先日、スーパーマーケットで40ルピーのおつりを受け取る際、紙幣ではなく、ジャラジャラと硬貨が差し出された。10ルピー硬貨。初めて見た。一瞬、「1ユーロ?」と思ったが、紛れもなくそれはインドの10ルピー。20円相当である。
この硬貨を製造するにあたり、10ルピー以上のお金がかかりそうだと思うのは、気のせいか。
調べてみれば、2009年より流通しているらしいが、目にすることはなかった。
この国で、10ルピー札の存在感は大きい。
物価高に伴い、硬貨が普及するとの見方もあるのかもしれないが、なんとなく、米国の1ドル硬貨と同じ道をたどるような気がする。
米国では過去幾度か、1ドル硬貨が流通したらしいが、なぜか浸透せぬまま1ドル紙幣が健在だ。もっともそれは5年以上前の話だが。
一方でクオーター、25セント硬貨の重要性が高い。
コインランドリーや駐車場のメーターなど、クオーターは出番が多い。
翻って日本。思えば1ドル札に相当するの100円札が日本から消えて久しい。
小学生のころは、あの板垣退助な百円札がありがたかったが、今や100円札どころか、500円札の岩倉具視さえ過去の人。
重かったはずの500円玉が、帰国するたびに、軽く感じる。
硬貨、紙幣、さらには電子マネー。
お金の「実感」「触感」と、経済観念、消費行動……。購買意欲を巡る国民性や消費傾向やその他もろもろ、お金の「カタチ」によって、あれこれと定義が変わるのだろうな、と、漠然と思う。
さて、この幻想的なムード漂う一枚は、先日、在バンガロール日本領事館主催で開催された「賀詞交換会」の模様である。昨年同様、日本料理店「播磨」で行われた。
夫婦で招かれたので、夫も打ち合わせを終えた後、遅れて参加。ドリンクや食事をいただきつつの、社交なひとときである。
言葉を交わし、楽しいひとときであった。
と、丸く収めれば収めるほど、つまらない感じのレポートである。
人集まるところに話題あり。
あれこれと、書きたい「ネタ」はたくさんあれど、書きたいことこそ、書いちゃまずいことが多くて残念。
こう書くと、書いちゃまずいことがたくさんあるのか、と思われてしまいそうだが、いやいや、そんなことはない。
日本に帰国した際、購入しておいた書籍及び雑誌。その中でも気に入っている雑誌のひとつがこの『クーリエ・ジジャポン』。雑誌のコンセプトはウィキペディアの記事がわかりやすく紹介しているので、リンクをはっておく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/クーリエ・ジャポン
昨年の帰国時に、まとめて何冊かのバックナンバーを購入しておいた。
興味深い記事はさまざまにあり、これまでも幾度となくここで紹介したいと思いつつ、そのままになっていた。
今日、目に留まったのは上の写真の記事。
2010年11月号102ページ。
韓国の『月刊朝鮮』からの抜粋記事だ。
「“成功の復讐”を乗り越えれば、日本企業は2025年に復活する!?」というタイトル。
・日本企業は高い技術力を持っているにも関わらず、苦戦を強いられている。
・技術を過信するあまり、世界市場ニーズに対応した製品開発が、おろそかになってしまった。
・80年代の成功パターンから脱しきれていない「成功の復讐」が原因のひとつであろう。
といった導入から始まるこの記事。
米国、インドの両国に暮らし、日本を離れて初めて「日本の特殊性」を実感した身にとっては、大きく頷ける箇所の多い記事であった。
日本の商品開発。技術の追求は、すさまじいと思う。ただ、でき上がった商品が、まるで「過去の近未来小説に出て来る商品」のように、往々にして「行き過ぎている」「果たして必要なのか」といったものが見られる。
日本国内では受け入れられたとしても、それが他国の生活慣習や価値観と合致するかといえば、疑わしいものが、数多ある。
