バンガロールに暮らす外国人女性たちから構成されているOWC (Overseas Women's Club) では、毎月会報誌 "The Rangoli" を発行している。今回、各国駐在員の子供たちによる作文が掲載されていた。
彼女たちがインドに対して思っていることを率直に綴った文章は、いずれも興味深いものだった。日本語に訳したものを、ここに紹介したいと思う。※The Rangoli 編集長の許可を得ています。
インドはたくさんの州で構成されています。わたしたちが訪れる場所は、バラエティ豊かにあります。野生動物が暮らす場所や宮殿、ビーチなどです。建築物のデザインも、とてもユニークです。インドには、世界の七不思議の一つであるタージ・マハルがあります。
インドはまた、バラエティ豊かでおいしい食べ物があります。バンガロールには、マクドナルドやKFCなど、わたしの好きなファストフードの店もあります。
バンガロールには本屋もたくさんあります。わたしが好きなのは、クロスロードとランドマークです。なぜかといえば、おもちゃや文房具、本やCDなどもあるからです。
わたしはインターナショナルスクールに通っていて、人種の違う友達がいます。スウェーデンやオーストラリア、フランス、アメリカ、コリア、スペイン、インド、カナダ、ドイツ、スイスなど、異なる国から来ています。
わたしの家の近所にも、たくさんの国々の人が住んでいます。プールのあるクラブハウスやバドミントンコート、図書館、プレイグラウンド、テニスコートがあります。たいくつなとき、わたしはそこへ遊びにいき、いつもなにかをしているようにしています。
こんな理由から、わたしはバンガロールが好きです。●ヴェネッサ(9歳)
わたしはインドが大好きです。なぜなら、人々はきれいなサリーをきているからです。わたしの国ドイツにはありません。サルワールカミーズも、ドイツにはありません。わたしはビーズがついているものが好きです。長いスカートと短い丈のトップを着ている人もいます。西洋の服を着ている人もいます。
ヒンドゥー教の人たちは、庭の外(※玄関先)にパウダーできれいなデザイン画を描きます。
人々はときどき、わたしのことをじっと見つめます。それは、あまり好きなことではありません。インドの嫌いなところは、汚くて埃っぽいところです。
インドの人たちは、本当に、ものすごく、ものすごく、ダンスが上手です。インドのダンスを踊るとき、特別な衣装を着て踊ります。
わたしはメヘンディ(※食物染料によるタトゥ)が好きです。メヘンディはドイツにはありません。インドの人たちは、わたしたちよりもたくさんの言葉を話せるところが好きです。
ドイツには野良犬はいません。病気の犬もいるかもしれないので、わたしたちは、あまり好きではありません。●アンナ(6歳)
わたしはシャンティとロージー(※メイドたち)が好きです。
アヌシュリー(※友達)も好きです。
ドイツのビーチに行くのは嫌いです。
学校はドイツのほうがいいです。
雨が好きです。(※今、外は雷雨)
ドイツの雪が好きです。●ベラ(4歳)
バンガロールはわたしが来たイギリスとは、とても違います。とても忙しくて、うるさくて、混雑しています。初めて来た時、人も動物もあちこちを行き来しているのでとても驚きました。たくさんの人たちが、わたしたちに物を売りたがります。でもお母さんは「ノー!」といいます。
悲しそうな顔をした犬たちがわたしたちに近寄ってきます。わたしは、かわいいと思いましたが、お父さんは、ただお腹を空かせているだけだといいました。
Shoba Malachite(暮らしている住宅地)に来たときは、きれいに整備されていると思いました。美しい庭のある家々の間にはきれいな小径があり、大きなプールのあるクラブハウスがあります。でも、バンガロールの中心地に比べると、ここは退屈だなと、ときどき思います。
最近になって、どれほどたくさんの人たちが、世界各国からやってきてインドに住んでいるかを、また旅行しているかを知りました。わたしもたくさんの場所を訪れました。
インドにはたくさんのすばらしい見どころがあるので、すべてを見ることはできません。わたしが訪れたところは、タージ・マハル、デリーのレッドフォート、アグラフォート、アンバーフォート、ハンピ、ケララのバックウォーター、マイソールパレス、ブリダヴァンガーデンズです。
