と、夫が言う。意味が分からん。タコとワールドカップ。どういう関係があるというのだ。と、新聞の記事を見て笑った。ドイツの水族館で飼われている「予言ダコ」のパウルくん。
ドイツの勝敗を次々に当てているらしい。平和、というか、なんというか……。
ワールドカップとか、オリンピックとか、「国を挙げてのスポーツの祭典」なイヴェントが行われる時には、「祖国」ということについて、考えずにはいられない。
それは、自分が祖国から離れて暮らしているからこそ、思い及ぶことかもしれず、渦中にあれば、日本人は日本人であり、日本を応援して当然のことなのであろう。
日の丸を見て、過剰に目頭を熱くする自分に驚くとともに、損得勘定、かけひきなしに、応援できる祖国があることのありがたさを思う。
国によっては、ナショナリズムの発現が異なり、負けた選手を温かく迎える国もあれば、こてんぱんに叩きのめす国もある。その、ドロドロとした感情はさておいて、祖国、である。
昨日7月7日はわたしたちの、出会い記念日であった。14周年である。などということはさておき、7月6日は、ダライ・ラマ14世の75歳の誕生日であった。
先日、バイラクーペを訪れ、チベットの人々の苦悩を身近に感じ、改めて祖国とは、を考えさせられることが多かった日々。
6日には、バイラクーペで誕生日を祝する祭典が盛大に行われたようだ。
信頼できないと言いながらもローカル情報が充実しているので読んでしまうタブロイド紙、Bangalor Morrorの情報によれば、バイラクーペ在住のチベット人は26,000人、カルナータカ州全体では45,000人とのこと。
とある亡命者の言葉が紹介されていた。
「我々の文化や歴史を子どもたちに引き継いでいます。いつか故国に戻るのだという決意のもとに」
先日、訪日していたダライ・ラマに対し、日本のメディアがインタヴューをしていた。その中に、サッカー・ワールドカップの行方についての質問があった。
それに対し、ダライ・ラマは、
「まったく興味がない。スポーツのルールが分からない」
と答え、「笑いを誘った」とのことである。ウィットに富んだ人だからこその、軽やかな答えだと察せられるが、実際、「祖国の所在が不確か」な人々にとって、ワールカップ、何をか言わんや、であろう。
安心して住める祖国があり、パスポートを持て、自由に海外に飛び立て、いざというときには戻ってこられる。当たり前のようなことが、当たり前ではない、故郷喪失の人々もあるということを、心の隅に留めておくべきだろう。
2003年、ワシントンD.C.在住時、英語の勉強をやりなおすべく、ジョージタウン大学のEFL(英語集中コース)に3カ月通った。そのときのクラスメイトにインタヴューさせてもらい、情報誌『muse D.C』の記事とした。
その記事を転載するので、長いけれど、どうぞ読んでいただければと思う。
今まで、多くの人を取材し、記事にして来たが、取材しながら、取材する相手と、こんなにも二人で泣きながら、ティッシュを分け合いながら、のインタヴューは、あとにもさきにも、まだない。
■私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。
【フェリデ・シャラ・ロスチャイルド コソボ出身】
1976年、旧ユーゴスラビアのコソボの中心都市プリシュティナで、アルバニア人の両親のもと、フェリデは誕生した。父は大手電気会社のディレクターを務めるエンジニア、母は小学校教師だった。
フェリデに続いて妹、3人の弟が次々に誕生、4人目の子供を産んだあと、母は仕事を辞めた。経済的に恵まれた環境のもと、両親の惜しみない愛情を受け、子供たちは屈託なく、すくすくと育った。
「プリシュティナから車で30分ほどの村に別荘がありました。毎週末、家族でここを訪れ、森をサイクリングするのが楽しみでした」
長期休暇には、家族揃って旅行に出かけた。
「冬はスキー、夏はアドリア海沿岸のビーチへ行くのが定番でした。アドリア海の美しさといったら、それはもう、見事なんですよ」
近所の人々との絆も強く、みな顔見知りだった。時折、誰かの家に数家族が集まり、ガーデン・パーティーを開いた。パーティーの楽しみは、子供同士での遊びと賑やかな食卓。特に、炭火で焼かれるピザのような形のヨーグルト入りパン、Flijaは格別だった。
「Flijaはアルバニアの伝統料理で肉とも野菜ともよく合い、とてもおいしいんです」
勉強、スポーツともに一生懸命打ち込む活発な子供だったフェリデは、異国の文化に対する好奇心も強かった。両親から教わるアルバニア人の歴史を通して、自分のアイデンティティに向き合うことも少なくなかった。
一般に、アルバニア人はイスラム教徒、セビリア人はキリスト教徒と言われるが、フェリデたちは無宗教に近かった。それは長い歴史を通し、幾度も繰り返されてきた民族間の争いの結果だという。
