初の海外取材先である台湾からの帰国後は、それまで以上に苛酷な仕事が待っていた。寝ても覚めても編集作業に追われる日々が続いていたころ。新年明けてまもない寒い朝、昭和天皇崩御のニュースが届いた。昭和が終わり、翌日から平成がはじまった。バブル経済のピークを迎えていた当時の日本は、不自然に浮かれていた。街ゆく若い女性たちは、ワンレングスの長い髪にボディコンシャスなワンピース、高級ブランドのハンドバッグを携え煌びやかだ。安い衣類に身を包み、概ね疲労していたわたしにとって、そんな浮世の趨勢は、遠くから聞こえる太鼓の音のようだった。
台湾のガイドブックが校了した直後、一息つくまもなく、シンガポールとマレーシアの取材を命じられた。どんなに多忙でも、海外出張に行けることは、うれしかった。取材前に不可欠なのは情報収集。書店や図書館で関連書籍を入手し、未知なる国の情報を得る。観光事情に関しては、都内にある各国の政府観光局を訪れ、地図やパンフレットなどを収集した。
シンガポールに関する知識がほとんどなかったわたしにとって、得られる情報すべてが新鮮だった。シンガポールもまた台湾同様、大日本帝国の影響を受けていた。シンガポールは1819年、イギリス東インド会社の書記官だった英国人トーマス・ラッフルズの上陸を契機に、大英帝国による植民地時代が始まった。第二次世界大戦中の1942年に英国支配は終焉。代わって大東亜共栄圏の構築を目指す日本軍による占領が始まり、シンガポールは「昭南島」と改名された。シンガポールを象徴する高級ホテル「ラッフルズ・ホテル」は接収後、「昭南旅館」と呼ばれ、日本陸軍将校の宿舎となった。同国の日本統治は、1945年8月の日本の敗戦まで続き、以降は再び英国の支配下に戻った。完全に独立したのは1965年、わたしが生まれた年のことだ。
シンガポール取材は、年上の男性編集者と外部カメラマン2名の計4人が2班に分かれて行われた。シンガポールは、東京23区より少し大きいくらいの国土面積であることから、全容を把握しやすく、移動は比較的、楽だった。観光地やレストラン、ホテル、ショップなどを片っ端から取材したのだが、年上の男性編集者が、「おいしいとこ取り」をしていた。人気店の大半を自分が担当し、残りをわたしに回していたのだ。今、当時のガイドブックを開けば、「チリクラブは、ほんと旨い」とか「フィッシュヘッド・カレーは最高」とか「ペーパーチキンは絶品」とか「あのチキンライスは抜群」といった彼の言葉が、30年経ってなお、忌々しくも鮮やかに思い返される。
残念な記憶の一方で、シンガポールでは目に映るものすべてが、日本と同じアジアの国とは思えぬ多様性に満ちていて、興味深かった。英国統治時代の影響を受けたコロニアル様式の白亜の建築物が目を引く一方で、漢方薬の香り漂うチャイナタウン、山積みの唐辛子やスパイスが店頭を賑わすリトルインディア、モスクからコーランの旋律が響くアラブ・ストリート……と万華鏡のような街並みに心を奪われた。当時は古びた建物ばかりで、それがエキゾチシズムをより強くしていた。香水の匂いが漂う、冷房の効いたショッピングモールが林立するオーチャードロードを歩くよりも遥かに楽しかった。
フランス、イタリア、スイス、ロシア、中国、インド、タイ、ヴェトナム、韓国、メキシコ、マレー系のニョニャ料理……と、世界各地の料理店の存在も、この国の多様性を物語っていた。ホウカーセンターと呼ばれる屋台街の喧騒、シーズンだったドリアンの強烈な匂いも記憶に鮮やかだ。英国統治時代の名残を映したハイティーがまた、魅力的だった。ランチとディナーの間のティータイムに、ケーキやスナックを楽しむ習慣だ。取材当時、ラッフルズ・ホテルが改装中だったので、やはり英国統治時代の面影残すグッドウッドパーク・ホテルのハイティーを取材した。しかし、この取材は写真撮影だけで、味わうに至らず。
結果的に、この取材では、深く心に残る味覚に出合えなかった。ただ、忘れ得ぬエピソードをひとつ、残しておきたい。
とある日本料理店を取材したときのことだ。ランチ営業を終え、傾き始めた陽光が差し込む店内で、従業員がカーペットに掃除機をかける中、黒いスーツに身を包んだ店長に話を聞いた。一通り取材を終えたあと、多分わたしは、「海外でのお仕事はたいへんですね」といったことを、口にしたのだと思う。すると彼は淡々と、話を始めた。彼は赴任当初、ローカル・スタッフが時間にルーズで、仕事が遅いことに不満を持っていた。事あるごとに従業員を叱責していたあるとき、マレー系マネージャーに言われたのだという。
「あなた方は数年間だけ、この暑い国で働いて、成果を出せればそれでいいでしょう。しかし、僕たちは生涯、永遠の夏の中で過ごすんです。あくせく働いては、いられません」
「永遠の夏」という言葉に、店長は、我に返った。自分たちの価値観を押し付けていたことを顧みる契機になり、諸々を改善したのだという。「永遠の夏」は、23歳のわたしの心にも深く刻印された。今でもシンガポール取材を象徴する大切な思い出として、心に在る。