ムンバイに、日本のお寺があることは、以前から知っていた。日本山妙法寺。それから日本人墓地があるということもまた。
このブログでも、幾度か記したことがある。しかし、お寺の前を、車で何度も通過したことがあるにも関わらず、足を踏み入れたことはなかった。
二都市生活をしていたころも、「訪れたい」と思いつつ、気がつけば何年も過ぎていた。
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先週、夫が「来週、ムンバイ出張だけど、ミホも来る?」と聞かれて、すぐに行くと返事した。すでに「芝生作業」のアポイントメントが入っていたにも関わらず、ムンバイに行きたいと思ったのだ。
そして次の瞬間、今回こそは、「日本山妙法寺を訪れよう」と思った。
理由のひとつは、今の日本、特に東日本のことを、きちんと祈りたかったから。
自分の家の「なんちゃってプージャー(儀礼)コーナー」や、ニューヨークのセントパトリックス・カテドラルなど、随所で祈ってはいるものの、きちんと、日本とゆかりのある場所で、日本のことを、祈りたかった。
泊まっているのは北ムンバイのバンドラ。ここからシーリンク(橋)を渡った先にあるウォルリに、日本山妙法寺がある。
ウォルリに入ってすぐの花屋で、車を止めてもらう。捧げる花を買うために。インド的、シンメトリーで平面的な花のアレンジメントを一つ選ぶ。
すでに、熱さでぐったりしている花を、新しいものにさしかえてもらう。
さらには、追加でオーキッドの花も加えてもらう。
非常に「インド的」なアレンジメント。
こまめに水を補給せねば、あっというまにぐったりとしてしまうのが玉にきず。
とはいえ、お兄さんが新鮮な花に差し替えてくれたおかげで、ユニークながらもそれなりにいい感じに仕上がった。
器の水を切り、形を整えて、静かに車へ運び込む。
どんなアレンジメントであれ、花とは、いいものだ。
日本山妙法寺は、花屋の目と鼻の先にあった。門をくぐり、靴を脱いで、お堂に入る。
ここには日本の森田上人という方が、古くからお寺と日本人墓地を守っていらっしゃる。
今から約100年前に日本人墓地が、そして約50年前にこのお寺が建立された、ということ以外、失礼ながら詳細はウェブサイトで、ざっと流し読んだ程度であった。
仏教に明るくないにもかかわらず、特に下調べもせず……。
お堂には誰もいらっしゃらず、とりあえずは奥へ進む。震災で落命された方々を弔う言葉が記されているその祭壇に、花を捧げさせていただく。
いい感じで、おさまった。
手を合わせて祈る。誰もいないお堂は、外の暑さとは裏腹に、ひんやりとしていて、空気がしんと静まり返っている。心の波が鎮まり、平な気持ちになる。
祈りながら、般若心経を唱える。と、また気持ちが高ぶる。高ぶって、胸がいっぱいになる。が、般若心経がうろ覚えなことに「まずい」と自覚し、ハンドバッグのポケットを探る。
あった。
今回、なんとなく持って来ていたのだ。
肺がんに苛まれていた晩年の父は、この「お守り 般若心経」を何冊もまとめて購入していたらしい。
数年前、実家に帰省し、父の引き出しなどを開いていたときに見つけ、「お守り 般若心経」と数珠を、もらってきていたのだった。
そう、ちょうど2008年11月、ムンバイでテロが勃発したとき、わたしとアルヴィンドは京都を旅していたのだが、その帰り、福岡へ戻ったときに、引き取って来たのだ。
テロなどがおこると、いつもにまして、なにか祈るための、守られるためのものを、欲しくなる。般若心経を覚えたのも、あのときだ。
しばらく祈りを捧げ、そして気持ちを落ち着けたあと、しびれる足をかばいながら、じわじわと立つ。
お堂を出ようと、ふと傍らをみたところ、懐かしいものが目に飛び込んで来た。
団扇太鼓だ。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
わたしの父方の祖母は、日蓮宗に帰依していた。
かなり熱心な信者であった。
法事のたびに、この団扇太鼓をバチで叩きながら、大きな声で、
なむみょ〜ほうれんげ〜きょう なむみょ〜ほうれんげ〜きょう
と唱える祖母の声が、今でも耳に焼き付いている。祖父の葬儀のときには、参列者一同が、唱えた。
わたしもこの太鼓を持たされ、唱えさせられた。