そもそも多民族が共存する共和国だったユーゴスラビアにおいて、「言語」と「名前」が民族を象徴する鍵だった。
ミロシェビッチが新ユーゴスラビアの大統領となった1989年、彼女たちの平和な暮らしに、影が差し始めた
。ともすれば分裂しがちだった民族間を、かつては、チトー元大統領が、共産主義達成という目標のもと、連邦制で各共和国や自治州の権限を拡大、民族問題の調和を図っていた。だが、1980年のチトー死去以降、民族問題が頭をもたげ始めた。
やがて、新ユーゴスラビアの大統領となったミロシェビッチは、連邦を維持する方法として、600年前のセルビア王国の話を持ち出し「セルビア人はコソボを取り戻す権利がある」と主張、セルビア主導の国家実現を目指した。
セルビア南部に位置するコソボは、住民200万人中、9割以上がアルバニア人だということもあり、分離独立運動が活発だった。ミロシェビッチは大統領就任直後、コソボの自治権を剥奪、少数派のセルビア人を、コソボ独立の軍事的な反対勢力として育て上げた。
1990年、ソ連崩壊と同時に、コソボの状況は劇的に悪化し始めた。アルバニア人たちが虐げられる日々の幕開けである。彼らはこの年を境に、仕事、教育、人権を奪われた。フェリデたちも例外ではない。子供は学校を追放され、父は職を失った。
大人は、子供らにアルバニア人としての教育を受けさせようと、広い家の家庭が部屋を提供してプライベートスクールを開校、教師や教授らは、ボランティアで指導にあたった。フェリデたちは、プライベートスクールで高校、大学を卒業した。
「アルバニア語の教科書を持ち歩くことさえ命がけでした。町の至る所に警察のチェックポイントがあり、所持品を検査されるので、服の中に隠して持ち運びました。彼らに拷問、射殺されたアルバニア人は数えきれません」
父は食料品店を開業することで生活を維持した。銀行の預金は政府に横領された。生活のすべてが、くっきりと暗転した。
それまで真っ直ぐに育ってきたフェリデは、自分の身の回りに起こっていることの意味がわからなかった。
同じアパートメントにはセルビア人も住んでいる。今までは挨拶をし合う隣人だったのが、ある日を境に、目を背け合う他人になった。子供たちさえも、彼女に笑顔を見せない。
人生とはすばらしいものだと信じて育ってきた彼女に、取り巻く現実は余りにも大きな矛盾と衝撃だった。
「どうして私たちは、こんな目に遭わなければならないか。両親に、何度尋ねたかわかりません。そのたびに、両親は言いました。『敬われるためには、敬いなさい。愛されるためには、愛しなさい』と」
セルビアの不条理な暴力に対し、しかしアルバニア人たちは武力闘争をしなかった。人々はコソボが平和的に独立することを望んだが、状況が好転する兆しは見えなかった。
暗澹たる歳月の最中、18歳の時、フェリデは最初の夫と結婚、翌年子供を産む。しかし1998年、22歳の時に離婚し、娘のエリタと二人で実家に戻った。
アルバニア人の暮らしは年を追うごとにひどくなっていったが、彼女の両親はエリタに、あふれるほどの愛情を注ぎ、社会の翳りを見せることはなかった。
当時、家を奪われホームレスと化したアルバニア人も多く、彼女の両親は村にある別荘を約30人のアルバニア人に提供していた。
ある時、父と二人で別荘へ食料を届けに行った帰り道、警察の検問に遭い、車を奪われた。別荘を見るのはその日が最後となった。
やがてアルバニア系のコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間で武力衝突が発生、紛争が激化し、ユーゴ連邦軍も介入。国際社会はユーゴ政府に和平案を提示したが受け入れられず、結果、翌年の1999年3月、北大西洋条約機構(NATO)が空爆を開始した。
「空爆は毎晩のように行われました。その爆音たるや、すさまじいもので、とても眠れません。当時3歳だったエリタに恐ろしい思いをさせてはならないと、母はヘッドホンをさせ、クラシック音楽を流してくれました」
空爆開始後のある朝。アパートメントの回廊に、家族が集っていたときのことだ。突然、武装した覆面の男が5人現れ、「5分で家を出ろ」と命じた。
大慌てで部屋に戻り、貴重品や衣類、食料をカバンに詰め込んだ。準備を整え回廊に戻った時、フェリデの手をふりほどき、エリタが一人で部屋に駆け戻った。
「その瞬間、娘が殺されてしまう! と、全身が凍て付きました。しかし彼女は、お気に入りの人形を手にして、すぐに戻ってきました。子供心に、どこか遠くへ連れて行かれることを察したのだと思います」
外へ出て愕然とした。通りにはセルビア兵らによって人垣ができており、延々と駅まで続いていたのだ。彼らの間を、アルバニア人たちが、黙々と歩いていた。
「これじゃまるで、ナチスの収容所に送られるユダヤ人と同じじゃない! 私は心の中で叫びました。まさに戦争映画のような状況に、自分たちが置かれていたのです」