日本では受けいれられているにも関わらず、日本人以外の多くの国の人々が使いこなせない、あるいは高いお金を払ってまで欲しいとは思わないであろう商品として、思い当たるだけでも、
・あらゆる「軽薄短小」なコンパクトすぎる商品。小さけりゃ、いいというものではなかろう。
・ちょっと開けたままにしているとピーピー鳴る冷蔵庫。
・説明書を熟読せねば操作方法がわからない、リモコン付きのあれこれ。
・コンピュータパネルがゴチャゴチャとややこしい洗濯機や電子レンジ類。
・操作がややこしすぎるウォシュレット的商品。ウォシュレットそのものは価値が高いと思うが、操作がわかりにくいものが多すぎる……。
わたしがここで偉そうに語るまでもないが、高度な技術の使い道を、日本国内で反映させるならまだしも、海外でもそれを応用して、「勿体ない失敗」をしているのではないかと言う気がして、ならないのだ。
特にインドに移住して、韓国ブランドの威力を目の当たりにするにつけ、それを思う。
我が家の家電は、サムスンとLGが主流だ。それらが市場に流通し、購入しやすかったということもあるが、それらの「高級感がない、半端なクオリティ」がしかし、この地において、使い勝手がいいのである。
時に日本の実家に帰り、実家の家電を見るにつけ「なんと、高級な感じ」と思う。
しかしそれをそのままインドに持って来たとして、いや、インドに限らず先進国である欧米をはじめ、その他の国々に運んだとして、どうだろう。
多分、ライフスタイルにも国民性にも、即さない場合が多いだろうことは、見て取れる。
韓国製品は、インド市場を、というよりもインドの人々の生活スタイルをかなりリサーチして、「極めてシンプルに、素直に商品化」していると感じるのだ。
ひねりのない直球。
たとえば洗濯機。洗濯の途中で停電しても、復旧したら停電前の状態から動き始める。振り出しに戻らないところがシンプルに、いい。
電子レンジには、インド家庭料理のレシピ本と、インド料理向けの調理器具がおまけでついている。
数年前には、冷蔵庫にはスタビライザー(電力安定供給装置)機能を備えた物がでた。ムンバイ宅ではそれを購入した。
使用人が多いことを見込んでか、鍵付きの冷蔵庫もある。
故障の際には、コンピュータ制御のパネル部分だけを簡単に取り外して交換できるようになっている。
一方、冷蔵庫の裏の見えない部分に関しては、一部モーター部分が露出していたりと、安っぽい。安っぽいがしかし、「食品を冷やす」という目的を果たしてくれているから、それだけで十分である。
ムンバイのアパートメントに住んでいた時には、各部屋に冷房がついていた。LGが3つ、日立が1つ。
わたしたち夫婦は「繊細」なので、風力の弱い日立の製品を好む……といいたいところだが、なぜかリモコン操作がシンプルなLGの方を使う機会が多かった。
ちなみにインド人は、天井のファンにしろ、エアコンに風にしろ、肌にがんがん感じるのがお好みの人が多い。
もちろん、日本製品とて、そのようなニーズを踏まえた上での商品開発はなされているのに違いないのだが、しかし、家電店で「消費者」としてそこに立った場合、商品と需要の間に微妙なずれを感じる。
話が逸れるが、韓国。自国の経済だけでは立ち行かない韓国の、海外におけるパワーの強さは、米国在住時より痛感していた。
いつだったか、ヴァージニア州にあるスーパーHマートという韓国系スーパーマーケットを取材したことがあった。若きマネージャーをインタヴューした時に痛感したのは、韓国人コミュニティの「助け合いの精神」である。
たとえば彼はまだ20歳になるかならないかのとき、韓国から来たらしい。
ニュージャージーのハナルンという、やはり韓国系のスーパーマーケットでレジの袋詰めから始めて、7年後、大型スーパーマーケットのマネージメントを一任されるに至った。
彼の話で興味深かったのは「教会の存在」だった。新米の頃、週末、韓国人が集う教会に行くと、皆が歓迎してくれる。
