2泊3日のドレスデン滞在。瞬く間ながらも濃密な時間だった。
ドレスデンを去る朝、もう一度、聖母教会を見に行った。24年前のポジティヴフィルムを携えて。
あのとき泊まり、ダイニングルームで建設労働者らと語り合った安いホステルの写真。
マルティン・ルターの銅像の背後で、残骸のままの教会。
修復に向けて、破片と共に整理されていた時計。
このドレスデン旅の経験は、わたしの人生にとって大きな節目になるように思う。
個人と社会、イデオロギー。物事の価値観や優先順位……。
初めてこの地を訪れた1991年は、既述の通り「湾岸戦争」の最中だった。
取材中の出来事を、今回の旅では、幾度となく鮮明に思い出した。
たとえば、日本語とドイツ語の通訳を務めてくれたハイケ嬢。
彼女は、家族と生涯、会えなくなることを覚悟で、旧東ドイツからベルリンに亡命していた。その数年後、ベルリンの壁が崩壊するとは予想もしなかったという。
取材の最終地だった、壁が崩壊して2年ほどの、まだ薄暗く沈鬱な空気が漂っていたベルリンの小さなレストランで夕食をとった。カメラマンとライター、わたし、ハイケ嬢、そして彼女のボーイフレンドであるイラン人の男性と、彼女の友人の日本人男性。
取材の間中、彼女が湾岸戦争を伝える新聞記事を深刻に読んでいたのは、ボーイフレンドの祖国の様子が気になって仕方がなかったからだろう。
食事をしていると、店の中に花売りが入って来た。赤いバラの花を3輪購入して、ハイケ嬢とライター女性、そしてわたしに1輪ずつ、さりげなくプレゼントしてくれたのだった。
同席していた日本人男性は、確か大学に勤務していたはずだ。当時の彼は、多分、今のわたしと同じくらいの年齢だったと思う。
彼は、東ドイツに共産主義の理想社会を見て、日本から移住して来たけれど、ペレストロイカ、そしてベルリンの壁の崩壊、東西ドイツの統合という激動の時代の変化に巻き込まれていた。
「僕は、東ドイツは理想郷だと思ったんです。まさか、東西ドイツが統合するとは、思ってもみませんでした」
というようなことを、口にした。放心のあとの、悟ったとも諦めたともつかない、ただ穏やかな口調だった。彼のその言葉だけが、今でも鮮明に思い出せる。
彼は今、どうしているだろう。
ドイツの伝統菓子シュトレンは、ドレスデンが発祥の地との説もあるようで、菓子店をにぎわせていた。シュトレンは、ドライフルーツがたっぷりの、どっしりとした焼き菓子だ。ドイツでは、クリスマス前の4週間、少しずつスライスして食べる習慣があるとのこと。
わたしもときどき、何種類ものリキュールにドライフルーツ各種を浸してしっとり焼き上げたクリスマスケーキを焼くのだが、今年はシュトレンを焼いてみようかと思う。
というか、買ってくればよかった……と今更ながら。
ドレスデン名物のチーズケーキは食べてみたのだけれど、まあ、それなりに。のお味だったので、菓子を買って帰る衝動がわかなかったというのも事実。
ドイツの朝食は、冷たい。ハムやチーズにパンが定番。パンは香ばしくて、おいしい。
惜しむらくは、ドイツでおいしいソーセージを食べ損ねたこと。街中は、イタリアンやスパニッシュ、オーストラリア料理にスイス料理、日本料理! と、各国料理の店はあちこちで見かけたのだが、たまたま見逃したのか、典型的なドイツ料理を食べられる店を近くに見つけられなかった。
またいつか、食べにいらっしゃい、ということなのだと思う。
ホテルにあった専門店が、なぜか休業していて買えなかった。小さなものでもいいから、記念になにか、買っておきたかったのだけれど。またきっと、近い将来、訪れなければと、改めて思う。
いくつかの偶然が重なって、わたしにとって、ドレスデンは忘れえぬ街となった。
年齢を重ねてこそ経験できる旅の醍醐味、というものを、今回、心の底から感じ得ることができた。本当に、幸運なことだった。
2泊3日のドイツ、ドレスデン滞在を経て、再びプラハへ列車で戻る。プラハからドバイ経由で、ついにはバンガロールへの帰路に就く。
行きは曇天で沈んでいたエルベ河畔の光景が、青空にくっきりと浮かび上がって目にうれしい。
時間旅行さえも楽しんだ、今回の旅。スウェーデン、フランス、チェコ、ドイツ。4カ国5都市の旅。
この先の人生の、旅の在り方や、余暇の過ごし方について、真摯に考え直してみたいと思わされる、旅だった。
もっと勉強したい。そして、身体が元気に動くうちには、できる限り自分の足で赴いて、好奇心の源を検証したい。
そのためにも、日頃からの健康管理を大切に。
歩きやすい靴と服装。軽やかな動作と身軽な心を、巡り巡る旅のために「常備」せよ。
◎旅の最終夜はプラハにて。最後までよく食べ、そして音楽に浸る
半月以上に亘っての欧州旅も、最終日を迎えた。陽が傾き始めたころ、黄金色に包まれたプラハに到着した。
最後の夜は、最初に3泊したダンシングハウスとは風情が異なる、クラシックな風情の「アールデコ・インペリアルホテル」に滞在。高い天井が心地よい空間だ。
いくら旅を楽しんでいるとはいえ、半月以上もゆっくり休むことなく歩き続けていて、それなりに疲労している。最後はもうゆっくりと過ごしたかったのだが、夫が「最後だから」とコンサートに行きたがる。
ホテルの場所は、スメタナホールを擁する市民会館から徒歩5分ほど。調べてみれば、プラハ交響楽団によるスメタナホールでのコンサートに空席がある。
年に一度のニューヨークでは、エンターテインメントを楽しんでいるが、バンガロールでの生活では欠乏しがち。せっかく上質の音楽を気軽に楽しめる場所にいるのだからと、予約を入れた。
列車での移動中、ランチをゆっくり取る時間がなかったので、夕食はホテルのダイニングで早めにすませた。最後の最後まで、「本場の料理」に拘り、またしても肉!
チェコ名物鴨肉の煮込みと、子牛の頬肉の煮込み。もう、十分なほどに、ローカルの味覚を楽しんだ。それにしても、半月以上も「醤油成分」&「日本米」を口にしなかったのは、本当に久しぶりのことだ。
2年前のバルセロナ旅のとき以来ではないだろうか。年齢を重ねるとともに食欲は落ち、代謝も悪くなっているのだが、今回は何やら、若いころの自分が憑依したかのように、よく食べ、よく飲み、そしてよく歩いた。
スメタナホールは、24年前の薄暗く重厚な印象から離れ、明るさや煌びやかさが添えられていた。決して豪奢ではない、簡素な印象の木製のシートが、ほんのりと懐かしい。
冒頭のメロドラマ(台詞や詩の語りに背景音楽をつけたもの)は、チェコ語で全く意味が分からず、いきなり睡魔に襲われた。それ以外も馴染みのある演目ではなかったが、しかし、情趣に満ち、音の重なりが艶やかに厚い音に包まれるのは、本当に幸せなことだ。
旅の最後の夜。音楽会のあと、夜のプラハを歩く。昼間よりは観光客もかなり減り、心穏やかに歩くことができた。旧市庁舎にある、プラハの象徴のひとつ、15世紀の天文時計。実はわたしたちが最初に到着した9月28日、半年以上に亘った修復を終えて、お披露目されたのだった。すばらしいタイミングであった。