昨日は、在バンガロール日本人女性からなる「さくら会」のランチに出席した。現在、会員は約120名で、うち半数が、出席していた。
インド生活も6年となれば、古株も古株。このごろは、若い駐在員夫婦(家族)の方も増え、賑やかな感じだ。赴任前からこのブログを「夫婦で」ご覧になり、メールをくださるカップルも増えている。
「夫婦で」というところに、なにやら、時代の新しさ、を感じる。近々、そのような若いご夫婦の方々をお招きしての「集いの場」を設けたいと思っているところだ。
ところで、このところインドの就労ヴィザに関する問題が取沙汰されているようだ。
わたしの場合は、インド人の伴侶ゆえ、PIOカードという永住権のようなものを持っているが、こちらで働く異国人は、当然ながら、就労ヴィザを取得する必要がある。
その取得や延長手続きを巡って、変更事項が頻発。情報の錯綜やトラブルが起こっているとの話も耳にする。
確かにインド移民局の対応には、問題があるだろう。
しかし、移民法の規定だの申請手続きの方法だのが、しばしば変わる、というのは、別にインドに限ったことではない。
わたしは米国のケースしか身を以て経験していないが、そのときどきの情勢や国家間の関係によって、たやすく変更されるものである。
日本とて、決して外国人が働きやすい環境が整っているとは言い難い。
ともあれ、異国で働く以上は、常に、「信頼できる筋の情報を得る」ことを心がけ、自分自身の居住ステイタスの確認を怠らないことが大切だと思う。
大企業で働く人たちは、会社からのバックアップなどもあるだろうが、そうでない方々の個人的な負担が大きいことは、察せられる。
しかしそれは、海外で働く上で、看過できない責務である。
海外で働くということは、あらゆる意味で、母国で働くこととは異なる意味合いを持つ。
外国人が就労許可を得る上では、多分、ほとんどの国において、誰もがなんらかの壁にぶちあたる。
そもそも海外で働くためのステイタスを得るということは、簡単であってはいけないのだ。
さもなくば、豊かな国には、貧しい国からの移民がどんどん流れ込む。
安い賃金で働く移民たちに、自国民は雇用機会を奪われる。
この類いの移民問題は、EUでは久しく問題になっている。敢えてここで説明するまでもないだろう。
移民の国、米国ですら、移民局の審査は厳しい。簡単に移民できるとしたら、アメリカンドリームを叶えようという野心家が、大挙してニューヨークを訪れたに違いない。
最早それは、過去の話だとしても。
たとえばインド人の場合。
たとえ観光であっても、大半の異国は、インド人の入国に対し、観光ヴィザの取得を条件づけている。
なぜか。
理由のひとつは、観光目的で入国したインド人が、住み着いて不法就労をするのを防ぐためだ。
たとえ「1週間の観光旅行」でも、往復の航空券、滞在先ホテルなどの予約確認証、招待状など複数の資料が請求される。
わが夫も、ご存知の通りインド人。
EUに入国する際、取得するシェンゲンヴィザ(Schengen Visa)申請に必要な書類には、「銀行の残高証明」までもが、含まれるのだ。
一方、日本人は、パスポートさえあれば、気楽に訪れられる国々が数多くある。
夫の不便を見ていると、日本の外交を、日本のパスポートを持っていることを、まずは感謝すべきとも、思う。
事実、先月の日本旅行の際、夫も福岡で合流したいと言っていたのだが、日本入国のための観光ヴィザの取得が面倒になり、「今回は、一人で行くよ」ということになった。
たとえ日本人を伴侶に持っていても、インド人は日本へ、ヴィザなしでは入国できない。
そのことを、思い知らされたのは父の葬儀のときだ。あのときの、米国(ワシントンD.C.)の日本大使館の職員の、夫に対するあまりにもひどい対応は、今思い出しても、許し難いものだった……。
と、話が横道にそれた。
逸れたついでに。わたしがニューヨークでミューズ・パブリッシングを起業したのも、就労ヴィザを得たいがためだった。
当時、一時期勤めていた日系の出版社の給与がたいへん低かったので、わたしはフリーランスとして独立したかった。
しかし、日本ではフリーランスになれても、異国では不可能だ。
そこで考えたのが、自分で会社を立ち上げ、その会社から自分に対して就労ヴィザ(H1Bヴィザ)を出す、という方法だった。
ちなみに、会社を設立するのは、難しくない。会社が自分の就労ヴィザのスポンサーとなりが、ヴィザを出すことが、難しいのだ。
なにしろ、なんの経歴もない新会社。その会社が、いかに日本人スタッフを必要としているか、具体的な業務内容やビジネスプラン、制作物を添えての申請が必要だった。
いや、その申請に至る前の障壁も多かった。
何人かの移民法弁護士に相談したが、かなり無謀な計画ゆえ、誰からも受け付けてもらえなかった。
それでもしつこくあたったところ、唯一、やってみましょうと言ってくれた弁護士事務所の人がいた。そこに命運を託し、準備をしたのだった。
途中でトラブルが起こり、弁護士を変更するなどの事態もあり、金銭的損失も少なからず経験した。
数千万円の資金があれば、投資家ヴィザ(Eヴィザ)を得ることもできた。
しかし、当時30歳のわたしに、そんな資金があるわけもなく。たいへん体当たりな方法で、しかし綿密に、入念に準備をして、申請をした。
起業から数カ月後、晴れてヴィザが取れた日のうれしさは、決して忘れられない。一般的には、無理、といわれることを、遂行できたのだから。