わたしはインドで、たくさんの新しい食べ物や飲み物を試しました。わたしはヴェジタリアンなので、ここではとても楽です。わたしの好きなインド料理はマサラ・ドサとムンバイ・ベル・プリです。
わたしは、ここの気候をとても気に入っています。一年中、外で遊べます。インドはすばらしい場所なので、ここに暮らせてうれしいです。●ベサン(8歳)
わたしはインドに暮らし始めて、およそ1年半になります。わたしはアメリカからインドに来ました。今のところ、インドはわたしにいくつかの印象を与えています。わたしはデリーやアグラ、ジャイプール、プシュカル、ケララ、ゴア、コチンなどを旅行しました。
ここで暮らしていると、ときどき変化に耐えられなくなります。けれどわたしなりに気づいたことは、辛抱しなければならないということです。すべての場所が、自分の思い通りにいくわけはないのです。
世界はわたしたちが暮らすためにつくられています。批判やあげつらうためではありません。
インドでは、たとえば家で電力不足や水漏れといった問題が起こります。けれど本質的な観点からとらえれば、それは単に新しい経験といえます。いつかインドを離れたとき、きっと笑い話として話すことでしょう。
これまで訪れたインドの土地でいちばん好きなのはプシュケルのラクダ・フェスティバルです。それはインドの真の文化だと感じられたからです。輸入されるでも輸出するでもない、インド独自の文化。それからタージ・マハルも好きです。その背後にある物語がとても興味深いのです。
インドは、グローバルな世界です。そこがとても好きです! わたしはアメリカにいるとき、アメリカ人の友達あるいは、アメリカに近い国の友達しかいませんでした。けれどここでは、世界各地からきた、異なる国籍の友達がいます。たとえばわたしの親友は中国人とメキシコ人です。
わたしが一番好きなインドは、なんといってもマンゴーの季節です! 街へ出れば「マンゴー、マンゴー、マンゴーはいりませんか〜?」というマンゴー売りの声が聞こえます。
わたしの考え方を理解していただければ光栄です。●オリヴィア(10歳)
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文章を書くにあたって、確かに構成や文法といった「文章力」は大切なのかもしれないが、それよりも、子供たちが何を考えているか、何を訴えようとしているかを伝える手段であることが重要だと思う。
多少、話にまとまりがなくても、つじつまが合っていなくても、その子の個性が滲み出ている文章は魅力的だ。
彼女たちの文章には、さらには彼女らの家族、両親の様子も透けて見える。不慣れなインドという地に来て、住まい、彼女たちなりに衝撃を受けたり、辛く思うことは少なくないはずだ。
しかしながら、ときに大人びた表現を用いて、まるで自分を鼓舞するように、この国の魅力を綴り、楽しもうとしている様子が伝わって来る。
ニューヨーク時代、Muse Publishing, Inc. という出版社を起業して、「社員自分一人」で以て仕事をしていた。
設立から2年後、経営が軌道に乗り始めたころから、在ニューヨーク日本人向けのフリーペーパー "muse new york"(季刊誌)を発行し始めた。
同時多発テロのあと、ニューヨークを離れてワシントンDCに暮らすと決めたあと、muse new yorkの最終号の編集にとりかかった。
最終号のテーマは、子供の教育についてであった。次の号は「子供をテーマに」ということは、テロが起こる前から決めていたのだが、それは最終号に、とてもふさわしいように思えた。
テーマは、「異国で子供を育てるということ」
"The Rangoli"の子供たちの作文を読んでいるうちに、このmuse new yorkの最終号のことが思い出された。薄い冊子ながら、ぎっしりと情報を詰め込んでいた。最終号は、読みづらいのを承知で、若干、文字を小さくしてまで、多くのレポートを載せた。
古いデータを遡り、今日はその中から、いくつかの記事を抜粋しようと思う。長くなるが、読んでいただければ幸甚だ。
muse new york Final Issue Fall, 2001 秋号
異国で子供を育てるということ