高校時代のわたしには、心の底から祖父の魂を弔うというよりも、親戚一同がどんどこ太鼓を叩きつつ唱和する様子が、少々異様に思えて居心地が悪かった。
団扇太鼓を見つめながら、ああ、ここは日蓮宗のお寺なんだ……。
と、はっきりしない頭で、今更ながら、理解したのだった。
今、目の前にある太鼓を手に取って叩きたい衝動に駆られたが、とりあえず我慢。入り口にいたお寺の人が、森田上人が奥にいらっしゃるからと、案内してくれた。
奥の事務所のようなところで、森田さんは、笑顔で出迎えてくださった。
簡単な自己紹介を皮切りに、このお寺のこと、そしてからゆきさんのお話などをする。先刻、団扇太鼓を見て、祖母の帰依する日蓮宗のことを思い出し、それに連なる父のことを思い出した。
「わたしの父は、日蓮宗を信仰していた母親(わたしの祖母)の影響もあって、お寺の方々にも関わりがあったんです。今から30年近く前になりますが、仏舎利塔を立てさせていただいたんですよ」
そう。建設会社を経営していた父は、当時祖母がお世話になっていたお寺の方々が、仏舎利塔を建設したいということで相談され、最終的に、父が引き受けた経緯があったのだ。
あれはわたしが高校生か大学生のときだった。
父から仏舎利塔の図面を見せてもらった記憶がある。父曰く、お寺の方々は、特段、建築の知識もないままに、仏舎利塔を建てようとされている。
最初は、まさか素人にそんなものができるまい、と思っていたが、熱意に打たれたとのことだった。正直にいえば、率先して建築を買って出たわけではない様子だった。
しかし、信者の方々の働きぶりには、感嘆している様子で、「宗教の力は計り知れない」といった言葉を、父の口から聞いた記憶がある。
そんなことを思い出していたところ、森田上人が一言、
「その仏舎利塔は、久山じゃありませんか?」
という。
そう。糟屋郡。篠栗などに近い、久山にある仏舎利塔だ。
森田さん曰く、その仏舎利塔建立に関わった僧侶の方々とも深い交流がおありのようだった。同じ日蓮宗である。
関わりがあってまったく不思議なことではないのだが、このご縁がもう、とてつもなく、深く有り難いことに思えて、しゃべりつつも、言葉がない。
「仏舎利塔を建ててくださったとは……。ありがとうございます」
と、お礼を言われて、いやもう、それはわたしではなく、父がやったことであり、なんら関係がないとはいえ、胸がいっぱいになる。
記憶は遡り、そういえば、わたしたちが結婚していたとき、母がしみじみと口にしていたことを思い出す。
「うちには、インドのお坊さんたちが、泊まられたものね。インドにご縁があったのかもね」と言ったことを。
あれは、わたしがすでに実家を離れていたから、大学生のころか、あるいは就職したばかりのころだった。
インドから仏教の僧侶たち数十名が、平和行進のため日本へいらしたとき、福岡を訪れたご一行を、わが両親が、宿泊先を手配すべく、奔走したことがあった。
当時は広かった実家(その後、父の会社は倒産し、実家は売却された。いろいろあった)にも、何名かの僧侶が宿泊したという話を、わたしも聞いていた。
実家だけでは足りず、公民館を借りたりするなどの手配をし、さらにはたくさんのおむすびや天ぷらなどを作って、みなさんへ振る舞い喜ばれた……といった話をしていた。
その旨を森田さんにお話ししたところ、なんと森田さんご自身が、その行脚を率いていらっしゃったという。
我が家にはお泊まりになった様子ではないようだが、ひょっとすると、母が握ったおにぎりを、口にされていたかもしれない。
わたしが知らないところで、こんな絆があったとは。頭の中が真っ白になるような思いだ。
父や祖母のことが、鮮明に思い返された。
父。わたしと父は、折り合いが悪かった。ぶつかりあった日々の方が多く、楽しい思い出は正直に言えば、少ない。
「なんの遺言も、形見も残さんで、死んだよね〜。おやじ」
などと、死後の父に対して、冗談半分、軽口を叩くことのほうが、むしろ多かった。父を敬わぬ娘を、父は空から苦々しく見下ろしていたのかもしれぬ。
なかに、藤井日達上人に関する記事もいくつかあった。
日本山妙法寺は、20世紀初頭、藤井日達上人(1885~1985)によって創設された日蓮宗系の教団だという。
藤井日達上人は、それまでの日本仏教界の在り方に納得せず、「真の仏教者としての生き方を追求」するため日本山妙法寺を創設したという。
