(本日の記録は、むやみに長くなってしまった。くだらないことも書いているが、くだらなくないことも書いているので、読んでいただければと思う。ちなみに上の写真はムンバイ宅の窓辺に遊びに来たトンビ)
気がつけば、10月も下旬。母は70歳になるし、インド生活3周年は近づくし、ディワリは目前だし、ハロウィーンやサンクスギヴィングデーも、今やあんまり関係ないがやってくるし、来月は日本行きだし、戻って来たらクリスマスだなんだで、2008年もまた怒濤のように過ぎていく。
今年はぜひともこれをやろう! と決めていたことのいくつかは達成できないまま、来年に持ち越し。そうこうしているうちにも、あっというまにばばあになってしまいそうな勢いだ。こうなったらもう、長生きするしかない。やはり健康管理が大切といえよう。
それにしても、昨今のムンバイは暑い。引っ越して以来、一番暑い気がする。微風のファンをつけているにも関わらず、夜中に暑さで目が覚めて、一時冷房を入れたりする始末。冷房嫌いのわたしには考えられない行動だ。
出張後は、ヨガをする気力もなく(夫は毎朝、ちゃんとやっている)、起きるなり熱いシャワーで目を覚まし、一日を始める。普段なら短時間で仕上げられるはずの原稿を、時間をかけて2本仕上げ、合間合間に、買い物に出かけたり、料理をしたり、DVDを見たりしていた。
クライアントの方が録画してくださったNHKスペシャルの『インドの衝撃2』の第1回から3回までを、まとめて観た。昨年『インドの衝撃1』を観たときと同様、その取材力に感嘆しつつ、興味深く観た。
昨年も、そして今年も、自分の周辺にあるインドとインド人とかなり近いテーマが取り上げられていたこともあり、親近感を持って、知識を深めることができた。
以下が昨年、そして今年放送分の内容だ。ご丁寧にも番組のサイトのリンクをはったので、ご興味のある方はご覧いただければと思う。
■2007年1月放送分
第1回 わき上がる頭脳パワー
第2回 11億の消費パワー
第3回 台頭する政治大国
■2008年7月放送分
第1回 「貧困層」を狙え
第2回 上陸 インド流ビジネス~日本を狙う「製薬大国」~
第3回 「世界の頭脳」印僑パワーを呼び戻せ
去年の放送分に立ち返って、個人的な感想を、備忘録もかねて記しておきたい。たしか昨年は、感想を記すといいながら、そのままだったので。
わき上がる頭脳パワー
去年の第1回は、IIT(インド工科大学)のことが取り上げられていた。わたしの周囲にも、たとえば義姉スジャータの夫、ラグヴァンやその弟マドヴァンをはじめ、IIT卒の人は少なくない。彼らは卒業後、Ph.D. に進むため、米国の大学院を出たが、インドに戻って研究をし、教鞭をとっている。
番組サイトにもあるように、「IITに落ちたらMIT(マサチューセッツ工科大学)に行く」といわれるほどの難関校らしいが、確かに番組をみて、その競争率の高さを知れば、納得がいく。受験をするにも、特に貧困層の人たちにとっては「命がけ」といっても過言ではない状況だ。
我が夫アルヴィンドはといえば、子供のころから米国の大学に進むことを夢見ており、IITを受けなかった。以前、その理由を聞いたとき、彼は言った。
「僕は、インドが大嫌いだったんだよ。貧しくて、汚くて、第三世界のインドが。両親も僕が米国の大学に進学することを望んでいたし、僕だって、それ以外に道はないと思っていた。IITは、学費が安い代わり、学校の研究設備も整っていないし、やっぱりMITの方がいいと思ったんだ。
それにね、IITって、全寮制なんだよ。汚い寮で、男だらけで、勉強ばっかりやってるギーク(ガリ勉)の生活なんて、考えただけでも耐えられない!」
その話を聞いたときは、「どこまで軟弱なのだろうか、この男は」と思ったものだ。
しかし、番組を通してIITの学生たちの寮生活を観て、深く納得した。これは、マイハニーには確かに堪え難い環境だ。
ちなみに、IITほどではないにせよ、彼が通っていた当時のMITもまた、女子が非常に少なく(しかもチャーミングなタイプの女性は少なかったらしい)、しかも冬のボストンは寒く、世界中から集まってくる優秀な人物たちとの競争は熾烈で、なかなかに過酷な学生生活だったようだ。
4、5年前、二人でカリフォルニアのスタンフォード大学を訪れる機会があった。わたしはもちろん、彼もまた、このキャンパスに足を踏み入れるのは初めてのことだった。