そこでは、互いを支え合い、共に向上するという仕組みができあがっているのだという。
新人には、先住者がアドヴァイスをする。新しいビジネスをしたい人には、成功者たちが投資をする。投資をするからには、新人を成功へ導くための牽引も怠らない。
そして、利益が上がった暁には、また次なる新人に、投資をする……。
その話を聞いた時に、日本のコミュニティとの大いなる違いに驚いたものだ。
インドの韓国人コミュニティでも同じような傾向は見られる。
ムンバイの教会で、韓国人駐在員家族が集っている様子を目にしたことがあるし、彼らが英語ならずもヒンディー語を学んでローカルの人々に接している事実もある。
一番感嘆したのは、OWCで知り合った韓国人女性の話だ。
彼女はソウル出身だが結婚後、シンガポールで生活していた。そして数カ月まえにバンガロールへ来たというのだが、「本当に、毎日が恵まれている。幸せだ」というのだ。
「バンガロールがそんなにいいの?」
と驚いて尋ねたら、意外な答えが返って来た。
誰も知る人のいないバンガロールに来ることを不安に思っていたら、近所に住む韓国人の人たちが、新人である自分たちのことを知り、訪ねて来てくれたのだという。
「同じ会社の人」ではなく、あくまでも「同じ韓国人として」である。
「台所も整ってなくて、料理もままならなかったころ、毎日のように近所の人が、交替で食事を届けてくれたんです。本当にうれしくて……」
生活の基盤を整えるためのアドヴァイスを、速やかに受けられたことで、トラブルも最小限に新しい暮らしを始めることができたようだ。
「年配の人たちからは、韓国料理の作り方も教わって。わたし、バンガロールに住んで初めて、キムチの漬け方を知ったんですよ!」
日本人であれば、「おせっかいかも」「余計なお世話かも」といった気持ちも手伝ってか、このようなことはまず、ないだろう。
その善し悪しはさておき、慣れぬ異国で親切にしてもらえることは、どれほど心強いことか。
どのようなコミュニティの在り方、人間関係が、異国でのライフを安定させ、更には駐在員の仕事に対する集中度を高め、ひいては生産性の高い仕事ができるか、といえば、言うまでもないだろう。
ここで韓国がよいだのなんだのと言いたいのではない。
ただ、なにかしら、日本が「もったいない」「惜しい」と思うのだ。今でいうところの「残念」な気がしてならないのだ。
日本国内の価値観を、世界基準にスウィッチし損ねた、微妙なずれのもったいなさ。
一を知って十を知ることなど不可能な、ここインドにおいては、ことさらに、技術力もさることながら、調査力、洞察力、分析力、応用力……。
そしてダイナミックな方向転換。あるいは発想の転換。柔軟性のようなものが望まれる気がする。
「自分たちは進んだ場所にいる」
「自分たちの技術は上である」
かように、毅然と誇りを持つことは大切だろう。しかし、その矜持が同時に、足を引っ張ってやしないだろうか。
他国を、インドを、「自分たちよりも下」と見なす姿勢が命取りだと、わたしは常々常々常々、思うのだ。それは、夫がインド人だから、家族がインド人だから、インド人の肩を持って言っているわけではないのだ。
ことあるごとに、書くたびに、そう思われがちだけれど。
「下」だと思ってしまう、いや思いたい気持ちも、わからないでもない。
しかし、「下」ではない。「異」であり「別」世界なのだ。
その発想の転換ひとつで、異なる扉が開くような気がするのだが……。
……と、なんだかまとまりなく書いてしまった。ざっと読み返すに非常にまとまりないが、まとめようと思うと時間がかかってアップロードしないままで終わりそうなので、不本意ながらもこのままアップする。
さて、明日は早起きでムンバイだ。そろそろ荷造りをせねば。
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