううまく行くはずもなく、 職も決まらぬまま、上京することだけを決めていた。卒業式の日、お世話になっていた教授が、わたしの就職が決まってないことを知って驚き呆れ、心配してくれた。
教授の計らいで、教授の学生時代の友人が出入りしていた旅行誌を制作する編集プロダクションに職を得たのが、わたしのキャリアの出発点だった。
思い返すだに、筆舌に尽くしがたい過酷な労働条件だったが、すべては勉強だった。わずか2年半の間に、『台湾の本』、『スペインの本』、『シンガポール&マレーシアの本』という3冊のガイドブックの取材と編集を手がけられたのは、今思えば幸運だった。台湾は新規、他は全面改訂という「ほぼゼロから」の編集作業だったことも、仕事を一から叩き込まれるいい契機だったと思う。無論、そのガイドブックの編集作業以外にも、国内の温泉取材その他、駆り出されていたから、まさに「寝る間もないほど」の働きぶりだった。
若かったからこそ、できた。今同じ生活をしたら、3日と持たない。
その後は小さな広告代理店に転職したが、そこでもまた、海外旅行情報誌を制作する仕事に携わった。当時、昭和シェル石油が発行していたクレジットカードの請求書に同封される情報誌の制作を行っていた。
小冊子ながらも、内容は極めて濃密。わたしの給与は別として、バブル経済の余韻が強く残っており、予算も潤沢にあった。インターネットなどはない時代。年間の企画書を制作するにも、図書館や政府観光局に足を運んで情報を集める。取材先の候補をある程度自分で決められたのは、非常に魅力的だった。前職に負けず劣らず、やはり過酷な労働条件ではあったが。
当時は、2カ月に1度、まとめて2カ国をドライヴ取材し、帰国してまとめて2カ国分を編集するという無茶なスケジュールをこなしていた。今思えば、編集者が一人だったというのは、どう考えても無謀かつリスクが高く、会社側がなぜ、せめてもう一人、雇ってくれなかったのだろうか思う。ともあれ、体力と好奇心が続くに任せて、仕事に打ち込んだ。
その会社にも2年半在籍した。計5年間の会社員生活で、すでに20カ国以上を旅していたように思う。久しく数えていないのでわからないが、これまでの人生、多分40カ国近くは訪れているのではなかろうか。どの旅も、軽く表面をなぞるように、ではなく、それぞれに、かなり踏み込み、じっくりと、という旅だったから、たいていの旅のことは、細かい出来事までも、かなり克明に思い出せる。
27歳で、フリーランスのライター&エディターとして独立したわたしは、いくつかの目標を決めた。年間3カ月の休みを取り、9カ月間は休みなく働く。そして年収1千万以上を目標とする。バブル経済が弾けて数年経っていた当時、フリーランスは仕事が減る一方のご時世だったが、ずいぶん大きく出たものである。
最初の年、目標通り、3カ月間の欧州列車旅を実現した。年収は目標額には及ばず、不在時の家賃の支払いやら、仕事ができない間の金銭のやりくりに苦心したが、自分一人が食べていくくらいなんとなる、と思っていた。貧乏旅行ながらも、得難い体験を重ねた3カ月間だった。
次の年は、旅をする上で、英語力がいかに大切かを痛感したことから、英国で3カ月、語学留学をすることにした。当時のわたしは、平均的日本人の英語力だった。すなわち、普通に英語が話せなかった。3カ月である程度は身に付くと思っていたわたしは、甘かった。なんとなくは成長したが、満足できる次元ではない。
英国の留学先のワージングという港町で、学校の帰りにカフェで宿題をしつつ、紅茶を飲みつつスコーンを食べているとき、ふと閃いた。「来年は1年間、ニューヨークに語学留学しよう」と。夕暮れの光が石畳にまばゆく反射するのをぼんやりと眺めつつ、しかし確実に、実現するのだ、と思った。
ニューヨークには行ったことがなく、そもそも欧州が好きだったので、新大陸にはさほど興味もなかったのにも関わらず。このあたりのくだりは、拙著『街の灯』にも記しているのだが、閃きもまた、さまざまな経験が積み重なった結果のことであり、単なる思いつきとは異なる、とのちになって思うのだった。
帰国してからはまた、いつものように「馬車馬のように」働いた。当時のスケジュール帳をめくると、自分のスケジュール管理能力の巧みさと、仕事の処理能力に、驚かされる。自画自賛というよりもむしろ、客観的に眺めるに、試行錯誤しつつ、よくもこんなに働いていたものだ。
スケジュール管理に関していえば、会社員としての編集者時代に鍛えたれたのも一つだが、勤務していた小さな広告代理店が、某団体が主催するビジネス研修にわたしを参加させてくれたことが、影響を与えている。