Therefore we don't faint, but though our outward man is decaying, yet our inward man is renewed day by day. For our light affliction, which is for the moment, works for us more and more exceedingly an eternal weight of glory; while we don't look at the things which are seen, but at the things which are not seen. For the things which are seen are temporal, but the things which are not seen are eternal. (The Bible New Testament: 2nd Corinthians Chapter 4)
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は亡びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は、働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。(新約聖書:コリント人ヘの第二の手紙 第四章)
まずは、ニューヨーク時代の同世代の友人、春日井ミキさんのインタヴュー記事。当時、彼女は夫の海外赴任に伴ってニューヨークに暮らしていたが、子供時代はまた、父親の海外赴任でカナダに暮らした経験のある帰国子女だった。
彼女の子供時代の話を聞くことで、海外に駐在する家族の両親が、子供たちにどう接するべきかのヒントが得られるのではないかと思った。
インタヴューをしているうちに、彼女自身、遠い記憶が鮮明に蘇って来たようで、胸に迫る、とても興味深い話を聞くことができた。
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■ESLからスタートしたカナダでの生活
春日井さん一家が、父親の転勤に伴いバンクーバーへ引っ越すことが決まったのは、彼女が中学2年の終わりごろだった。周りが受験ムードに染まり始めたころで、受験戦争から逃れられることにはホッとしたものの、海外生活に対する不安はあった。
「カナダは治安がいいし、自然も美しいのよ」と、母親は言って子供たちの気持ちを盛り上げようとしたが、英語のことなど、心配は尽きなかった。
赴任が決まってからの2カ月間、4つ年下の弟と一緒に、週に一度、家庭教師のもとで英会話を学んだ。そして中学3年の6月、日本を離れ、バンクーバーでの生活が始まった。最初はESLのサマースクールに行った。初日はひどく緊張して、カチカチになっていた。
「クラスには、中国人、ベトナム人、ギリシャ人など10人ほどの生徒がいました。先生が来る前に、陽気なベトナム人の男の子が、教壇に立って、"Me are teacher" って言ったんです。そのとき、みんなが笑ったのを見て、(ああ、正しい英語をしゃべれなくてもいいんだ)とすごくホッとしたことを覚えています」
ESLでは、英語の歌を歌ったり、地図の色塗りをしたり、日記を書いたりと、初歩的な学習を通して英語を学んだ。アジア人はみな、先生のことを "Teacher" と呼んでいたが、先生から自分のファーストネームを呼べと言われて戸惑った。一方、小学5年生の弟は、新しい生活に拒絶反応を起こしていた。
「日本では勉強ができた方なのに、こっちじゃ英語ができないから、みんなにバカだと思われてるんだ、といつも沈んでいました。弟の登校に付き添っていた母もまた、彼を学校に残していくことが辛いと嘆いていました」
しばらく経ったころ、ミキさんの家族から少し遅れて赴任して来た一家の母親から、ミキさんの母親に電話があった。弟と同級生の娘が、学校を嫌がっているのでどうしたらいいだろうかという相談の電話だった。その会話を傍らで聞いていた弟が、母親に言った。
「慣れたふりをしろって言ってあげて。とにかくこっちの生活に慣れたふりをしろって」
それは、そうやって一生懸命学校に溶け込もうとしている弟の、同じ状況に置かれている友人への痛切なアドバイスだった。
■新学期。戸惑いと緊張の日々の始まり
やがて9月、いよいよ新学期が始まる。朝は通勤途中の父が車で学校に送ってくれた。初の登校日、ミキさんは、またもや緊張でドキドキしながら校門をくぐった。
