現在、バンガロールのパレスグラウンドにある特設のイヴェント会場にて、「シルクマーク・エキスポ 2010」が開催されている。初日と3日目の今日、計二度にも亘って訪れた。
ピュアシルクを生産する業者にのみ与えられるシルクマーク。政府機関主催の展示会だ。全国各地の絹製品業者が一堂に会し、信頼のおける高品質なサリーやサルワーカミーズなどのマテリアル(布地)を販売する。
テキスタイル関連の情報に関しては、このところ「キレイなブログ」にばかり記してきたし、実際、エキスポの報告は逐一、残している。
しかしながら、テキスタイルが美しい、きれいだ云々はさておいて、政府関連機関が積極的に、伝統工芸を残すべく活動を行っているということを、備忘録の意味を含めても、ここに記しておきたい。
このエキスポで感心したのは、絹を「蚕の段階」から学ぶためのスペースが設けられていたところ。
蚕の卵にはじまり、幼虫、繭、羽化など成長の過程が、「実物」で紹介されている。
生きた蛾が交尾をしているようすを見られるところには、さすがに驚いた。しかし母親に連れられて来た子供たちは、真剣に蚕の生態を眺めている。
ちなみに初日は、蚕を手のひらに載せられて動揺したが、しかし二度目は自ら「撫でにいく」積極性を見せる我。我がことながら、順応性の高さに感心する。
すべすべとして、柔らかくて、気持ちいいのよ。
絞り。絣(かすり)。刺繍。織り……。無限とも思える、その布の世界には、引き込まれるばかりだ。
インド移住以前には眠っていた嗜好が、突然目覚めさせられたようであった。
思えばわたしは、インドの布の中に日本の着物に見られるような柄を見いだし、懐かしさを伴った好奇心をも併せ持っていたということを、再認識する。
この5年間というもの、興味を抱く布の種類は、そのときどきで変化してきた。
今回は特に、絣のサリーが目に留まった。遠い昔、祖母が着ていた着物の柄の記憶をたどり、似たような色のものを手に取ってみたりもした。
ちなみに一番上の写真。インドの絣はイカットと呼ばれるが、その中でも「ダブルイカット」と呼ばれる製法らしい。
日本で経緯絣(たてよこがすり)と呼ばれているものと同様である。
デモンストレーションをしていた職人のおじさんに説明を受けるが、その作業工程が複雑で、今ひとつよくわからない。
糸を束ねて縛り、染めて、ほどいて、織る。
作業の詳細はよくわからないが、この技術は日本とインド、そしてバリ島(インドネシア)にしかないようである。
富裕層や若い世代を中心に、インドでも「洋装志向」が進んでいる。しかし、圧倒的な数の女性たちが、まだまだサリーを着用している。展示物に負けずとも劣らぬカラフルなそれを身にまとい、自分を表現する彼女たち。
あれこれと目移りし、どれを選んでいいかなかなか決められない。基本「即決型」のわたしだが、サリーばかりは即決して失敗したくない。
鏡に自分を映したいが、広大な会場に、しかし鏡は数えるほどしか置かれていない。
「鏡を見たい」というわたしに、居合わせた女性が得意気に言う。
「わたしたちは、サリーに慣れているから、自分に似合うものがどれかすぐにわかるの。いちいち鏡を見る必要はないのよ」
クールすぎる。
インド女性の持つ、独特の、確固たる色彩感覚については、移住当初から感嘆させられてきたが、未だにその審美眼の鋭さには驚かされる。
「その色の組み合わせはないでしょ」
と端から見て思ったりもするのだが、その人がそれを羽織ると、しっくりと似合うからすごいものである。
ところで先日、在バンガロール日本領事夫妻の招きで、天皇誕生日を祝うパーティに出席した。領事夫人を始め、数名の方が着物を着ていらした。
凛と引き締まり、美しい。
こういうときにこそ、日本の伝統衣裳をわたしも着てみたいと思う。しかしながら、持っていないし着付けができない。従っては、いつもの如くサリーである。
30歳までは日本に住んでいたが、そのころは着物を着る機会もなく、関心もなく、経済力もなかった。
日本を離れてむしろ、折に触れて着物を着たいと思う場面が増えた。しかし、数年に一度、短期間の帰国で、即座に購入できるものではない。
一方のサリー。高品質な伝統工芸品が、手軽に、廉価で入手できる。その「身近な感じ」に惚れた。
ちなみに夫がインド人だから、インドに添うてサリーを着ているわけではない。わたしがただ、豊かな布を身にまとうのが好きになったから着ているまでだ。
むしろ夫は以前から、わたしの「サリー好き」を嫌悪していた。
「ミホは日本人なのに、なんでサリーを着るわけ?」
「僕はサリー、嫌い。封建的だし。あれは女性をぐるぐると巻いて拘束する象徴だよ?」
額にビンディをつけた日には、
「うわ、やめて、その昆虫のフンみたいなのをおでこにつけるのは!!」
そんな夫である。そんな夫をたしなめつつ、ときには義理家族に言い聞かせてもらったりもして、わがサリー・コレクションを増やしてきたのである。
最近では、
「ミホのサリーには、もう慣れたよ。苦痛はね、恒常的に受けていると、慣れてしまうものなんだよ」
「あ、ずっと昔、英国統治時代のサリーってブラウスを着てなかったらしいよ。布を巻いてただけみたい。オッパイ・パラダイスだったらしいよ。それだったら、悪くないかもね〜」
オ、オッパイ・パラダイスって……。っていうか、その話は本当?
