日曜日に到着して以来、連日の快晴と暖かさ、いや暑さが続いていたニューヨークだが、今朝の小雨をきっかけに、少し陽気がおさまった。旅をはじめて、早くも一週間がたとうとしている。
相変わらず、旅行中は瞬く間に時間が流れる。
数日前までは、軽い喉の痛みと咳があったのだが、昨日になってくしゃみ鼻水鼻づまりが発生。まるで花粉症のようでもある。わたしは花粉症を患っているわけではないのだが、しかし、この時節、花粉の飛来に刺激されているような気がしないでもない。
特に昨日の朝は目がしょぼしょぼとして、コンタクトレンズの着け心地も悪かった。視界もはっきりせず、視点も合わず、いよいよ老眼が加速している気がして少々滅入っていたが、外出先のバスルームで、はたと思い当たってコンタクトレンズを外してみたら、案の定「裏返し」になっていた。
以前は裏返しだと明らかに違和感(痛み)があったのだが、このごろのコンタクトレンズは違和感が軽いので、気がつかなかった。
日々の軽やかな出来事は、こまめに「キレイなブログ」でレポートしている。ここでは毎度備忘録も兼ねて、気づいたことを残しておきたい。
■Ipad。魅力的だけれど。必要なのか?
新製品に飛びつくタイプではない上、そもそもガジェッツ類に対する関心は低い。しかしiPadに関しては、初めて記事を目にしたときから興味を持っていた。
先日、発売開始から数日後のApple Storeへ赴いた。五番街、プラザホテルに面する店だ。観光客も多いエリアだけあり、まるで観光地のような賑わいである。
大勢の見物人でごった返す中、はじめは圧倒されて遠巻きに見ていたものの、やはり自分で触れてみなくてはと思い、順番を待つ。それなりの重量感はあるものの、使い勝手は想像以上によい。
特にキーボードが、思っていた以上に打ちやすく、また日本語の変換などが賢いのにも驚いた。学習機能があるらしく、一度入力したセンテンスを覚えるらしい。
持っていると楽しい気がする。一方で、自宅でも「机に向かう=コンピュータに触れる」の生活。もしくはインターネットの日々で、これが外出先にも自由に持って行けるとなると、四六時中、画面を眺めがちになりそうな気がする。
そうまでしてまで、必要なのか。
たとえば、iBooksを通して日本語の本を購入できる、ということであれば、必ず購入する。しかし、現在は米国の書籍のみ購入可能だ。
渋滞の多いインド。車中での時間を有効に使えるとの見方もある。しかし、わが人生、「あらゆる窓から、外を眺める」ことが一つの趣味であり、必要なことであり、そこから得られるものは果てしなく多い。
画面の向こうよりも、今は実世界の窓の方を、優先したい。
となると、いつ使うのか? という話になる。外出先のカフェで? 移動の機内で? それくらいしか思いつかない。もちろん、映画を観たり、ゲームをしたりと、諸々のエンターテインメントが楽しめるのはわかっているが、わたしの場合は、iPadを使わずともいい気がする。
欲しいけど、要らない気がする。欲しいけど、常に機械に向かっているのは好まない気がする。そんな次第で、しばらく「様子見」にしようと思う。思えばiPhoneも、欲しいといいながら買わないままだった。
■プチ交渉力で、プチお得愉し。
週末からワシントンD.C.に赴く予定だったが、夫の仕事の都合で、ニューヨーク滞在が長引きそうだ。5年ぶりの訪問を楽しみにしていたのだが、延期、もしくはキャンセルとなりそうだ。
縁(えん)がある場所には縁があるし、ない場所には、ない。
ニューヨークに長く滞在となれば、久しぶりにエンターテインメントを楽しんだり、ミュージアムを巡ったりと、異なる過ごし方もできる。それはそれで、わたしは差し支えない。
ともあれ、ひとまずホテルの延泊手続きが必要だ。インターネットで予約するべきか、あるいはホテルと直接交渉するべきか。外出の際、チェックインの際に知り合ったカルナタカ州出身のジェネラル・マネージャーに夫が声をかけた。
と、彼が延泊の手続きをしてくれるという。しばらく彼と話し込んでいたが、ほどなくして夫が笑顔で戻ってきた。
3泊の追加滞在を、約半額でオファーしてくれたらしい。
「同じインド人のよしみで、安くしてくれたよ。そのかわり、レビューのサイトにいいコメントを書いてって頼まれたけどね」
と、満足そうである。さりげなく、しかし巧みな交渉で、これまでも数々の特典を勝ち取ってきた夫。国内線での理由なきビジネスクラスへのアップグレードについては、数えきれぬほど。
たまに国際線もその恩恵にあずかっている。彼がこのような交渉をするようになったのは、実はMBA(ビジネススクール)在学中のことだった。
「交渉術」に関するクラスで、教師が「どんなに小さいことでも言いから、日常生活で交渉する習慣をつけてみなさい」という課題を出した時期があった。