「真っ先に目に飛び込んできたのは、校内でキスをしているカップルでした。それもひどく濃厚な……。見てはいけないものを見たような気がして、本当に驚きました」
日本では、転校生はあれこれと構われるものだが、カナダでは誰も自分に話しかけてくれない。仕方なく、最初のころは、ESLで一緒だった日本人の友達とランチを食べて愚痴を言い合ったり相談し合ったりした。しかし、やがて、自分から話しかけなければ、新しい友達を作れないということに気がついた。
「学校を見渡したら、アジア人はアジア人で固まっていることに気がついたんです。黒い髪の子だけが一緒にいるのは不自然でいやだな、と感じて、黒い髪じゃない子と友達になろうと思いました。その日から、毎晩、『雑談のための勉強』をはじめたんです」
自分が面白いと思ったこと、友達に話そうと思う出来事などを英語で文章にし、何度も何度も話す練習をした。
「授業中は、先生が言っていることなんか全然わからなかったから、何もすることがありませんでした。私にとっては、休み時間に、友達といかに話をするかが勝負だったんです」
最初のうちは、ESLのクラスも受けつつ、体育や美術、数学など、さほど語学力を要しないクラスに参加した。それから徐々に、物理、社会、英語などのクラスも受け始める。
「数学は2年前くらいに習ったことをやっていたので簡単だったけれど、物理が全くわかりませんでした。初めての授業が終わったあと、先生の所に行き、あらかじめ練習していたセンテンスを言いました。"What is today's homework?"。すると、先生がテキストを開いて、宿題の箇所に印を付けてくれたんです。自分の言ったことが通じた、というだけで、すごくうれしかったことを覚えています」
宿題の範囲はわかったものの、家に帰ってテキストを広げても、そこにいったい何が書いてあるのかわからない。途方に暮れた彼女は、机に向かって泣いた。すると母親が部屋に来て、彼女のテキストをのぞき込み、こう言った。
「あなたすごいわね。こんなに難しいこと勉強するなんて。ママには何にもわからないわ。とりあえず、いっしょにやりましょうよ」
テキストを広げ、左のページを母が、右のページを彼女が、わからない単語を一つ一つ辞書で引いていく。夜中の2時過ぎまでかかって、ようやく宿題の範囲の単語を調べ上げたが、それから問題を解くエネルギーはすでになかった。
「もう、十分、努力したからいいでしょう。できなくて当然なんだから、と母に言われて、随分、気持ちが楽になりました」
休み時間の努力の甲斐あって、友達はたくさんできた。テストのとき、物理が苦手な彼女に、成績のいい友達がこっそりと答えを書いた紙を回してくれることもあった。
■あまりにも衝撃的だった性教育の授業
ある日、保健の授業でのことだ。先生が、さまざまな避妊具を載せた大きなトレーを持って教室に入って来た。そして生徒たちに言った。
「さあ、男女一人ずつ、一組になって、どの避妊具がいいか、考えてみてください」
日本では具体的な性教育を受けたこともなく、どうやったら子供ができるのかさえよく知らなかった当時の彼女に、それは激しい衝撃だった。
「君は、どの避妊具を使ってるの?」
ペアになった男子に尋ねられ、しどろもどろになりながら、 "I don't do." "I have never done." などと答えると、避妊具を使ったことがないと誤解した彼は、周囲の友達に大声で言った。
「ねえ、聞いてよ! ミキは避妊具を使ったことがないんだってよ」
するとみんなが回りに集まって来て、矢継ぎ早に質問する。
「えー、なにか妊娠しない特別なジャパニーズ・スタイルでもあるの?」
「どんなスタイルだと妊娠しないの?」
と生徒たちは大騒ぎだ。
「私はセックスをしたことがない、と言えばよかったんですけど、当時の私には、セックスという単語ですら、口にできなかったんです。とにかくひどいショックで、泣きそうでした」
家に帰ってから、親に話すこともできず、とはいえ胸の中に秘めておくこともできず、彼女は、日本の中学の保健の先生に、今日の出来事を連綿と綴った手紙を送った。
日本とカナダの性教育がどれほど違うか、自分がどれほど衝撃を受けたかなど。数年後、帰国し、その先生と再会した折、あの手紙をきっかけに学校内で話し合いを持ち、性教育について真剣に取り組むようになったという話を聞いた。
■母親の理解と支えが、大きな救いとなった