カリフォルニアの陽光と、ヤシの木揺れる美しいキャンパス。ファッショナブルでかわいらしい女学生が談笑しながら行き交っている。その様子を眺めながら、アルヴィンドがたいへん複雑な表情を見せながら、ぽつりと言った。
「ぼく、ここに来れば、よかった……」
「MITは男も女もギークばっかりで、つまんなかったんだよ!」
彼はスタンフォード大学も合格していて、MITとどちらを進むか悩んだあげく、MITを決めた経緯があった。インド在住ゆえ、受験はインドで行われたことから、キャンパスを見学することもできず(彼は十校近くを受験していたらしい)、インターネットもない時代、大学案内のカタログや周囲のアドヴァイスだけを頼りに、決めたのだという。
「ここに来ていれば、僕の人生は、もっと違っていたかもしれない」
そんな彼もまた、わたしと出会った当時は、「ギークなムード満点」であったことを、ここに書き添えておく。
ところで、話をIITに戻すが、昨年だったか、ラグヴァンが20数年ぶりの同窓会に参加すべくIITカンプールへ赴いた。妻のスジャータも同行した。
番組でも説明されていた通り、従来は大半の卒業生が米英の大学院に進んだり、就職先を見つけるなどして国外に出ていた。
ところが最近では、ごく限られた「数名」の学生しか、インドを離れないという。そのことをして、ラグヴァン、マドヴァン、そしてスジャータは、決してよいことではないと力説していた。
インドの中だけにいては、井の中の蛙になってしまう。いくら米国が不況だ、インドが好況だといっても、インドにとどまったままでは、知識や経験の広がりに限度がある。若いうちはできるだけ海外に出て見識を広めるべきだと。
わたしもその意見に同感だ。アメリカで学ぶことは、アメリカを学ぶことではない。米国では、世界各国の人たちと出会い、母国以外の価値観に触れ合える素地がある。
わたしがもしも、米国の大学や大学院に進んでいたら、自分がどれほど成長していただろうかと夢想することが少なくない。
昨今のインドの若者たちは、海外へ向けて冒険せずともよい環境の中で、十分にやっていけるようになりはじめている。それが本当に望ましいことなのか否かは、結果が見えていない今はまだ、誰にもわからない。
11億の消費パワー
去年の第2回は、消費革命の話題だった。
急増するショッピングモールやデパートメントストアの台頭、そして従来とは異なり、「貯蓄」ではなく「消費」に走る「新しい中間層」の人々にスポットがあてられ、変化する小売り産業の実態などがレポートされていた。
個人的に興味深かったのは、かつてゴールドマンサックス在職中にBRICsのレポートをまとめ、その概念を世界に広めた若き才媛、ルーパ・プルショサーマン (Roopa Purushothaman)だ。
彼女は現在、Big BazaarやPantaloonといったスーパーチェーンを擁するグループの一つであるFuture Capital Holdingsにおいて、チーフ・エコノミストとして活躍している。
番組の詳細は覚えていないが、いつか改めて過去の放送を見て、彼女の予言がどこまであたっているかを確認してみたい。
加えて、SamsungやLGなど韓国家電メーカーの圧倒的な市場開拓パワーは、消費者としても実感していたので、番組でその
一部が取り上げられていたのにも納得ができた。一方、日本の家電メーカーの苦境を複雑な気持ちで見た。
あのとき、日立のエアーコンディショナー「美」シリーズをインド市場に普及させるべく経緯が紹介されていたので、それ以降も、市場調査の折など気に留めて見ていたし、広告などにも注意を払っているのだが、あくまでも個人的な意見を記すならば、インパクトが弱すぎる。
広告にも出ている「美」という漢字。個人的には自分の名前の一部でもあるし、好きなのだが、やはり弱い。海外でもよく知られているKaizen(改善)という単語にかけて、Kaimin(快眠)をうたっているのだろうが、広告内の文字は小さくわかりづらい。
暴風を好むインド人向けエアコンは、わたしにとっては豪快すぎる。微風やドライ効果のある日本製を望むのだが、しかし我がムンバイ宅のエアコンはLGが備え付けられている。窓の外を眺めれば、世間の窓に備えられた室外機の大半がLGだ。
日立を使っている人もあるのかもしれないが、ロゴが小さすぎるのか目立たず、見たことがない。LGのロゴと赤いマークに勝るとも劣らぬ、HITACHIのロゴを、室外機にすっきりと読みやすい書体で、しかし大きく印刷してはどうだろう。それだけで、無料の広告になると思うのだが。
