インド生活4年。うち2年間はムンバイとの二都市生活を送っており、ここしばらくはバンガロール宅滞在が、一カ月のうち1週間程度という日々が続いていた。
そのせいか、2週間目に入ったころから、無駄に気分が落ち着かない。そろそろ移動せねば、との思いに駆られるのだ。いやいや、あとしばらくはのんびりとしていいのだから、と折に触れて自分に言い聞かせるここ数日。
と同時に、屋内の「不都合」に目がつき始めた。この2年間は、大いなる問題以外は看過してきたのだが、微調整レヴェルの問題が散見される。
3年前に新居を購入し、怒濤内装工事を経て仕上げたわが家である。今後もお世話になるのだから、丁寧に維持しておきたい。しかし……などと書き始めるとまた話が長くなるので、このあたりにしておく。
ところで、2月初旬は1週間ほどニューデリーへ赴く。12月から1月にかけてのデリーは寒く、しかも濃霧多発で、フライトの遅れが日常となる。
今日も本当なら、出張でバンガロールに来るデリーの従兄弟が、わが家を訪れ、義姉スジャータ&その夫ラグヴァンもまじえ、夕食をとる予定だったのだが、フライトが2時間遅れるとわかり、夕食はキャンセルになった。
午後、あれこれと食料品を買い出していたのに。と、デリーのフライトの遅れは他都市のご家庭にも間接的に影響するのである。いや、ご家庭問題は末端で、デリー経由のフライトはすべて影響を受けるから、冬のインドの空は「混沌」だ。
ところで昨晩は、バンガロール日本領事館主催の「賀詞交換会」に招かれ、日本料理店「播磨 (HARIMA)」を訪れた。バンガロールに日本領事館が設置されたのは2年前で、この催しは今回初めてだとのこと。
バンガロール日本人会に名を連ねる企業の、代表とその伴侶の方々が主なる招待客であるなか、基本「フリーランス」なわたしにも招待状を送っていただき、実に光栄なことである。よっては夫ともに、参席したのだった。
会場は播磨に新設されたテラス。通りの喧噪とは裏腹に、そよそよと吹き込む高原の風が心地よい。いつオープンしたのかと思いきや、この会合開始の直前に「完成」したらしい。
開場の1時間半ほど前に到着したという領事は、まだ完成していなかった会場を一瞥して肝を冷やしたとのこと。しかし開場ぎりぎりに大まかな準備は整い、知らなければ、数時間前の混沌を誰も想像できぬところが、インドである。
さて、この会合では、普段、交流の機会がないジャパニーズ・ビジネスマンの方々と出会い、日本企業@バンガロールの実情をお聞きするのを楽しみにしていた。
顔なじみの奥様方はグループでテーブルについていらしたが、奥様方とはさくら会やOWCなどを通してお会いすることができる。今日はターゲットを「殿方」に絞ることにした。
開会に際しての挨拶で、司馬遼太郎の「天気晴朗なれど波高し」という言葉を引用された方がいた。
インドにおけるビジネスの多難さは、たとえこの国の景気が上向きであろうと、将来性があろうと、業務遂行にはただならぬ努力が必要であるということを、もう、どなたもが痛感していることであろうが、再認識する思いである。
ワインや日本酒をいただきつつ、食事はそこそこに、十数名もの方々と、言葉を交わすことができた。夫は夫で、色々な方と積極的に話をしていた。
思えばインドに移って直後は、「インド人を見下す人が多すぎる」ことに辟易し、夫を日本人の集まりに積極的に誘わなかった時期があった。
「インド人がいるパーティには出席したくない」
「ご主人が日本語を話せないなら、お伺いしない」
などなど、具体的に書けないが、苦い経験をしたことは少なからずあった。このブログにも怒りを抑えつつ、婉曲に記したものである。
米国に住んでいたころには考えられなかった言葉に、正直なところ驚き呆れた。日本人の会合に出席するたび、二言目には「インド人が……」「インド人が……」と耳にせざるを得ず、やがては過剰反応を示す自分自身にもげんなりした。
しかし、わたし自身がインドでの日々を重ねるにつけ、日本とはあまりにも異質の、インドの暮らしやインドの人々に手を焼く人たちの心境を理解できるようになった。
十把一絡げで「インド人が」と言いたくなる気持ちも、少しだけだが、わかるようになった。少しだけ、だけど。
とまあ、いろいろあったのだが、しかしここ最近は、わたしが気にしなくなったのか、それとも周囲が気を遣ってくれているのか、あるいは日本人社会のインドに対する見方が変わって来たのか、いずれにせよインド人であるところのわが夫が、わが祖国の人々と楽しげに話している様子を見られ、極めて平和な気分である。