数十名の男性に、 女性はわたし一人で混じっての、1泊2日の研修旅行。あのときに得た「諸々の計画の立て方」のようなものは、間違いなく糧になったといえる。その点においては、本当に感謝している。
フリーランス当時、いくつもの仕事を掛け持ちしていたが、最も大きな仕事を発注してくれていた人が、わたしを「個人として」というよりも「一つの制作会社」として見なしてくれ、情報誌の編集一切を任せてくれていたことで、そこから大きめの収入を得ることができていた。
もちろん、その収入に見合うだけの仕事をしていたとは思う。決して完全だったとはいえないが、当時のわたしができるかぎりのことは、した。その結果、3年目には、年収1千万に届く状況に至ったことから、1年間のニューヨーク行きを決めたのだった。
秀でたバックグラウンドのない、地方出身者のわたしが、なにかにつけて壁にぶつかりながらも、短期間に目標達成できたものだと、自分のことながら、当時の努力を褒めてやりたい気持ちになる。
こんな気持ちになっているのも、そしてこんな記録を書き始めているのも、多分昨日、バルセロナのゴシック地区を歩きつつ、23歳の坂田美穂、28歳の坂田美穂、そして32歳の坂田美穂を、しみじみと、思い出したからに他ならない。
★初めての欧州旅は、ガイドブックの取材で訪れたスペインだった。
23歳。初めての欧州が、スペインだった。初めての大聖堂はマドリードだった。大聖堂に入るなりの、圧倒的な荘厳の空間。突然響き渡るパイプオルガンの音色の衝撃。共に取材に来ていた編集者の女性と、二人して黙って椅子に座り、溢れ出る涙をひたすら拭ったことを、鮮やかに思い出す。
なにしろ、過酷な取材だった。けれど、若いころの旅は、全てが、財産だ。20代のころ、仕事でも、プライヴェートでも、取り憑かれたように、海外を旅していた自分の嗅覚と衝動を、本当に、よかったと思う。
無論、今のわたしは、あのころの坂田美穂の延長線上にあるわけで、今の自分を否定したくないがための、過去の自分の肯定であるとも言えるのだが。
人生、いくつもの分岐点があり、選択肢があったはずだ。もっと早い時期に「人生を見つめる物心」がついていれば、違う人生を歩めていたかもしれない。けれどわたしはあいにく、「人生を見つめる物心」がつくのが、多分遅かった。20歳の初の海外、そして社会人になってから。そこからようやく、自分という存在に、向き合い始めたように思う。
実は今回の旅、夫アルヴィンドが属するアスペン・インスティテュートのプログラムで、彼がバルセロナ郊外のシッチェスに滞在することが決まったのがきっかけで、わたしも同行することにしたのだった。彼は数年前にアスペン・インスティテュートのメンバーとなって以来、年に数回、海外での研修やプログラムに参加している。わたしはといえば、ここ数年、ミューズ・クリエイションの活動を優先しており、海外旅行はおろか、国内旅行でさえも、かつてのように夫に便乗して出かけることが少なくなっていた。
以前のわたしなら、数年前の南アフリカにも、数カ月前のアスペンにも、夫についていったに違いない。旅情がありながらも、行動に移さない自分をこのままではいけないとの思いが募っていた。
バルセロナには、行かねば。行きたいよりも行かねばという気持ちの方が強かったように思う。同時期、日本への一時帰国もあり、バザールの直後でありという状況ながら、2週間の旅を組み込んだ。
そして今、本当に思う。来てよかった。
猫らのことは気になるけれど。
★夫のアスペン・インスティテュートのプログラムに便乗しての、旅
夫のアスペンのプログラムは、世界各国、各界のビジネスのリーダーたちが集うものではあるが、ビジネスを学ぶというよりは、哲学、心理学的なことを含め、「人間として、いかに生きるか」ということを学び合うものである。
このプログラムを通して、世界各国に心を通わせ合える優秀な友人らを得、夫は非常に得難い経験をしていると思う。ここ数年のうちに、彼の考え方は、少なからず変わった。たとえば慈善活動に対する考え方ひとつにしても、アスペン以前と現在とでは、まったく意識が違う。
毎回、旅の前には「課題図書」を数冊与えられ、宿題も提示される。今回、その一つに、自分のライフマップを作る、というものがあった。その制作にあたっては、わたしがかなり「お手伝い」をした。