それともすでに、なされているのだろうか。もしも、業績は好調にのびているということであれば、お門違いなコメントであるので、このくらいにしておこう。
ともあれ、世界的な不況もなんのその、今回チェンナイやコルカタなどを訪れても思ったが、どの街もその速度の差はあれ、開発が進み、その街の容貌を変化させている。
このブログでもしばしば記しているところだが、ただ日常生活を営むために、ショッピングモールやスーパーマーケットへ赴くだけで、日々、経済成長の様子を実感することができる。その変化に、いったいどれほどの人たちがついていっているのだろうとも思う。
もしも半年、一年ほど不在にしていたら、なじみの街ですら、そうではない雰囲気だと感じられるような気さえする。
「貧困層」を狙え
去年の「第3回」はDVDがうまく再生されずに観られなかったので、次は今年の第1回に関して。第2回、第3回は自分のイメージできる世界が取材されていたのに対し、農村部を開拓する大企業の戦略をつぶさに取材したこの第1回「貧困層を狙え」は、非常に興味深かった。
たとえばHindustan Unileverがインド市場の主流を占めており、石けんやシャンプー、洗剤といったFMCG(日用消費財)を農村部に販売するべく、1ルピーで買える使いきりの小さなパック入り商品を販売していること、そしてその業績を上げていることは、わたし自身、リサーチを通して知っていた。
しかし、もちろん、直接農村へ赴いて実態調査をしたわけではない。今回、Hindustan Unileverが農村女性を教育して販売員に育てると同時に、学校を訪問して子供たちに「手洗いの習慣」を啓蒙しているその地道な活動の様子を目の当たりにして、感嘆した。
ばい菌が健康を損ねる原因になる。食事の前や、トイレの後は、手を洗いましょう。そのようなことを、子供たちに連呼させると同時に、自社の商品名を覚えさせる。その情熱というか、商魂というか、パワーに圧倒された。
わたしが小学生のころ、やたらと学校で使用を促進された「シャボネット」を、ふと思い出した。
また、ITC(コングロマリット)の農村部へのアプローチも、噂には聞いていたが、その地道な努力に驚いた。無数の村のひとつひとつに足を運び、インターネット接続の環境を整え、農民にコンピュータの操作を教える。
地元市場での卸価格に不満を持っている農民たちに、農作物の市場をチェックさせ、自らの判断で取引先を決定させる仕組みを作り上げた。基本は、中間業者を飛ばせる分、若干高めに買い取り価格を提示できるITCに売ってもらうのが目的だ。
砂塵舞う悪路を走り、村へ赴く社員。コンピュータの概念すら知らない農民たちは、しかし覚えが非常に早く、予想していたよりも早く成果があがったとのことを、淡々と語っている。
みんな、よくがんばって働いているのだなあと、しみじみと、心打たれる。
上陸 インド流ビジネス~日本を狙う「製薬大国」
第2回は、インドの製薬産業の話題。日本の共和薬品工業を買収したインドの製薬会社ルピンのケースが取り上げられていた。この回もまた、個人的に非常に興味深かった。理由の一つは、ルピンの会長の娘が、知り合いだからだ。
昨年バンガロールで、夫が卒業したWharton School (MBA) の同窓生が集まる会合が何度か開かれた。その呼びかけ人であるマニーシュの妻、カヴィタがその人物だ。彼女自身、スタンフォードビジネススクールを出て、バンガロールでプレスクールを経営している。
ムンバイの自宅を大改装中だと言っていたが、なるほどこのモダンな建築が彼女の実家なのかと、本筋とは関係ないところに見入ったりもしたが、そんなことはさておき、この回もまた、非常に興味深かった。
現在、日本で第9位である共和薬品を第3位までに押し上げるべく、ルピンの首脳陣が日本に乗り込んでくる。ミーティングでは容赦なく数字を突っ込み、しつこくしつこく、納得できるまで質問を繰り返す。
この回のキーマンは、共和薬品工業副社長の杉浦健氏。創業者の孫でもある彼が、買収関係の話を進めて来たとのことで、彼のコメントが頻繁に現れた。極めてまじめに、真剣に、疲労感のにじんだ様子で、内情を語っている。
インド人とビジネスをするにあたって、どれほど壁にぶちあたったことだろうか、想像に難くない。ルピン社のインド人をして、杉浦氏が、
