インドと日本の二国間における価値観の違いは無数にある。その中でも決定打となるものが、「利便性の追求」ではないかと、先頃、思い当たった。
日本人ほど、「利便性」を追求する人種は他にないのではないと思う。
「便利=よいことだ」
その図式にのっとって、社会は動き、商品は開発され、世間は倣う。追求され過ぎた利便性はときに行き過ぎて滑稽にさえみえる。端から見れば「なにもそこまで」というところまで、追求する。
日本のその傾向を「すばらしい」「勤勉」だと前向きにばかりは受け取れず、むしろ「滑稽だ」と思うようになったのは米国に移住してまもないころだった。米国には、いや米国に限らず、他の「先進諸国」には、まだまだ「不便が健全に」息づいている。
「利便性」と類似したケースとして、サイズ。たとえば携帯電話やカメラやコンピュータについては、やたらと小さく軽く薄いものが競うように作られている。
しかし、小さければいいというものではないだろう。それは米国時代に思った。マンハッタンで携帯電話が普及し始めたころ、わたしも一足遅れで1998年頃に携帯電話を入手した。
店にあるさまざまな機種。一番小さくてコンパクトなものは売れていなかった。なぜなら小さすぎて、ボタンを押しにくいから。軽すぎて、なくしやすいから、とのことだった。
こういう具体例は無数にあるので割愛するが、ともあれ「追求するにも限度がある」ということをわかっているのかと問いたいくらいに、日本の人々は追求する。
翻ってインド。利便性という概念からは、遠く離れた世界に生き続けてきた人々、のような気がする。もちろん、昨今のインドは急速にその価値観すら変貌を遂げている最中ではあるけれど。
不便を厭わず生活している人を、便利を至上とする国から来た人々は、当然のように「自分たちよりも劣っている」と判断する。
文明最優先で、文化を慮らず。
ここでの具体例はさておき。
わたし自身は、
「便利であること」=「幸せなこと」
「便利であること」=「よいこと」
だとは思っていない。
だからこそ、あえてインドでの生活を選んで米国を離れることができた。
不便は不便だ。しかし不幸ではない。
不便だから、工夫をする。
不便だから、いざというときの対処法が身に付く。
不便だから、人の智恵を借りたくて誰かに相談する。
不便だから、人の助けが必要でご近所さんと親しくなる。
不便だから、それを解消してもらうための交渉術が身に付く。
不便の中には、発見する楽しさがある。
不便に対応しているうちに、強くなった。
日本におけるコンビニエンスストアの存在は、日本が崇拝するほどの便利の、その象徴の一つだろう。
あのストアが必要不可欠だと思う人とそうでない人とでは、その周囲に遍く広がる世界を判断する基準が大きく異なるのではないかとさえ思える。
わたしは、コンビニエンスストアが好きではなかった。便利だけれど、好きではなかった。だから、こんなところに好き好んで住んでいるのだろうと思う。
あれこれと、具体例を織り交ぜて書きまとめたいことは無数にあるが、やはり日々、追いつかないのである。
写真は先日のテレビ取材の折、コマーシャルストリートを撮影するカメラマンのA島氏。彼には丁寧に撮影していただいたと感謝である。テレビの反響その後についても、書きたいことがさまざまあるが……。
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