言葉を交わした方々の、半数以上がこのブログをご覧になっているとのことで、「ブログ読んでいます」と言ってくださるのもうれしかった。日々、インドのあれこれを綴ってはいるが、どのように受け止められているのかを知る機会は少ない。
だから、「参考にしています」といった好意的な言葉を聞くにつけ、うれしく思うと同時に、「バカなことは書けんな」と改めて思うのである。ちなみにこれでも、相当に「私情を挟みすぎず、内容調整をして記事を書いている」のである。信じてもらえないだろうが。
そんな話はさておき、痛感したのは、この地に赴任されている方々の、一人の人間にかかっている責任の大きさ、である。なにもバンガロールに限ったことではないのだが、ともあれ企業から1名、2名と超小人数で赴任され、あらゆる業務をこなしているその現状をお聞きするにつけ、なんという重責だろうかと思う。
「赴任2年目にして、ようやく最近、空の青さに気づきました」
という方がいて、こんなに空の広いバンガロールで、青空澄み渡るバンガロールで、空を見上げる余裕がなかったのだと思うと、目頭が熱くなる。無論、実際には「え〜? こんなに高層ビルがないのに〜? 空、丸見えじゃないですか」などと突っ込んでいたのだが。
「このあいだ、チフスになったんですよ」
と、語る人もある。それはたちまち、武勇伝となることであろう。インド生活を語るには「ネタが尽きない」の一例である。
「妻は、汚いところと、虫が苦手なので、インドには来ません」
という、単身赴任の人もある。それはまた、切実な問題であろう。インドは、それなりに、きれいなところもあるのだけれど。でも、虫どころか、あれこれ動物も出るからなあ……。
「給料はアメリカドルだから、給料が増えたはずなのに、日本円に換金すると減っているんですよ」
という人もある。米ドル口座を持つわたしも、大いにシンパシーを感じる。共に激しく円高を憂う。
個人的に興味深かったのが、YKKの方のお話である。インドの伝統服はそもそも「ジッパーなし」だったが、最近の洋装的インド服は、ジッパーを使ったものが増えて来た。
しかし、ジッパーの質が悪く、テイラーで交換してもらうことが幾度かあった。その度に「YKKがあったなら」と思っていたのだが、インド服は色の選択肢が幅広すぎるので、色の対応ができないだろうと勝手に思い込んでいた。
ところが。
その方曰く、色は問題ない、とのこと。
なんと、4000色も対応できるのだとか!!
すごい。すごすぎる。どんだけの色数だ。と驚嘆の声をあげつつ、ってことは、人口が多いのに加え、今後洋装が激増するであろう(尤もジッパーには洋服以外の用途もあるのだが)、インド市場は可能性が高いではありませんかとコメントしつつ、夫を呼んで、
「YKKは、何色のジッパーが作れると思う?」と尋ねたところ……
「ん〜、5色?」
5色かよ! そりゃ少なすぎやろ!! と突っ込んでいるわたしも、「30色くらい?」と思っていたから、五十歩百歩ではある。
あれこれ綴ればきりがないのでこの辺にしておく。が、今回、男性だけでなく、バンガロールで働く女性数名の方ともお目にかかれたのはよかった。これまでバンガロールで働く日本人女性の方々との接点は、非常に少なかったので。
いつか「インドで働く日本の女子部」などができるといいのだが。というか、発足しようかしらん。
帰路の車内で、夫と話す。最初は、「僕は仕事があるから早めに切り上げる」と言っておきながら、結局最後の最後までいたということは、かなり楽しかったのだろう。
仕事の話もさることながら、彼にとっては単身赴任のビジネスマンの多さが驚きだったようだ。
「5年間も家族と離れて暮らしている人がいたよ。5年間も! 信じられる? 僕たちは、5日と離れていられないよね」
5日かよ! そりゃ短かすぎやろ!! っていうか、寂しがり屋は自分やろ!!
毎度突っ込みどころ満載の夫である。あ、これはのろけなのであろうか。いや、そんなつもりはないのだが……。
ともあれ、インドにせよ、米国にせよ、彼が身を置いて来た環境の中で、長期間家族と離れて仕事のために単身赴任するという人はほとんどなく、ジャパニーズ・ビジネスマンの仕事に対する熱意に、彼にとっての「異質の世界」を見たようだ。
いずれにせよ、さまざまな面において、非常に楽しい夜だった。翌朝はラジオの収録だということを忘れて、喉を酷使してしまった。
最後に食べた「ミニ大福」が、おいしかった。
今年から月に1回程度、福岡RKB『中西一清のスタミナラジオ』でも、インドをレポートすることになった。第1回目は21日朝放送の予定。今後は前もって告知するので、福岡の方には、ぜひお聞きいただければと思う。
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