「結果がきっちり出ているかで出ていないかが重要視される。プロセスは構わない……そういう意味でも、取締役会らしい取締役会……といったら、今まで何やってたんや、みたいな話ですけど……させていただいているなという実感はあります」
と真顔で話していたのが、しかし笑えた。
また、去年の9月、買収の最終交渉を行うべく、両者の首脳が香港に集まったときのエピソードが興味深かった。すでに半年間に亘る協議を経て、買収金額についても概ね合意を得ていた。
しかしインド側は、その前提となる決算書について、数字の根拠を確認したいと、一から確認し始めたという。譲渡計画の中身に双方が合意するまで、交渉は休みなく三日三晩続いたとのこと。
「そうなのよ。インドって、まさにそう!」
と、思わず膝を打つ。そして思う。この経緯は非常にインド的だが、このインド的な部分を体験したことのない外国人にとっては、強烈な洗礼であろうと。杉浦氏はじめ、インド初体験の首脳陣は、この交渉を通して、どれだけ疲労困憊しただろうかと察するに余りある。
杉浦氏曰く、
「数字についての質問に答えていく……頭の中では、もう、これはすでに終わってる話じゃないの?……決して妥協せず、自分の主張をどんどんどんどん進めていく……みたいなやり方なんで……これはおそらく、慣れているとか慣れていないとかじゃなくて、インド人ってみんな、そうなんだろうなというふうに、思いましたよ」
ここでわたしは、深く頷くと同時に、同志を得たような喜びすら感じた。最近でこそ、どうでもいいやと思えるようになったが、そもそもはインド人を十把一絡げで判断されたり見下されたりすると、カチンと来ていたわたしにも関わらず。
多分杉浦氏による「インド人ってみんな、そうなんだろうな」というコメントには、彼自身が全力で異質なものを受け入れ、納得しようとしている努力が感じられて、そこにわたしは敬意を覚えたからかもしれない。
たとえ舞台裏で、「なんやインド人、しつこいわ〜!」とぼやいていたとしても、だ。
ところで「もう、これはすでに終わってる話じゃないの?」と頭の中で思うという行為は、そのままわたしの日常だ。
我が夫アルヴィンドも、「もう、これはすでに終わってる話じゃないの?」という話を、さも、今初めて議題に掲げますといわんがばかりの新鮮さで、目の輝きで、何度も何度も、繰り返し繰り返し、わたしの意見を求めてくることがある。
「もう、わたしは同じことを何百回も言いました!」
「すでに、結論が出たんじゃなかったの?」
「わたしの意見に変更はありませぬ!」
「意見が変わる? 変わらんって!」
「ああ、もう、しつこい! うるさい!」
「またその話? あんたはアルツハイマーかい!」
「あ、それともマラリア2回もやったせい?」
夫のしつこい議論攻撃に、心底、夫の若年性アルツハイマーを心配したこともあったが、どうやら病気ではないようだ。
それはまた、「単に阿呆な男」というわけでもなく、「インド人だから」なのである。多分。ともかく、自分が心底納得するまでは次に進まぬ、頑固と言えば頑固な精神構造なのだ。
共和薬品の役員だけでなく、「わたしも結構苦労しているかも」と思う、視聴後の所感。
「世界の頭脳」印僑パワーを呼び戻せ
この番組では「印僑」と表現しているが、このサイトでも幾度か記してきた、それはインドでNRI (Non Resident Indian) と呼ばれる人々のことである。夫アルヴィンドもまた、元NRIである。
印僑が、現在のインド経済を好況に導いている「牽引力」となっていることは、巷のインド関連書物などでも触れられている昨今ゆえ、敢えてここで記すまでもないだろう。
ただ、その趨勢を4年前に察知し、「夫にインド移住を促したわたし」については、しつこいが再び触れておきたい。中途半端な英語力を少しでも叩き直そうと、ジョージタウン大学のEFL集中講座にフルタイムで3カ月通ったのは2003年冬のこと。
最終の研究論文を記すにあたり、インドにおける頭脳流出と、近年の循環傾向への移行、そしてインドの新経済について、さまざまに調べた。今読めば、その内容は浅薄だが、情報が少なかった当時にしては、結構がんばってまとめたつもりだ。
一応、ここに日本語訳のリンクを張っておく。■インドの新経済