「昔の絵画とか、彫刻なんかを見てごらん。胸の形がはっきり見えるでしょ?」
こ、この男は……。なぜにそういうところに詳しい?
っていうか、明日、我が夫に会うあなた。この件は夫には言わないでくださいよ!
ブログに書いたことがばれると、家庭内紛争が勃発しますから。なら書くな、と言われそうだが、これが書かずにはいられようか。いや、いられまい。
ああもう、またしてもくだらん話を延々と書いてしまった。
話題を日本の着物に戻す。
日本の着物は、どうしてこんなにも、日常から遠い場所に行ってしまったのだろう。いや、日本を離れて15年なわたしが、知ったようなことを書くのもなんだな。
実は着物は、静かに、確実に、浸透しているのかもしれない。
しかしそれにしても、着物をうまく着られることが、日常に取り入れていることが、「特別なこと」「粋なこと」と定義づけられているには違いないような印象を受ける。
日本の着物とは……
・着脱が簡単ではない。
・現代の生活様式に合わない。
・季節感を反映させねばならない。
・作法を重んじねばならない。
・一揃えを購入すると高価である。
といった個性がある。着物ならではの長所が、実用性、親しみやすさという点においては短所となり、人々は離れていった気がする。
とはいえ、真に「着物離れ」というのとは、違うと思うのだ。「着たくない」「着る必要がない」と頭から関心を失っている人が増えているということであれば、「離れている」と定義づけられるだろう。
しかし実際には、わたしのように「着てみたいけれど、諸事情で、気軽に着られない」という人が、多いような気がする。それは実に、残念なことのように思う。
「振り袖はいらないから、アメリカ1カ月の留学の資金を援助して欲しい」
わたしは両親に頼んだ。1ドル270円の時代。自分が稼いだアルバイト代だけでは、1カ月のホームステイの費用を捻出できなかった。
だからといって振り袖を引き合いに出すのはお門違いとはわかっていたが、しかし、どうしても日本以外の国を見てみたかった。
着物なんてどうでもいい、と思った。
だから黒いロングドレスに白いブラウス、母の黒い毛皮のショートコートを着て成人式に挑んだ。むしろ目立った。というか、20歳とは思えぬ、「銀座のママ」なファッションだった。
それはさておき、当時、成人式の着物の予算は「約100万円」だった。
あの時点で、「着物とは、異様に高いものである」という認識がすり込まれた。
同時に、成人式に着物を着なかったことで、わたしの人生から着物が決定的に遠いものとなってしまった気がする。
振り袖は、妹の結婚式の際に一度だけ着た。貸衣装を借りたものだった。それ以外は、浴衣しか着たことがない。
女性が大人になる瞬間に着る着物が、たとえばもっと安くて手軽に手に入り、その後も応用しながら着用できるものであれば。
日本女性の着物志向は、その後もゆるやかに続いていくのではなかったろうか。
最初に100万円。もっとも当時は「バブルな経済」だったからであり、現在の相場は落ちているかもしれない。とはいえ、数十万円は軽くするだろう。
親の支援を仰がねばならないような値段。そのコンセプトが、着物を精神的に遠いものにしているのではなかろうか。
インドで、日本の伝統的なそれと似た布地を見るにつけ、複雑な思いに駆られる。
帰国時、今度は立ち寄ろう、と思いつつ、一度も訪れたことのない呉服屋。いつになるかわからんが、次回の帰国時には、立ち寄ってみたいと思う。
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)(←Click)
■貧しくても、お洒落心を忘れない。
■天皇の誕生日をバンガロールで祝う夜。
■絹以前。シルクマーク・エキスポ報告(1)
■絣! 刺繍! シルクマーク・エキスポ報告(2)
■布コレクターだもの。シルクマーク・エキスポ報告(3)