ミキさんの両親は、かつて2年ほど、ニューヨークに赴任したことがあったから、海外生活には慣れていた。ただ、そのときは、ミキさんはまだ2歳だったから、学校の問題に直面することはなかったが、今回は状況が違う。できる限り子供の痛みを理解し、力になろうとしていた母親の姿勢は、子供たちにも十分伝わった。
ミキさんは「わからなくて当然だから」と言われることで、随分、気持ちが安らいだという。
「弟は、スポーツが得意で、走るのがとても速かったんです。だから、母は弟に『休み時間に集中しなさい』と言っていました。フィールドホッケーの練習も始めて、チームに呼ばれるようになり、彼は少しずつ、友達づきあいにも自信をつけていきました」
何とか1年を過ごし、2年目に入るとき、選択科目を選ぶ段になって迷った。どの科目をどう選んでいいのかわからなかったが、ひとまずは得意科目よりも苦手な科目を選んで勉強すべきだろうと思った。ところが先生から、
「なぜ、得意な科目を選ばないの? やりたくないことを無理にやるより、やりたいことをやりなさいよ」
と言われた。そのアドバイスもまた、彼女にとっては意外だった。
2年目に入っても、ミキさんは学校に慣れたわけではなかった。どんなに勉強をしても追いつかない。授業中は、もしもあてられたらどうしようと常に緊張していた。ただ、教科書を読むことでさえ、発音の間違えを指摘されることが苦痛でならなかった。みんなにはスラスラ読めるのに、基本的なことが自分にはできない。
体育の社交ダンスのクラスで、自分とペアを組みたいと男の子が手をさしのべてきたときも、自分はからかわれているとしか思えなかった。
■2年の滞在を経て、日本へ帰国
ミキさんと弟は、両親より一足先に帰国し、祖父母の家で暮らし始めた。高校2年の秋。大学受験に備えての勉強を始めなければならない時期だった。
「結局、私はカナダ生活でのコンプレックスを抱いたまま、帰国しました。けれど、日本の生活に戻り、やがて大学に進んだころから、自分が周りの日本人と傾向が違うことに気づきました。思えば、カナダに行く前から、私は周囲の人たちと同じように生活することや、協調性ばかりを重視される学校生活に対し、疑問を抱いていたのです。それでも、周りに合わせようと無理をしているところがありました。ところが帰国してからは、周りの反応に物怖じすることなく、自分の意見をはっきりと言えるようになっていました。あの2年間が、私に勇気を与えてくれたのだと思います」
とはいえ、カナダで過ごした2年間、自分が持ち続けていたコンプレックスが消えることはなかった。コンプレックスの理由が言葉によるものなのか、アジア人であることによるものなのか、自分でもよくわからなかった。
「大人になり、夫の赴任で再度海外で生活することになって、すごくよかったと思います。自分が成長して、20年前には見えなかったことがやっとわかりました。あのころの私は、英語の教科書をいかに上手に読めるかとか、男の子といかに平気で親しくできるかとかいう表面的なことで、自分を評価していたんです。いろんな人間がいて、個性があって、得手不得手があってそれでいいんだと、最近になって、そう思えるようになりました」
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以下は、ニューヨークで出会った日本人駐在員夫人たちの声を集めた記事。文字数の都合上、詳細を綴れ切れなかったが、各家庭それぞれに、切実な問題に直面し、対応しながら生活していることが伺われた。
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精神的に追いつめられ、心の行き場をなくしたことも。
大学院で心理学を学び、自らカウンセラーに
●在米17年 Y.T. さん
家族構成:夫(日本人)、妻(日本人)、長男16歳、長女13歳
夫の仕事の都合で1984年に渡米。周囲に日本人がいなかったこともあり、Yさん自身、英語の必要性を感じて半年間、大学のESLに通う。翌年長男が誕生。
「中途半端な英語で話しかけると、おかしな発音が身に付いてしまうので」家庭では日本語の会話を、外部とのコミュニケーションは英語で会話をしていた。「英語と日本語の発達のバランスは、シーソーのようなものだった」
そもそもおとなしかった長男が4歳くらいのとき、先生から知能が遅れているのではないかと言われ、カウンセリングを勧められる。Yさんからみれば、アメリカ人の子供のように活発に話さないだけだとしか思えない。カウンセリングに連れていかなかったものの、その出来事は、Yさん自身の心に、大きな傷を残すことになる。