さて、この第3回は、夫がテーマである印僑であることもあり、非常に親近感を覚える内容であった。印僑の起業家を支援するTIE (The Indus Entrepreneurs) は、アルヴィンドもまた米国時代に属していた。尤も起業家としてではなく、投資する会社側としてであるが、会合などには時折参加していて、創業者のカンワル・レキ氏とも面識がある。
実はわたしも、このTIEのメンバーが集うファミリー同伴の親睦会に参加したことがある。ワシントンDC郊外、ヴァージニア州にあるホームステッドという高級リゾートで、2泊3日に亘って行われたイヴェントだった。
わたしにとって忘れられないのは、晩餐会でのファッション。
インド人ばかりが集うパーティとのことだったので、インド旅行中に調達していたサリーを着用する好機とばかり、はりきって着たのだが、初日、サリーを着ていた女性は、なんとわたしだけだった。目立ったことこの上ない。
「美穂。それはね、スジャータが日本人のパーティで一人で着物を着て現れるのと、同じことだからね」
と、アルヴィンドに呆れられたものである。自称サリー親善大使は、それなりに苦い過去を持っているのである。でも、めげずに翌日もサリーを着た。なぜなら、ほかに盛装を用意していなかったので、選択肢がなかったのだ。
このイヴェントの出来事を記した当時(2004年)のメールマガジンを、今、読み返した。自分で書いておきながらいうのもなんだが、かなり面白いレポートなので、益々長くなるが、ここに引用する。なお、「A男」とは、アルヴィンドのことである。
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【サリーを着たがる女】
サリーを着たがる女。それはわたしのことである。わずか2泊3日、それも皆で集まる食事は3回だけにも関わらず、わたしはサリーを4着も持参していた。まるで国際的なパーティーに参加する女優並みの気合いの入れようである。
4月にインドを旅行した際、わたしは街に出て、サリーショップを彷徨した。そして、その色柄、素材、模様の多彩さに、改めて、深く魅了された。こんなに無数の、豊かな布地がある国は、インドをおいてほかにあるだろうか、いやない、とも思った。
街角の物乞いも、工事現場の作業員も、銀行員も、ウエイトレスも、有閑マダムも、品質の差異はあれ、多くの女性らがサリーを着ている。
近年、ワンピースとパンツ、スカーフを組み合わせた「サルワール・カミーズ(パンジャビ・ドレス)」と呼ばれるカジュアルな民族衣装や、西洋のファッションを身につける人々が増えているとはいえ、たとえば日本の「着物」に比べれば、サリーは遥かに日常的な民族衣装である。
約1.2×5.5mもある贅沢なほど豊かな生地を、しかし、ただ身体に巻き付けるだけで、美しい衣装に仕上げられることの見事さ。ブラウスをあつらえ、ペチコートをはく必要があるものの、シンプルに布の味わいを表現する衣装であるには違いない。
7着ものサリーを購入したものの、4月以来、一度も着用のチャンスがなかった。従って今回のインド関係イベントは、願ってもいないチャンスだった。
サリーを着たがってはいるものの、わたしはこれまで自分でサリーを着たことがない。サリーショップでもらったイラスト付き説明書は持っている。それに、着付けてもらったときのことをかすかに覚えているから、なんとかなるだろうと思った。ただ着崩れ防止のため、安全ピンを用意しておいた。
さて、初日のディナーである。二日目のディナーは「フォーマル」とあったので、初日は少し「カジュアル系」のサリーを着ることにする。それが果たして「カジュアル系」なのか否かの判断は、あくまでもわたしの主観であり、当のインド人の目にはどう映るのか、実はさっぱりわからない。
そのサリーは、光沢の少ないレモン色のシルクに、赤い糸での刺繍が施された、非常に軽やかで優しげな印象である。パーティー開始の30分前に、わたしは着用を開始した。さほど難しくはないだろうと思っていたが、これが結構、難しい。
長い布の一端をペチコートのウエストに挟み、ぐるりと一周、腰に巻き付けた後、ウエストの前あたりに、幅13センチほどのプリーツを7~9本作る。
それを束ねて安全ピンでとめ、ペチコートのウエストにグイッと挟み込み、残りをさらに身体に一周させ、布の残りを胸の方にたくし上げ、肩に載せ、背中に向けてストンと落とす。このストンと落とした広い部分に、サリーの「ハイライト」とも言うべく、刺繍や模様が施されているのである。
