2日間のフォーラムは、無事に終了した。メインのセッションもさることながら、このような場においては、参加者との出会いが貴重だ。人々との出会いは量より質だと、日頃から思っている。しかし、稀有な出会いを実現するためには、然るべき出会いの場に身を置く必要がある。
年齢を重ねるほどに、関わる人々の数は蓄積されるが、果たして心通い合える友人知人がどんどん増えているかといえば、そうではない。「その場限り」が大半で、大切な関係性を繋げられる人数は、限られている。みな、それぞれのライフがあって、時間は有限。そんな中、短い間でも、心に響きあう会話ができる方に出会えるのは、幸運だ。
今回、ランチタイムやカクテル、ディナーの場において、そんな「幸運」を味わえた。「相手を尋ね、自分を語る」過程において、自分が今、この場にいる意味について思いを馳せる。
この1年間のわたしは、意識的に、人生の二周目に向けての精神的準備をしてきた。この先わたしはどうあるべきか、模索した1年の終わりの、まさにこのフォーラムの会場で、次なるヴィジョンが明確に浮かび上がった。いつかきっと具現化するために、これから動き始める。
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あたかも自分で切り拓いてきたかのように思える自分の人生だったが、いや、わたしのライフはあらかじめ定められたカルマというレールに沿って走ってきただけだったのかもしれない。そう思うようになったのは、パンデミック時代、ロックダウンで引きこもっていたころに「自分史」を整理しつつ動画を作っていたころだ。
わたしがインドに至るまでには、自分の意志だったとは言い難い分岐点がいくつかあった。「ニューヨークへ渡った数カ月後の七夕の夜に、インド人男性と出会ったところから、それは始まった」……と、かつては思っていたが。
自分史を作る過程において、わたしが東京で住んでいた世田谷区用賀の「用賀」の語源が「ヨガ (Yoga)」だと知った。それに加え、用賀からニューヨークへ移る直前に引っ越した西葛西が、やがてインド人の街になったことなどを思うと、わたしの人生はニューヨーク以前から、インドに向かって助走していた気がする。
そして2003年12月。ワシントンD.C.のジョージタウン大学で、英語の勉強をやり直すべく3カ月の英語集中コースに通った時、研究論文をインドの新経済(インドの頭脳流出と頭脳還元/循環)と決めた。なぜそのテーマにしたのか。自分でもよくわからない。ともあれその時期、米国ではインド投資熱が高まり始めていた。
米ジャーナリストのトーマス・フリードマンがバンガロールに駐在し、毎週、ニューヨークタイムスにコラムを寄稿していたのもこの時期だ。彼はインフォシスのCEOだったナンダン・ニレカニ氏との対談の際に交わした言葉に着想を得て『フラット化する世界』というタイトルでの本を出版した。インドにおけるBPO(Business Process Outsourcing)の黎明期。経済誌でもインド特集が組まれ始めた。
「これからはインドの時代だ」と、思った。
2001年にインドで結婚式を挙げた時には「こんな国……住めない」と感じたのに。わずか3年後の2004年には、インド移住以外考えられなくなっていた。米国同時多発テロを身近に経験し、米国に対する感情が変化したことも理由のひとつだ。途轍もない情熱で夫を説得し、インド移住を決行し、2005年11月、バンガロールに移り住んだ。あれから19年。今、20年目を迎えている。
あのときの、自分でも説明がつかない情熱はなんだったか。自分の意思とは離れた場所で、インドへ行きなさいと、自動操縦されていたようにさえ思う。
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この20年間というもの。わたしはインド発、日本へ向けて、多くの仕事に関わってきた。特に最初の10年は、日本の広告代理店大手の研究開発局の方と、インド市場を多岐に亘って調査した。ほかにも、多彩な分野に亘るクライアントのニーズに応じ、そのときどきの時勢を映す調査を行ってきた。
クライアント仕事の調査は当然ながら内部資料であり公開はできなかったが、インド各都市を訪れ取材、調査し、人々をインタビューし、克明な資料を作り続けた数々の仕事は、わたしにとってかけがえのない経験と財産になった。
もちろん、インド人の家族親戚、そして友人に囲まれてのライフを通しては、通常、異邦人には見えにくいインドの表情を垣間見ることができる。むしろ外国人だからこそ、コミュニティの枠や境界を超えて、時にはイノセントに、好奇心のままに尋ね訪ねられる自由も享受してきた。
過去10年は、セミナーの機会を増やし、視察旅行者にインドの現状を伝えたり、あるいはオンラインミーティングで情報提供をしつづけてきた。しかし昨今、それらがあまりにも微力であることを痛感している。いくら量より質とはいえ、蒔いた種が萌芽している気配を知ることの方が圧倒的に少ない。
インドの歴史や地理、伝統、習慣、文化、ライフスタイル、精神世界……そして日本とインドの関係史。このようなことを知ることは、インドと関わる上で非常に重要だ。しかし、日本における「インド観」は、20年前と大して変わらぬまま、なかなかに遠い異国であるとの印象を受ける。
今回のフォーラムに参加して、その思いを益々強くする。自分の熱意が続く限りにおいて、やれることを形にしたい。
2日目も、京友禅サリーを着用した。レモンイエローのやさしい色調。ブラウスは、手持ちのパールシー刺繍のサリーのブラウスを合わせた。色合いがほとんど同じで調和している。
最後の写真は、今回のフォーラムの主催者であるアナンタ・センターのCEO、Indrani女史。このフォーラムの実現に際しての、彼女の尽力は計り知れない。来年もまた、この会場でお目にかかれることを楽しみに……感謝。