とはいえ、本当にたいへんだったのは、会社を作り、一人で働き始めてからだった。自分にきちんと給与を払わねばならない。これは、実は簡単なことではない。
自分に払う給与が少なくてすむよう、エディターではなく、ステイタスが低め(移民法上)のライターとして申請したのだが、それでも年間25000ドルを、自分に支払わねばならない。
そのうちの3分の1が税金として消える。だからこそ、なるたけ自分の給与は低くし、経費で落としたいと考えていた。
諸々の準備にかかる費用、経費などを考えると、利益だけでも1000万円、10万ドルが必要だった。
尤も、27歳でフリーランスのライターとして独立した時の目標が、
「年に3カ月の休みを取り、旅に出る。残り9カ月は休みなく働く」
「年収1000万円以上」
だった。
1年目、2年目、それぞれ「3カ月休暇」は実現した。1年目は欧州放浪鉄道旅に出た。2年目は英国で短期語学留学をした。
年収は1000万円には届かなかったものの、会社員時代よりはかなり増えたからこそ、実現できたことだった。3年目には、目標を達成。3カ月ではなく、1年間のニューヨーク留学に踏み切った。
(※「ライター」としての仕事だけでは、その収入は得られないことはわかっていたので、プロダクション業務を個人で行い、利益を得た。複数の仕事をかけもちするなどしていた。若さゆえ、馬車馬のように働いた。)
自分のキャリアで、10万ドルの利益(外注費を除いた利益)を上げるためにどうすればよいかを、国が違うとはいえ、見当づけられていたからこそ、米国で独立に踏み出せたともいえる。
なにも、計画性なく無謀なチャレンジをしたわけではないということを、取り敢えずは書き添えておく。
しかし、最初の1年目から、思うような利益を上げられるはずもない。
最初の数カ月は営業。ひたすら営業。綱渡りの日々が1年余り、続いた。
簡単にいくはずはない、と予測はしていたが、何かと、スリリリングな日々だった。
その一方で、ルールのひとつに、「外注への支払いは、決して遅れない」を掲げていた。お世話になる外注(印刷所など)への支払いを遅れずやることは、わたしの譲れない方針の一つであった。
そんなわけで、張り切ってチェック(小切手)を切りまくったあと、しかし会社の口座の残高が際どいことになり、いやな汗をかくことも、しばしばであった、
米国在住時のヴィザを巡る問題は、ここで終わったわけではない。3年目の更新時。それから永住権(グリーンカードの申請時)。どれほどの労力を費やしたことだろう。
ちなみに、イミグレーションの書類の不備で、米国の空港から日本にとんぼ返りなどという話は日常茶飯事、周囲から耳にしていた。
就労ヴィザの期限が切れているのに、入国しようとした知人は、翌朝の便で強制送還されるべく空港で拘束されたのだが、その際には足をくさりでつながれて、「犯罪人」としての処遇を受けた。
然るべきステイタスなしに異国に滞在することは、すなわち不法滞在であり、犯罪なのである。
もっとも、犯罪者でもないにも関わらず、犯罪者扱いを受けることもある。
わたしたちが、永住権申請時の「移行期」に、米国に出入国する際、入国管理官らから受けた屈辱的な対応などについてはもう、本当に、思い出すだけでも忌々しい。
と、こんなふうに、芋づる式に思い出される、移民局を巡るエピソードである。
米国生活の10年間は、ヴィザを巡る闘いの10年であったといっても、過言ではない。
しかし、その障壁があったからこそ、それを乗り越えるための、さまざまな経験ができた。力がついた。なんやかんやで、実り豊かな歳月を過ごすことができた。
そんな次第で、海外で働くこと、就労ヴィザを得ることが、どれほどたいへんなことなのか、わたしは身を以て知っている。
だからこそ、ことさらに、思うのだ。
自分たちが、海外で「働かさせてもらっている」という姿勢を忘れてはならないということを。
インドに来てやってる。働いてやっている。というスタンスでは、腹が立つことばかりだろう。不条理に思うことばかりだろう。
折に触れてこのことは書いてきたが、日本経済はもはや、海外進出を重視しなければたち行かないということを、多くの人たちが認識しているはずだ。
生きる糧を得るためには、企業だろうが個人だろうが、野を越え山越え、海を越え、人々は活路を見出す時代だと思う。
そんな中で、就労ヴィザを得るということは、決して軽視できない大切なプロセスの一つであることを、認識されるべきだと思う。
……とはいえ、いやいやながら赴任してきた国で、面倒な手続きに巻き込まれれて、「散々な目に遭っている」と思う人が大半だと言うことは、わたしとて、承知している。
その上で、書いている。
異論の在る方もいらっしゃるだろう。これは、あくまでも、わたし個人の経験に基づく見解であることを、改めて、書き添えておく。
先日、参加した、『日印グローバル・パートナーシップ・サミット』においても、そのあたりのことが、正直なところ気になるところだった。
あいにく、移民法などに関するフォーラムが開かれていなかったが、今後はそのような移民情報も、充実してしかるべき事項だと思われる。
ところで、ニューヨークでの起業に至るエピソードは、『街の灯(まちのひ)』にも記している。発行からすでに9年が過ぎたが、色あせない内容である。
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