肩のあたりで布を折り曲げず、だらりと布を被せるようにする着方もあるが、わたしは肩の上にプリーツを作ってきれいにまとめたかったので、懸命に整えようとするのだが、なかなかうまくいかない。
額に汗をにじませつつ、「このプリーツは着用する前に折り曲げて安全ピンで留めておくべきだ」と気づき、やり直し。そんなこんなで、なんとか要領をつかみ、かなり時間がかかったものの、どうにか、うまく着用することができた。
ちなみにインドでは、サリーの種類もさまざまだが、その着方もさまざまだ。「ハイライト」部分を後に垂らすのではなく、前に持ってくる着方もある。
ブラウスのデザインも、胸のあき具合、ウエストまでの丈の長さ、袖の長など、さまざまである。大きなお腹をぶり~んと出している人がいれば、ほんの少しを上品にセクシーに見せている人もいる。同じサリーで、ここまで印象が違うか、というほどである。
また、プリーツを几帳面に折り曲げている人もいれば、全体にぐしゃぐしゃと身体に巻き付け、見るからに着崩れている人もいる。わたしは、ホテルの従業員などや、航空会社の地上係員に見られる、ピシッとした、しかし動きやすそうな着方が好みなので、それに倣った。
そして、A男とともに、いよいよ、ディナー会場へ。
すでに満席に近かったその会場に足を踏み入れ、周囲を見回して、一瞬、目が点になる。総勢約60名、うち約半数の女性のうち、サリーを着ている人が、サリーを着ている人が、誰もいない! どどどどういうこと?!
かつて同じ面々でのパーティーに参加したときは、大半がサリー着用者だったのに!「サリー禁止令」が敷かれているとでもいうの?
というわけで、わたしが会場に入るなり、人々の視線がヒュンッと集まる。そもそもから、インド人多数の中、東洋人は目に付く上に、サリー着用である。ひときわ目立つことこの上ない。しかし、ここで怯んではならぬ。
いかにも、「わたくしは幼少のみぎりよりサリーを着用して参りましたのよ」というムードで、間違ってもハロウィーンの仮装のような「とってつけた感」がないよう、振る舞うことにした。
幸い、周囲の人々は、「あなたのサリーは美しい」「うまく着付けてますね」と、お世辞もあろうが感心してくれたため、少々、気が楽になった。
サリーは飲んでも食べてもお腹が楽なのがいい。苦しくなったらペチコートの紐を調節するだけでOK。食べ過ぎる危険性は高いものの、見た目よりは遥かに着心地のいい衣服といえよう。
そして翌日のディナー。わたしは、たとえたった一人の着用者になろうとも、今夜もまた、サリーを着るのである。
そもそも、ランチタイムにすら着ようと、用意してきたのだから。ちなみにランチ用に準備していたサリーは、いかにも「晴れた午後の芝生の庭」にぴったりな、薄いピンクのオーガンジー・シルクに金糸の繊細な刺繍が施されているサリーである。
残念ながら、ランチタイムは時間も短く、悪天候のため室内ランチとなり、そんなに気合いを入れている場合でもないとわかったため、着用を断念した。
さて、この日のディナーは「フォーマル」である。従って、昨日よりは少しゴージャスな雰囲気のサリーを着ることにする。
それは、厚みと光沢があり、非常に滑らかな、えんじとゴールドの生地で、全体に花模様が折り込まれている。ブラウスはえんじ色、巻き付けるサリーは主にゴールドが表に出るが、肩から垂らす「ハイライト」部分はえんじ色が主体の美しい刺繍である。
この日は、前日の特訓の成果があり、約10分ほどでうまく着付けることができた。
ホームステッド内には、いくつものパーティー会場があり、夕暮れどきになるとタキシードやドレスを美しく着飾った人々がラウンジを行き交う。
人種及び老若男女を問わず、すれ違う人々はわたしのサリーを見て、「まあ、美しい!」「なんてゴージャスなの!」「すばらしい!」と褒めてくれる。もんのすごく気分がいい。
本当に、西欧のシンプルなドレスが地味に思えるくらい、サリーには強烈な「布の力」があるように思う。
さて、この日、サリー着用者はわたしを除き、わずか2名であった。共にかなり肥満体型の年輩のご婦人で、お腹も背中もぶりんぶりんに露出している。着崩れ全開である。
すっかり図に乗っているわたしとしては、「着付け直して差し上げましょうか?」と言いたくなるくらいだ。まったく余計なお世話である。
