義父ロメイシュ。彼が亡くなった今、はじめて、彼がいかに愛すべきすばらしい人柄だったか、ということを、噛み締めている。思い出はとめどなくあふれるが、いやな思い出が、ひとつも、ほんとうにひとつも、ないのだ。そのほとんどは、笑いにつながるエピソードばかり。
一昨日の朝、デリーへ飛ぶべくバンガロール空港への道中で、ロメイシュ・パパの訃報を聞いた。また間に合わなかった……と思った。我が実父も、わたしが成田から福岡空港に飛んでいる途中に、亡くなったのだ。
デリーまでの約2時間半のフライト。思い出が脳裏をぐるぐると巡る。パパが雲の上で手を振っていても、そんなには驚かないな……と思いながら、窓の外を見る。何度も目を凝らして見る。
ロメイシュ・パパと出会って24年。米国在住時から、我が家に長期滞在したり、一緒に旅をしたりと、思えば実の父親よりも、ずっと長い時間を過ごしていた。思い出多く、悲しみ深いのは、当然のことなのだ。
ふと、機内で閃いた。パパがアルヴィンドの母アンジュナと過ごした歳月は26年。ウマと過ごした歳月は今年で25年。ちょうど同じくらいである。ひょっとすると、アンジュナが「もう、そろそろこっちにいらっしゃいよ」と呼んでいたのかも知れないと思った。
パパは、老衰死、だったのだ。
書き残しておきたいことがあまりにも多くて、気持ちがまとまらない。これから少しずつ、自分の気持ちを整えるためにも、書き残そうと思う。まずは日本語で書いて、そして英語にも訳して、パパの思い出を文字にするつもりだ。
わたしがパパと最後に会ったのは、昨年の11月下旬。わたしがアムリトサル&ダラムサラの旅へ出かける直前のことだ。
パパは、パパの二度目の妻であるウマが、彼女と前夫との娘とともに旅をするというので、その間、単身バンガロールへ遊びに来たのだった。最初は我が家に3泊して、わたしが出発したあとは、アルヴィンドの姉のスジャータ一家に泊まる予定だった。
ところが、アルヴィンドがもう少しパパと過ごしたいとのことで、わたしの不在中、パパは更に2泊も共に過ごしていた。そんなことなら、料理の準備などをしておいたのに……と思ったが、二人で外食をしたり、出前を頼んだり、昼間からビールを飲んだりして、楽しんでいたようだった。
そのときのパパは、かつてほどは元気ではなかったものの、79歳(今年の3月で80歳になるはずだった)のわりには、とても元気だし、少し老化しているだけだろうと思っていた。
しかし、その後、スジャータ宅に訪れたパパは、ちょっとした階段の昇降にも疲れを見せていたとのことで、デリーに戻ったら病院に行くように勧められていた。しかし、パパは病院へ行くことに乗り気ではなかった。まだ51歳だった前妻(アルヴィンドの実母)を慢性白血病で亡くし、長い間、病院を行き来する辛い歳月を送っていたことも、その理由だと思う。
しかし、不調が看過できなくなったようで、12月下旬、病院に行ったところ、心臓に不調があるとのことで薬を処方された。それを飲んだ直後から、むしろ体調が弱り、自宅で養生していた。わたしたちは、みな心配したが、薬の量を減らして様子を見るようドクターから言われ、回復を待っていた。
意識ははっきりしているし、自分で歩いてトイレにも行けるし、しばらくすれば治るだろうと、ウマも本人もそう思っていた。
ところが先週の金曜日。
目に見えて具合が悪くなったので即入院するも、治療を受けて状態は安定した。輸血をすれば大丈夫だとのことだった。しかしアルヴィンドが翌日土曜日の午後デリーへ飛び、病院を訪れたときには、集中治療室にて、身体中がむくんで会話もできない状況だった。
パパは、何かに感染して合併症を起こしていた。
その夜、パパのことが気になりながらも眠りについた。午前1時過ぎに夫から、パパが危篤との連絡を受けたことは、すでに記した通りだ。号泣する夫の声を聞いて、いてもたってもいられなくなったが、スジャータの夫、ラグヴァンもデリーにいたこともあり、少し心丈夫でもあった。
パパの心臓は、一時、止まったものの、最悪の事態を脱して、再び復活し、翌朝日曜日には容態が安定しはじめていた。わたしは月曜朝のフライトの予約を取り、日曜日は荷造りをし、今週締め切り予定の仕事を片付けた。
その間、何度となく、夫と電話のやり取りをした。状況は五分五分だという。祈るしかなかった。
そして月曜の朝。空港に向かう途中の車の中で、夫からパパの訃報を聞いた。
この2日間というもの、感情もあらわに、心砕きながら、号泣し、パパの手をさすり、頭をなで、パパの回復を切望していた夫。いくつになっても、大切な人の喪失は、辛い。最愛の父親を亡くした夫が、不憫でならない。