当時、オーストリアへ留学していた弟一人を除く家族全員が、同じ列車にぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれた。列車は1時間半ほど先のFerizajという駅で止まった。
「列車を下ろされた私たちは、身分証明書などの書類一切を没収され、焼かれました。その後、若い男性ばかりが72人、向こう側のホームに連れて行かれ、壁に向かって一列に並ばされました。その中に、当時16歳と18歳だった弟たちの姿がありました」
彼らを残して、列車はどこかへ出発しようとしている。フェリデは、いても立ってもいられなくなった。ずっと一緒に過ごしてきた弟たちと、絶対に、こんなところで別れられない。妹に娘を託した彼女は、列車を飛び降りた。兵士の銃口が彼女の首に向けられた。
「私は、兵士たちにわかるよう、セルビア語で叫びました。どうしても、弟たちと離れるわけにはいかない、どうすれば弟たちを解放してくれるのか、と。すると彼らは言ったのです。金を払えば解放してやる、と」
フェリデは大急ぎで家族からお金をかき集め、兵士に渡し、弟たちを連れ戻した。当然、他の家族たちも同様に取り戻そうと大混乱になったが、ついに列車は動き出した。その後、その70人が、家族と再会することはなかった。
「私たちは、家もお金も、思い出の写真も、何もかもを失いました。でも、命だけは残りました。もう、それだけで、十分でした」
列車はやがて、コソボとマケドニア間の緩衝地帯に停まり、アルバニア人たちは解放された。彼女たちと同様、国外追放、あるいは殺害されたアルバニア人は数えきれない。
「その夜、冷たい春の雨が降り注いでいました。父と弟たちが木の枝を集めやぐらを造り、その上に、いつも用意のいい母が持参していたビニールシートを被せて、雨を凌ぎました。母は数年前にがんの手術をしていて、体調が悪かったので、とても心配でした」
野宿が5日目となった日、マケドニアの戦士たちが120台のバスを伴いやって来た。彼女たちは再びバスに詰め込まれ、ギリシャに近いアルバニア南部の町に連れて行かれた。その日から、アルバニアでの、難民としての生活が始まった。
アルバニアの人々は、コソボからのアルバニア人たちを、まるで遠い親戚を迎えるように温かく接してくれた。難民生活の間、彼らから「難民」と呼ばれたことは一度たりともなかった。
アルバニアで、フェリデは米国の非営利団体Save the Childrenに属し、難民の世話や通訳を行った。緩衝地帯を歩かされたとき、線路脇に散らばっていた地雷に関心を持った彼女は、地雷を啓蒙する冊子も制作した。
そして3カ月後。一刻も早くコソボに戻りたいと思っていた彼女は、セルビア軍の撤退を知るや、Save the Childrenの職員らと共に、単身コソボへ向かう。国境を超え、コソボの領土に入った瞬間、涙があふれて出て止まらなかった。
アパートメントは案の定、がらんどう、玄関のドアさえなかった。近所のアルバニア人たちが、すぐに材料を集め、ドアを取り付けてくれた。
1週間後、家族も帰って来た。留学していた弟は学校をやめ、使わずにいた学費を携え戻って来た。フェリデはコソボでも数カ月、Save the Childrenの仕事をしたあと、国連に職を得、地雷関係の仕事に関わった。
* * *
2000年4月。いつものようにオフィスで仕事をしているフェリデのもとへ、地雷について知りたいと、ザックという米国人男性が訪れた。国際機関に働く彼は、流暢なアルバニア語を話し、彼女を驚かせた。打ち合わせのあと、ザックはフェリデをランチに誘った。
「外国人と食事をするのは、その時が初めてでした。緊張したけれど、話が合って、この人とはいい友達になれると直感しました」
やがて二人は付き合い始め、翌年の夏、ザックはフェリデにプロポーズする。フェリデの家族も、米国に住むザックの家族も、二人の幸福を祝福してくれた。
2002年8月、ザックの故郷であるミネアポリスで結婚式を挙げたあと、エリタと3人で欧州へ新婚旅行に出かけた。その後、3人はザックの学業のため、ワシントンDCに移る。将来、国際機関で働こうと考えているフェリデは、現在、より高い英語力を付けるための勉強をしている。
「世界を少しでもよくするために、何かをやりたい、というのが私たち夫婦に共通する希望です。私は今、27歳だけれど、もう、100年も生きている気がします。短い間に、いろいろなことがありました。
説明のつかない運命的な出来事が重なって、今、私がここにいます。そこには、人為の及ばない、神の力が働いているとしか、説明しようがありません」
今、彼女のお腹の中には新しい命が宿っている。来年の春、彼らは4人家族になる。
(『muse DC』Vol.5/ 2003年秋号 取材・執筆 Miho Sakata Malhan)
インド発、元気なキレイを目指す日々(第二の坂田ブログ)(←Click)