四苦八苦する夫を手伝いながら思った。わたしは常に、自分のライフマップが脳裏にあるので、敢えて思い出しつつ作ることはないということ。夫が「あれは、いつだったっけ?」と質問するのに対し、速やかに年月を答えられる。思い出せない詳細は、書棚のジャーナルに手を伸ばせば、即座に返答できる。
「僕の転機は5年おきだった!」と、初めて発見して感じ入っているのを見て、「知ってたよ」と言う言葉を発せずにはいられない。なにしろこの20年、わたしたちは一緒に過ごし、大きくは10年おきに、細かくは5年おきに、大きな転機を迎えて来た。共に生きる夫婦だから、その転機の大半がシンクロナイズしていることは、当然といえば、当然である。
ちなみに夫は辛い記憶は思い出したくないから、封印し続けたいのだという。わたしは、辛い記憶も楽しい記憶も同等に、ときに思い出して反芻する。
何年、何歳のときに、何が起こって、何をしたか。節目はすべて、脳内で整理されている。むしろ、それがわからないことのほうが、不安に思えるくらいに。このような習慣が意味するものがなんなのか、善し悪しすらわからない。ただ、少なくともこれは、わたしの思考のスタイルなのだろう、と思う。
バルセロナ空港に到着したわたしたちは、タクシーでバルセロナ南部の海辺のリゾート、シッチェスを目指した。メルセデスのタクシーは、120キロを軽く超えて滑らかに道路を滑る。欧州だな、と思う。ベルリンの壁が崩壊した翌年、ドイツ取材で、旧西ドイツから旧東ドイツに連なるアウトバーンを走ったことを思い出す。尤もそのときは、わたしはペーパードライヴァーだったので、同行のフォトグラファーが主には運転してくれたのだが。
旧西ドイツは滑らかな道路だったのが、旧東に入った途端、凹凸の著しい、劣悪な道路に変わった。戦後、一つの国が分断され、別々に歩んで来た歴史の断片を、見た思いがしたものだ。あれから、すでに四半世紀。
シッチェスでは、わたしは1泊。夫がプログラムに参加する間、わたしはバルセロナを一人旅である。
◎シッチェスでは、地中海、コスタ・ドラダを望むリゾートにチェックイン。
◎夕焼けのような、朝焼け。地中海の陽光が似合う糸杉。ファン・ゴッホの絵画を思わせる。
◎ホテルの朝食。フルーツなどは、インドの高級ホテルのそれとよく似ているが……。甘酸っぱいオレンジの味わいが、格別。バレンシアオレンジ、なのだと思う。
◎インドとの時差は3時間半。時差ぼけをするほどでもなく、しかし前夜はよく寝た。
◎バルセロナに赴く前、シッチェスの街を散策することにした。アスペンの参加者で、エジプトから来ている建築家のカリムも一緒に。
◎小さな海辺のこのリゾート。ゲイの人たちが多く暮らしていることでも知られる。
◎月曜の朝、11時。ワインやビールを飲みながら食事をする人々。平和だ。
◎生ハムの種類はさまざまにあり。肉類、魚介類の豊富さもまた、スペイン料理の魅力。
◎散策を終えて、海辺のカフェへ。タパスをおつまみにサングリアで喉を潤す。
◎旅の途中、幾度となく口にすることであろう、フライドポテト。ガーリック風味のマヨネーズを少しつけて食べるのが、また美味なのだ。
★人との出会い、語り合うもまた、旅の醍醐味。
カリムは日本の大手建設会社で数カ月、仕事をしていたことがあるとかで、東京にも詳しい。
わたしはフランク・ロイド・ライトの建築物が好きなのだが、昨年、かつて日本の帝国ホテルがフランク・ロイド・ライトの建築によるものだったのを、1964年の東京オリンピックを前に解体されたことを知り、激しい衝撃を受けた。信じがたい。本当に信じがたい話なのだ。
この話を書くとまた長くなるので割愛するが、そのことを話したら、彼もまた強い衝撃を受けていた。彼も、フランク・ロイド・ライトが好きで、現在建築中の自宅も、その意匠を引き継いでいるのだという。
我が家もまた、現在、バンガロールの空港付近に、もう一つ別の家を建築中なのだが、そのデヴェロッパーもフランク・ロイド・ライトに影響を受けているということが、物件を選ぶ決め手のひとつとなっていた。思わぬところで話が合い、楽しい。
カリムはまた、MITの卒業生。彼は大学院だったとのことだが、夫と同じ時期に通っていたことがわかり、なおのこと、話が弾んで楽しそうだ。
◎ホテルに戻り、荷物をまとめ、シッチェスの小さな駅へ。ここから列車で数十分バルセロナへ向かうのだ。
◎欧州の列車に乗るのも、本当に久しぶりのことだ。1994年の、3カ月の放浪旅のときには、いやというほど、列車に揺られたものだ。
バルセロナ市街に入った列車は、一旦、地下に潜る。グラシア駅で降り、外に出るや、一番に目に飛び込んだのは、アントニ・ガウディの建築物のひとつ、カサ・バトリョだ!