一方、長女はアメリカ人のような快活さで、Yさん自身も子育てに余裕が出てきたせいか大きな問題はなかった。
長男が小学4年になったころ、自分自身の将来について考え始める。渡米以来、子育てに追われ、仕事から離れていた。働きたいという思いが募り、方向を模索しているうち、自分自身が息子のことで「かなりこたえていた」ことを顧みて、心理学を学ぶことにする。
大学院での2年間はひたすら勉強。「2年間、子供に目を向けていても、心は離れていたかもしれない。子供たちの日本語も少しおろそかになっていた」と感じることもあったが、自分自身が「精神的に成長」し「自己の確立」がなされていなければ、子供にも健全に接することができないと思った。
卒業後はボランティアで週に数回、ヒスパニック系の貧しい子供たちを対象にカウンセリングをした時期もあった。両親の離婚率が約7割。「母親のボーイフレンドとうまくいかない」など、何の楽しみもなく追いつめられている子供たちをたくさん見てきた。
現在は駐在員夫人を対象に、カウンセリングをはじめ、英語や英語を学ぶテクニックなどを教えるなど、自分の知識を生かした仕事をしている。
「周囲に合わせることには慣れているが、自分ひとりで行動できないお母さんが多い。まずは自分が自立した考えを持たなければ、子供の問題を解決できない」「夫婦が仲良く協力して、子育てをすることが基本」だと感じる。
若い夫婦が一緒に子育てをしている姿がうらやましい。
少しでもいいから、夫の協力がほしかった
●在米13年 T. T.さん
家族構成:夫(日本人)、妻(日本人)、長男16歳
夫の赴任に伴い、長男が3歳半のときに渡米。数年間の駐在予定だったから、いつか帰国したときのために毎日、日本語のテレビ放送を見せたり書物を与えるなどしてきた。
プレイデートなどを設け、よその子供たちとコミュニケーションを取る機会を与えてきたが、息子は日英語両方をうまく使い分け、言葉に困ることはなかったものの「アメリカナイズ」されないまま成長した。おとなしい性格だったこともあり、日本の生活習慣が肌にあっているようで、自分から積極的に日本語や日本の文化を学ぼうとしていた。
Tさん自身は、子供を媒体にして、あちこちのボランティアに参加するなどして地域との関わりを持った。学校のイベントはこまめに参加したが、夫は多忙なこともあり、顔を出すことはほとんどなかった。
両親で参加するのが当然というアメリカにあって、自分一人で子育てをすることに不安や寂しさがあり、ジレンマに陥ったことも少なくない。最近は日本人でも、夫婦で子育てをする若い夫婦が多いのを目にし、とてもうらやましく思う。
あらゆる行事に積極的に参加し、頻繁に学校に出入りした。
先生とのコミュニケーションがとにかく大切
●在米11年 K.W. さん
家族構成:夫(日本人)、妻(日本人)、長男17歳、次男12歳
赴任当初はヴァージニア州の、会社の人以外日本人が全くいない地域に住んでいた。当時、長男は6歳、次男は1歳半だった。長男はまもなく現地校に入学することになるが、当然ながら英語が身に付いていないことによる学習能力のハンディがあったが、中学生になる前あたりから、学習能力がどんどん伸びてきたという。
Kさんは、とにかく学校に足繁く通い、先生と交流を持つことに専心した。流暢に英語が話せたわけではなかったが、気にしている余裕はなかった。自分の存在をまずは先生にアピールすることを心がけたのだ。
行事やボランティアには積極的に参加し、何か理由を見つけては学校へ出かけ、不安な点があれば先生に相談した。小さいころは、お母さんがしょっちゅう学校に来ることを喜んでいたが、大きくなるに連れ、喜ばなくなったものの、少なくとも1カ月に一度は出かけた。
長男には、日本での生活も経験させようと、年に1回、YMCAが主催する男子対象のキャンプに参加させていが、「日本の男の子たちが何を考えているかよくわからない」とこぼすこともあった。
一方、次男は完全にアメリカ人の感覚を備えており、「日本人であること」を意識させ過ぎた余り、拒絶反応を起こした時期があった。周りの友達と同じように、アメリカ人として接してもらいたい、日本人だからと珍しがられるのがいやだと訴えた。
再婚したアメリカ人の夫は、実の父親以上に
深く息子たちと触れ合い、一生懸命、育ててくれている