今夜も前夜同様、立食ではなく、大きな円卓に着座してのコース料理である。白ワインともに、サラダ、スモークサーモンなどの前菜を食したあと、わたしは3つあるアントレ(主菜)の中からプライム・リブ(ローストビーフのような料理)を選んだ。
インド人の集いに牛肉のメニューがあるのも珍しい。無論、それを食べている人は、周囲にわたしたち夫婦以外、誰もいなかったが。
柔らかな牛肉、それに添えられたマッシュドポテト、ブロッコリー・ラブ(ラピーニ)のソテーなどを、隣に座ったティーンエージャーの女の子とおしゃべりしつつ、おいしく平らげる。
デザートのバターピーカン・アイスクリームもおいしくて、満足なひとときである。
さて、この夕食の間、数人の人々が、わざわざわたしの席までやって来てサリーのことを褒めてくれた。
「みんなが君のサリーを褒めたと思うけどね。褒めないヤツがいたら、俺がパンチをくらわしてやるから」
と、よたよたしたおじいさんからも褒められた。
「僕は妻にサリーを着て欲しいんだが、面倒くさがるんだよ」
という若い男性らもいる。
若いときに渡米して以来、20年近く、ほとんどサリーを着ていないという女性は、
「わたし、サリーの着方が下手なのよ。あなたに教えて欲しいくらいだわ」とまで言う。
聞けば多くの女性は、たっぷりとサリーを持っているようだ。けれど、それらは「クローゼットの肥やし」で、米国では、インド人の結婚式に参列するときなどを除き、ほとんど着る機会がないらしい。
今回のイベントは、今までと異なり、アメリカナイズされた女性らがたまたま集合した様子である。彼女らにとってのサリーは、日本人にとっての着物と似たようなものかもしれない。
米国での生活が長くなるにつれ、自国の文化を意識的に大切に守ろうする人がいる一方で、いかに「アメリカナイズされた生活をするか」ということに主眼を置く人がいる。
その夜は、そのままダンスフロアのあるバーに行き、みんなで賑やかに踊った。サリーは踊りまくれるのもいい。安全ピンのおかげで着崩れすることなく、踊るマハラジャ状態である。往年のヒットソング「YMCA」が流れた時には、大きく両手をかかげて、Y!M!C!A!と、ポーズまでとってしまう始末である。
気分よく部屋に戻り、サリーを畳みながら、しかしわたしは日本の着物のことを考えていた。
わたしは、自分で日本の着物を着ることができない。妹が成人式のときに着た振り袖のお下がりを持っているが(わたしは成人式に着物を着なかったので)、それを着たこともない。せいぜい浴衣だけだ。
確かにわたしはサリーが好きだし、サリーを着てほめられたのは、とてもうれしかったけれど、でも、理想を言えば、日本の着物を美しく着こなして褒められたほうが、多分ずっとうれしいような気がする。
第一、サリーはわたし単独だと着ていて違和感がある。いつもA男とセットでなければバランスがとれないのもしゃくに触る。
とはいえ、日本の着物は総じて高い上に、着付けが難しくて、しかも窮屈だ。やっぱりわたしは、当分は、これからも「サリーを着たがる女」で居続けるのだろう。
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わたしがサリーを着て目立ったことにより、夫もメンバーから声をかけられる機会が増え、結果的にはよかったのだということを、付け加えておきたい。
さて、番組の話に戻る。
世界で活躍するインド人たちの紹介シーンで、アルヴィンドの親戚であるところの米ペプシコCEOインドラ・ノーイの写真が現れ、本当にすごいおばさまだと思いを新たに彼女の笑顔を眺め、さて、その直後、スポーツカーを颯爽と走らせる、シンガポール在住の国際ヘッドハンター、ロヒト・アンビカー氏(インド人)が登場した。
彼もまた、アルヴィンドの知り合いであった。
実は昨年、ロヒトからアルヴィンド宛に、「あなたの奥さんをNHKのディレクターに紹介してもいいだろうか」とのメールが届いていた。彼とディレクターが知り合いで、もしかしたら、何か尋ねてくるかもしれないから、そのときには対応してほしいとのことだった。
結論から言えば、彼女からわたしへのコンタクトはなかったのだが、ロヒト自身がわたしのウェブサイトをチェックしたらしい。折しもわたしたちはニューヨーク旅行中。あるときフェラーリのショールームの写真を掲載していたら、
「君たちも、あの車に興味があるの? 実は僕も欲しいと思っているんだ!」
とのメールが届いた。いやいや、わたしたちは眺めていただけです。買いませんから!