写真の中の、そのお顔を拝見して、懐かしさがこみ上げて来た。
祖父母の家の壁に掲げられていた方だ。
藤井日達上人について、Wikipediaから一部抜粋させていただく。
1924年(大正13年)に最初の日本山妙法寺を日本に建立する。1930年(昭和5年)にインドに渡り、1933年(昭和8年)マハトマ・ガンディーと出会い非暴力主義に共鳴。第二次大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。1954年(昭和29年)、ネルー首相より贈られた仏舎利を納めた仏塔を熊本駅裏の花岡山山頂に建設。「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力。
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「福岡には、日蓮の大きな像がありますよね」
と、森田さん。
またしても、懐かしい記憶が蘇る。
東公園の近く。
子供のころ、祖父母に連れられて、よく訪れた場所だ。
「日蓮さんに行こう」と言われて。
子供のころのわたしは、日蓮像を見るのを楽しみにしていたわけではもちろんなく、鳩にエサをやるのが楽しかった。
日蓮さん……。
信心深さのなにもなく、苦しいときには、八百万神(やおろずのかみ)に手を合わせ、宗教に対する知識も浅く、ここまできた自分。
そんな自分の中に、ひっそりと根付いていた宗教との関わり……。
数々の興味深い資料の山。
「また来てください。好きに持って帰って、コピーを取ってください」
と森田さんは仰る。本当にありがたい。
そのあとも、森田さんからは、実にさまざまなお話をお聞きし、強い好奇心のきっかけをいただいた。
このお寺の建立の支援をしたのはビルラ財閥で、今でも支援を続けているとのこと。
階級差を超えて、インドの人々の、宗教者に対する姿勢。態度。
インドの人々の精神性。宗教性。
1970年代からムンバイに住まわれ、年に一度、故郷の北海道に帰られるとのこと。
5月中旬から1カ月のご帰国を前にして、こうしてお目にかかれたことを、本当に幸いに思う。
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この日本山妙法寺。今後もまたしばしば訪れることになるだろう。
突然の来訪にも時間を割いてくださった森田上人。今日のところは次のご予定もおありのご様子だったので、おいとました。
次回は、お寺から少し離れた場所にある日本人墓地へ連れて行っていただきたく、お願いした。この次は、からゆきさんたちのお墓を詣らせていただこう。
今度は森田さんから、森田さんご自身のお話を、もっとたくさんお伺いできればとも思った。
車に乗り、携帯電話から日本の母へ電話をした。一部始終を説明したら、とても驚いていた。
「お父さんは、いろいろあったけど、いいことも、ちゃんとしてたのよ〜」
本当にそうだと思った。
これまでは、父が仏舎利塔を立てたということを、ただ一つの事実として、心をこめずに、とらえていた。
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ホテルへ戻り、インターネットの検索サイトを開いた。
「久山」「仏舎利塔」
をキーワードに、入力したところ……、
日本山妙法寺福岡久山仏舎利塔
と出てきた。
日本山妙法寺。同じ宗派なのだから、同じ名前で当然なのだが、その同じ名前を目にした途端、泣けた。
インドに、日本の家族に通じる場所があったということ。自分にもきちんと祈れる場所が、インドにあったとは。
ちなみに日本山妙法寺は、ムンバイのほか、デリーやコルカタ、ブバネーシュワル、ラージギル、ダージリン、マドゥライなどにも建立されているという。
今日はもう、ともかく、胸がいっぱいだ。まだまだ、いろいろと、書き記したいことは山とあるのだが、これで精一杯。
5月27日。父の命日を間近に控えて、今日は本当に、有り難き、一日だった。
ありがとうございました。南無妙法蓮華経!
■日本山妙法寺と藤井日達聖人 (←CLICK!)
★父が手がけた仏舎利塔の写真は、ここから(←CLICK!)見られる。鏡餅のような形状。父方祖父の遺骨は、一時期この仏舎利塔に納められていたことから、わたしも一度だけ、足を運んだことがあった。