●在米14年 K.S.さん
家族構成:夫(アメリカ人)、妻(日本人)、長男17歳、次男16歳、長女7歳
長男が3歳、次男が1歳半のとき、夫の赴任に伴い渡米。当初は4、5年の滞在予定だったので、家庭では日本語を話していた。現地のナーサリーで、「家庭でも英語を話してくれ」と言われたが、日本語を通した。
3年後、夫と離婚。実家から帰国するよう言われたが、そのまま帰国したとしても親に頼るしかなく、自分自身がダメになってしまうような気がして、アメリカに残り、シングルマザーとして子供を育てていこうと決意する。
数年後、アメリカ人男性と再婚。彼は結婚前からKさんの家庭に出入りし、子供たちをかわいがり、とても仲良く過ごしていた。一人暮らしが長かった夫にとって、皆で過ごすことは喜びでもあった。結婚後、家族の会話は英語中心となり、Kさんは夫から、もっと英語の勉強をするように言われる。
夫は子供と仲がいい分、非常にしつけに厳しい。生活態度、勉強、交友関係と、あらゆる場面において注意を払っている。息子たちは、どんなに父親と大げんかをしても、「マミーの話はロジカルじゃないけど、ダディの言うことはリーズナブルだから、聞く気になる」と憎らしいことを言ったりもする。
彼らにとって父親は怖い存在だが、同時に尊敬の対象でもある。
子供たちは、将来もアメリカで暮らすことになるだろうから、基本的にはは英語中心の生活。ただ、毎年夏休みには日本に送るなど、日本の生活や文化に触れ合えるよう、環境作りをしている。
94年に長女が産まれた直後から、Kさんは仕事を再開したので、ナニーに預ける時間が長く、日本語で接する機会が少なかった。読み書きは無理でもせめて話せる程度にはさせてやりたいと、最近、公文に通わせ始めた。最初は周囲の言うことがわからずいやがっていたが、徐々になじんできたようだ。
両親共に働いているため、家族全員が一緒に集まるのは週末だけだが、平日でもKさんか夫のどちらかが早く帰宅し、必ず子供たちと一緒に夕食を取るようにしている。 夫の助言もあり、子供の様子に異変を感じたら、早いうちに学校に相談したり、小児サイコロジストを訪ねたりしている。
スポーツでも音楽でもなんでもいい。
何か一つでも特技を持っていれば、子供の自信につながる
●在米21年 J.K. さん
家族構成:夫(日本人)、妻(日本人)、長男13歳、次男9歳
アーティストを目指す夫と共に渡米、ニューヨークで暮らし始める。34歳で長男を出産。妊娠したころは、将来永住するつもりはなかったものの、日本の教育を受けさせることには抵抗があった。自分の子供時代を思い返すと、のびのびと育った気がしない。とはいえ、アメリカの事情も詳しくはわかっていなかった。
妊娠中、さまざまな書物を乱読した結果、薬物を投与しての出産を避けたく、助産婦(Midwife)を通して出産することにした。助産婦主催のクラスにも夫婦で参加する。最初はいやがっていた夫も徐々に興味を示し始めた。
アメリカ人は気さくだから、子供を連れて外出すると、みな気軽に声をかけてくれたり、手を貸してくれたりする。どこの公園に行っても、母親同士が気軽に会話を始める。たとえよその子でも悪いことをしていれば注意するなど、子供たちを「皆で育てている」という感覚があった。
だから、一時帰国して日本の公園に行ったときには驚いた。母国だから日本語で楽しく会話ができるだろうと出かけたところ、公園内にグループが出来ていて、お母さん方は子供たちに注意を払うよりも、自分たちのおしゃべりに夢中になっている様子。「何、この国?」と思い、びっくりした。
長男は4歳から親子クラスに参加したり、公文に通わせたりと、日英両方を覚えさせようと気合いを入れすぎたように思う。ミュージックスクールにも通わせ、バイオリンやピアノを学ばせた。先生がすばらしかったこともあり、長男はバイオリンを喜んで続けた。現在はかなりのスキルを身につけているという。何か特技を持っていると、それが本人の自信につながるようだ。
勉学以外にも、スポーツやアートなどで自己表現できるチャンスが多いアメリカは、一概には言えないけれど、日本よりものびのびした環境があるように思える。
家庭では、父は優しく、母は厳しい存在。息子たちと3人で釣りに出かけるなど、父子がコミュニケーションをとる機会も多い。
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