季節感淡いこの場所で、しかし季節は巡り来る。
一年のうちのわずかな時期だけ、Namdharisに並ぶジャパニーズ・パンプキン。
去年は見かけなかったので、2年ぶりのご対面。
和風の煮付けにしてみたり、蒸してサラダにしてみたり、
あるいはパン粉をまぶしてフライに。
ほくほくと、おいしい。
数日前は、店頭にたくさんのイチゴを見つけた。
いつもよりは廉価だから、きっと今が旬なのか。
たっぷりのイチゴを購入し、またしても、軽く砂糖と煮込んでみる。
これは、ストロベリー&カスタードクリームのタルトのトッピングに。
いちごといえば、つい先日、夫が話してくれたエピソード。
彼が初めていちごを食べたのは、10歳の時だった。それは、家族そろってスイスに旅行へ行ったときのこと。彼にとって初めての海外旅行でもあった。ホテルにチェックインし、家族は時差ぼけもあって昼寝をしていたけれど、彼は「麗しい街」に興奮し、一人で街に出たという。
インドとはまるで異質の、清麗なる光景。スーパーマーケットに入ったときには、その食材の豊かさ、美しさに驚嘆したという。
中でも、10歳の彼の心を奪ったのは、いちご。いちごの存在は、もちろん知ってはいたけれど、食べたことはなかったという。粒のそろった赤くて愛らしい、きれいないちご。買ってホテルへ持ち帰り、家族で食べたという。そのいちごの甘酸っぱい、なんともいえぬおいしさ!
その話を聞いて、腑に落ちた。彼の、これまでの、いちごに対する姿勢に。たとえば、わたしがいちごを買ってくると、彼は数粒を丁寧に洗い、お皿に入れて、ひどく大切そうに味わいながら食べるのだ。そこには、スイカやバナナやマンゴーなど、他の果物に対するのとは異なる、一種の「リスペクト」さえ、ある。
そういえば、今年のわたしの誕生日には、スパークリングワインといちごを買って来てくれた。彼曰く、「プリティ・ウーマン」のリチャード・ギアに学んだとのことだけれど、彼にとっては格別の、果物なのだろう。
一粒一粒つまんでは、いちごのへたや、傷んだところを取り除きながら、思う。どんなに時を重ねても、どんなに言葉を交わしても、それがたとえ夫であっても、他者を知り尽くすことなど不可能で、だからこそ、丁寧に、人と人とは、関わり合わねばならないなということを。
人の「現在」を育む、因果関係を、他者が一朝一夕に理解するなど、不可能だ。自分のことでさえ、腑に落ちないことはたくさんあるのだから。
きっとこれからこの先も、それがたとえ、ささやかな、取るに足らないことであったとしても、「なるほど、だからそうだったのか」ということが、折に触れて、わかることだろう。