ついには、バルセロナ。お久しぶりです!
23歳のとき、ガイドブックの取材で。
28歳のとき、3カ月の放浪旅の終盤に。この街で、当時付き合っていた人と、合流した。
32歳、アルヴィンドと、ローマを起点にした、地中海沿岸列車の旅の終着点として、訪れた。
3度の旅、それぞれに、思い出深く、今となっては、3つの旅の記憶が、それぞれの固まりになっていて、こちらに向かって、近づいたり、離れたりを繰り返し、どれが遠くて、どれが近いかが、最早わからない。
どこを旅してもそうなのだが、時間は、地理的な記憶と、経験したことの濃度に影響されて、遠のいたり、近寄ったりする。
人はよく、「記憶を上書きする」という表現を使うが、そういうことは不可能だし、意味のない行為だとも、わたしは思う。
かつては、インターネットなどなかったから、ガイドブックなどを参考に、ホテルを予約したものだ。無論、欧州3カ月旅のときには、行き当たりばったりだったので、到着して、その場で、決めていた。
だからわたしは、インターネットでホテル探しをするのは、本当は、あまり好きではない。レヴューを読んだり、写真を見すぎたりして、自分の嗅覚や直感が鈍って仕方がない。
今回、一人での滞在ということもあり、B&Bを選んだ。レヴューがかなりよかったので、期待していたのだが、部屋そのものは、期待したほどではなく。写真で見るよりも部屋が非常に狭く、しかも机がないので(これを確認しなかったのは大失敗だった)、パソコンにじっくりと向かえないのだ。故に今は、ホテルの下のカフェで書いている。が、ここのネット環境が悪く、ブログにアクセスできない。
ゆえに、ワードで文章を書いているものだから、文章が無駄に長くなって、この有様だ。
一方、スタッフがとても親切で、旅のアドヴァイスなどを丁寧に対応してくれる。今となっては、サグラダ・ファミリアへ入るにも、グエル公園に入るにも、インターネット予約が不可欠で、そういう手続きもサポートしてくれるのは有り難い。
◎荷物をほどき、一段落して、街へ出る。懐かしい、匂いがする。
◎まずはウォームアップに、バルセロナの目抜き通り、ランブラス通りを南下する。あまりの観光客の多さに、驚く。
ジェラートショップの多さにも、驚く。ここはイタリアか、と思うくらいに。この20年ほどの間の、欧州内だけではない、世界中においての、ボーダレスな雰囲気は、すさまじい勢いで進んでいるのだと思う。
たとえばZARA。スペインのブランドで、初めてのスペイン旅のとき、服を買ったことを思い出す。今では、どこの国のブランドなのかがよくわからないほど、世界中の都市で見かける。
このランブラス通り、かつては籠に入った鳥などが売られている、長閑な通りだったはずなのだが。しかし、店舗の構成は変われども、街そのものの雰囲気は変わらず、あのころと大きな変化を感じない。
バルセロナには、昔ながらの市場が数多く残されている。このランブラス通りにあるボケリア市場もその一つ。初めてここを訪れたときには、魚介類の豊富さ、肉類のヴァラエティ、そしてさまざまなチーズと、初めて見る食材のあれこれに、本当に興奮したものだ。
◎夕方なので、奥の生鮮食品売り場は閉まっていたが、手前の加工食品売り場などには、観光客が大挙して見物していた。
◎小さなバール(居酒屋)で、グラス片手にタパスをつまむ人々の姿も見られる。いい香りが漂っている。なにか食べたい気持ちを抑えつつ、来た道を引き返し、ホテルのスタッフが勧めてくれたタパス・バーを目指す。
◎かなり人気店のようで、スペインにしては比較的早い7時ごろにも関わらず、店内はにぎわっている。一人旅の食はシェアできないのが残念ではあるが、ともあれ、気になるタパスを注文。
◎隣に座っている人の料理を眺めたり「それ、おいしいですか?」などと話しかけたりしつつ、選ぶ。
◎両隣の人に勧められて頼んだこのフライド・カマンベール。噛めばトロリと溶け出すチーズ。クランベリーソースの甘酸っぱさとの相性も抜群。本当においしかった!
ほろ酔い気分で心地よく、鼻歌まじりに街を歩き、ホテルへと戻る。
日本にいたころは、プライヴェートでは100%一人旅だったわたしだが、アルヴィンドと出会ってからは、彼と一緒の旅が中心だった。
こうして、欧州を一人で旅することはまた、20年以上ぶりのことである。
この、懐かしい感覚! さて、明日からの数日間をどう、過ごそうか。ともかくは、詰め込みすぎず、無理をせず、好きなように、過ごそうと思う。