インドでは、「葬儀の様式」を一括りで語ることはできない。基本的には、ヒンドゥー教徒は遺体を火葬して川に流す。イスラム教徒やキリスト教徒は、火葬をせず、棺を墓地に埋葬する。
夫はヒンドゥー教徒なので、火葬されることは予測していた。ロメイシュ・パパの母、ダディマが13年前に他界したときのことを思い出し、遺体は一度、実家に運び込み、その後、火葬、そして葬儀を執り行うのだろうと思っていた。
わたしがバンガロール空港でフライトを待っている間、夫から電話があった。彼は、パパの亡骸をあちこちに移動させるのがいやで、早く火葬をしたいという。そんな突然に火葬をしていいものか、とも思ったが、パパは一人っ子で親戚も少ない。決定権は夫とスジャータ、そしてウマにある。
「ミホはパパと最後に会いたいか」と夫が尋ねるので、会いたいと答えたら、じゃあ、今日最後、5時からの火葬の予約をすると言って、電話を切った。わたしがパパに会わなくてもいいと言ったら、退院したら即座に火葬場に運ぶつもりでいたようだ。非常に速やかな判断である。
これが、敬虔なヒンドゥー教徒だったり、親類縁者のしがらみが多い一族であれば、こうはいかない。
夫の周辺は、ヒンドゥー教徒ながらも牛肉は食べるし、儀礼にもさほど拘泥していない一族だ。だからこそ、本来であれば難関が多いはずの国際結婚、わたしとの結婚も、みなが歓迎してくれたともいえる。
冬のデリーは濃霧に加え、空気汚染も著しく、フライトの離着陸が遅れるのは日常茶飯事だ。しかし、月曜日は幸い、ほぼ予定通りに到着した。まずは実家に立ち寄る。4階建ての立派な家。ロメイシュ・パパが、実母ダディマと自分たちのために建てた家だ。
高級官僚だったパパの父親は、住まいこそ立派なものが提供されていたようだが、経済的には決して余裕があるわけではなかった。一人っ子だったパパは、早い時期から経済的な自立を果たしていた。シェル石油の奨学金制度で、理工系の名門大学である英国のインペリアル・カレッジに進んだ。
シェル石油に勤務時はアフリカにも駐在。その後、転職してからも、インド各地を転勤した。ロメイシュ・パパは極めて堅実な人だった。わたしは実家を訪れるたび、前時代的な家電や調度品を目にしては「パパ、もう少し、新しいの買ったら?」と提案したりもしたものだ。
4階建ての1階は、テナントにしており、フレンドリーな一家が暮らしている。2階は公共の場、3階はわたしとアルヴィンドが来たときなどに使うフロア、そして4階が、パパとウマの住まいである。
初めて訪れた19年前から時間が止まったままのような、3階の、見慣れた部屋に入る。いくつかある部屋の電気をつけようとするが、半分ほどの電球が切れていた。この家を大切に守って来たパパ。以前なら、電球が切れていることなどなかった。
パパはもう、いろいろなことが、収束に向かっていたのだなと思う。
気持ちを整え2階に降りると、親戚や友人が集まっていた。みなで葬儀場に向かう。そこは、ダディマの葬儀のときに訪れた場所でもあった。旧式の火葬と、電気式の火葬とがあったが、アルヴィンドは旧式を選んでいた。大気汚染に拍車をかけるような煙だが、わたしも、その方がいいと思った。
結局、退院の手続きが遅れ、夫とラグヴァン、そしてパパの到着が後だった。小型の救急車の後部のドアは空けたまま、竹製の担架の竹の持ち手が、車からはみ出している。
男性たちが、白い布に包まれたパパを載せた担架を火葬場に運び込む。ひとりがバランスを崩して転びそうになってヒヤヒヤする。ここで担架を落としてパパが飛び出したりしたら、ドリフのコントみたいだな、と不謹慎な映像が浮かび上がり、泣きながら小さく笑う。
簡単な儀礼をすませて最後のお別れをしたあと、木で櫓が組まれる。その上に、パパの遺体を載せ、みながハーブのような粉をパパの遺体の上にまぶす。それはいい香りを発しながら、燃焼を促すためのハーブでもあるようだ。
最後のお別れに、パパの手を握る。アルヴィンドとよく似た、ふわふわと柔らかい手。冷たくなっていたけれど、まだ柔らかだった。
みな、手に手に木を携え、パパの上に櫓を組む。わたしも、1本、載せる。そうして火が放たれた。
実家に戻り、シャワーを浴びて煙の匂いを落とし、ベッドに入る。二人交互に泣きながら、気持ちが追いつかない。2時45分。夫が目を覚ました。アルヴィンドの亡母アンジュナが、電話をかけてきたという。
「すべては、計画されていたことなのよ。パパが今日、こちらに来ることも。だからパパは、みんなに会いにバンガロールへ行ったの。その直後に、あなたがダライ・ラマにお会いして、心の平穏について学んだことも、あなたの心の準備のために計画されていたの。パパは、あなたがデリーに来るのを待って、息を引き取ったのよ」
アンジュナはそう言ったあと、少し笑いながら、夫をたしなめるように、こう続けたという。
「だから、パパが死んだことを、そんなに嘆かないで」