フェラーリ。インドのどこで、フェラーリを走らせるというのか。と、突っ込みたかった。メルセデスなど「ドライヴァーに運転してもらえる高級車」をインドで乗る分には構わないが、「自ら運転してこその醍醐味」的な車ほど、インドに似合わない車はない。
私有地にサーキットでも作って走るというのなら話は別だが、インドの公道でスポーツカーはもちろん、2シーターやコンヴァーチブル(オープンカー)は、間違っている。
以前バンガロールで、ベンツのコンヴァーチブルを全開で走っている人がいた。オートリクショーやおんぼろ暴走バスから排出される灰色の煙に包まれて、どんなにか身体に悪かろうとドライヴァーの身を案じたものだ。
つい数カ月前は、ムンバイのマリーンドライヴでBMWのコンバーチブルに乗った人を見かけた。バンガロールより排ガスは少ないし、海風を受けられるし、これはなかなかにいけるかもしれないと、思った。
が、マリーンドライヴが終わるあたりの信号待ちで、事態は一変した。赤子を抱えた物乞いや、薄汚れた物売りが、一斉に彼に駆け寄ったのである。超無防備。
まるでコメディを見ているようで、笑っちゃいかんが、笑ってしまった。
インドに、スポーツカーは似合わない、という話である。
まだまだ、コメントしたい箇所がたくさんの「インドの衝撃」シリーズであったが、もう、呆れるほど長くなったのでこの辺にしておこう。
インド在住3年目にして、少しずつ、自分の中にインドが浸透し始めているな、という気が、この番組を通しても実感できた。それがいいことか、悪いことなのかはわからぬが、おもしろいには違いない。
ところで、第3回を見ていて少々引っかかったことをひとつだけ。印僑たちがいかにも、「母国の将来の発展を願っている」というトーンに終始しているところに、違和感を覚えた。それは「美しすぎる捉え方」だと感じた。
確かに、純粋に母国愛を持ち、祖国の発展を願い、尽力している人はたくさんいるだろう。しかし少なくとも、わたしの夫はそうではない。わたしの夫のまわりにも、そんなことを口にする人はあまりいない。
みな、それなりに、私欲に満ちていて、自分の成功をまずは夢見ている。インドに戻ってくる人の心理は千差万別。いくつもの感情が絡まって、自分ですら戻って来た理由がよくわからない人もいる。
インド人としてのアイデンティティの問題にゆれる人がいる。子供たちをブリトニー・スピアーズのようにはしたくないと思い、インドに戻る決意をする人がいる。
年老いた家族を、米国につれて来て一緒に暮らすより、慣れ親しんだ故郷で人生の後半を家族や親戚とともに送りたいと思う人がいる。
米国の生活に憧れて、ここで学び、働いて来たけれど、景気が下降線をたどっている今、上昇気流に乗ったインドで一花咲かせてみようじゃないかと思っている人がいる。
米国の生活に特に不満はないのに、日本人妻が妙にインド移住に乗り気で、ついつい自分もそんな気になって、汚くて貧しい、大嫌いだったはずの祖国に戻って来た人がいる。
無数の印僑たちが、それぞれの理由を抱えて、一大決心のもと、母国に回帰している。
しかし、この番組で取り上げられなかったことを挙げるとするならば、いったんインドに戻って来たものの、インドでの暮らしにどうしてもなじめず、再び米国に戻っていく印僑もまた、少なくないということだ。
外国人の駐在員であれば「ここは異国である」と、大いなる不都合や不満もなんとか乗り越え、任期を全うするまで耐えることができるだろう。
しかし印僑にとってインドは母国。愛憎をぶつけやすい母国である。
急成長のただ中とはいえ、問題点が多すぎるインドの生活。慣れ親しんだ先進国の方が、暮らしやすい側面は多々あるに違いない。
家族の問題。子供の教育の問題。ライフスタイルの問題。生活環境の問題……。
問題は、常時山積だ。
「愛国心」や「利潤の追求」や「野心」だけでは乗り越えられない、さまざまなしがらみがあるのだということを、深い深い実感を込めて、ここに記しておきたい。