そのころから、交渉によって、思いがけない特典や恩恵を手にすることが可能だということを知り、その後、折に触れて交渉する男になってしまった。
それはそれで、数百ドルから数千ドルの「お得」が発生するのだから、なんでもやってみるものである。
■食を巡る雑感の断片
米国にきて、食のヴァラエティが豊かで楽しい。特にうれしいのは「新鮮なサラダの多さ」である。もちろんインドにも最近はサラダ菜(レタス類)の種類が増えつつあるが、流通の問題があり、新鮮でぱりっとしたサラダを食する機会は少ない。
もっとも米国でも、鮮度保全に有効なガスなどが入ったパッケージが出回っているのだが、ともあれ、パリパリと香ばしいサラダを味わえるのはうれしい。
一方、スーパーマーケットへ足を運び、久々にWHOLE FOODS MARKETを「散策」すれば、その野菜のあまりにも均一化されたサイズに目がとまる。
インドで、不揃いの野菜を見慣れている目には、久しぶりの行儀のよい野菜たちがむしろ異様に見えた。
それは日本でも感じたこと。日本の場合、きちんとそろっているうえに、包装も丁寧で、なにもかもが蛍光灯の光のもとで輝き、それは「作り物のように」さえみえた。
そのことは、以前西日本新聞の『激変するインド』にも書いたが、ともあれ。きれいな野菜は洗浄されているから、サイズがそろっているのは、品種改良で同じサイズになるよう作られているからだ、と思い込んでいた。
ところが数日前、紀伊國屋書店で購入した日本の雑誌『クーリエ』の特集に、奇しくもその疑問に答える記事が載っていた。
「見た目」で農作物を処分する”ものを捨てる人々”の罪
というタイトル。カナダの『マクリーンズ』という雑誌からの転載だ。この記事は、米国やカナダ、英国、日本など先進国で、サイズが揃わない、形の悪い野菜や果物が「廃棄されている」現実をレポートしていた。
ただ、規格外というだけで、味も栄養も変わらないのに、店頭に並ばない農作物が全体の生産の数十パーセントを占めているという。
あまりにも膨大な量の食べ物が、ただ規格外だというだけで捨てられているという事実。詳細には言及しないが、「規格外野菜」をキーワードに検索すれば、あれこれと情報が出てくるので、興味のある方は調査されたい。
インドでは流通網の不全で、無駄になる野菜が多い。日持ちをさせるために米国では認可されている「遺伝子組み換えの農作物」を受け入れるべく、動きも高まっている。
カルナタカ州でもつい最近、遺伝子組み換えのナス栽培を認可するかどうかで、論争がわき起こった。
数カ月前の新聞には、バンガロール拠点、インド最大のバイオテクノロジー企業バイオコン(Biocon)のCEOであるキラン女史が、遺伝子組み換え農作物に消極的な姿勢を見せるカルナタカ州の方針に対し、大きく反発する記事が見られた。
ともあれ、旅の途中。もう少し軽やかに、物事を見つめよう。
そういえば、「環境によいプロダクツ」が以前よりも一層、目に留まるようになった。「エコ」「リサイクル」が、商業的になりすぎず、広く普及し、当たり前に日常生活に浸透するようなライフスタイルを。
■「書くこと」について。自分に向き合う機会。
昨日は、ランチ、ディナーともに、ニューヨーク在住の友人と過ごした。それぞれに異なる会話を交わしながらも、しかし自分の仕事について、思いを巡らせずにはいられない内容が含まれていたのは共通する。
インドにいると、なかなか人からの意見を聞くことのない自分自身の仕事についても、客観的な意見を得られることは有り難い。
そこには、「耳が痛い」要素もあるのだが、真理でもあるのだ。自分自身がお茶を濁し続けている核心も明らかになる。
インドでの暮らしとは、異なる次元と、異なる価値観と、異なる視点とが、この街には在り、それは「人」にしても然りで、折に触れてそこに身を置くことの大切さを実感しつつ。
さて、半年前、一年前からさほど進展のない自分に大して、叱咤激励するような思いもまた沸き上がり。
結婚、ということについても、考える。夫の人生とわたしの人生は、同じライン上に連なり、ニューヨークを離れて、異なる土地に住み、やがてインドに移り、未知なる経験を積み、ひとりでは決して見ることのなかった世界を見、触れ得なかった世界に触れている。
特段、ポジティヴに生きようと考えているわけではないだが、しかし結婚によって得たものばかりをカウントしてきた。それは、自分の選択を否定したくないから、でもある。
しかし、「結婚したことによって失ったもの」に対して、敢えて思いを馳せてみたとき、「ひとりだったら、どういう生き方をしていただろうか」と考えてみたとき、何らかのヒントが転がっていることに気がつく。
ひとりだったらどうするのか。
坂田美穂だったとしたときの、わたしについて、考えてみる。
★更なるNY滞在記録はこちら→インド発、元気なキレイを目指す日々