デリーに来て、まだ3日目の夜にも関わらず、もう長いこと、ここにいる気がする。
人の死に際しては、数々の手続きが必要だが、家長の死は尚更だ。我が父が亡くなったときには、ホスピスから遺体を葬儀場に移し、その後、妹と共に斎場のスタッフとお通夜や葬儀の打ち合わせに突入。時差ぼけと疲労と睡眠不足とで、悲しむ余裕がないほどだった。
昨日は、義姉夫婦との間で役割分担を決めて行動した。わたしと夫はセレモニー会場の下見とフラワーアレンジメントの手配。義姉夫婦は、明日のセレモニーの新聞広告に出す写真の加工や入稿作業など。そのほか、死亡証明や火葬証明などが必要なのは、日本と同じである。
一通りの手続きを終えて、明日のセレモニーで着る「白い服」を買いに出かける。夫はFabIndiaでクルタ・パジャマとジャケットを購入できたが、わたしは見つけられず。薄手の白い木綿のクルタなどでは風邪を引いてしまう。一旦、帰宅したあと、わたしは改めて、実家から近いサケットのモールへ向かう。
実は昨日は、義継母ウマの誕生日だった。夫を前日に亡くした彼女に「ハッピーバースデー」を告げるのはあまりにも酷だと思いつつ、朝、彼女に祝福の言葉を伝えたら、「今日は人生で最悪の誕生日……」とつぶやいていた。
せめてなにかプレゼントでも買おうと思いつつ、まずは服を探しにモールを早歩きで巡っていたところ、BreadTalkというシンガポール発のベーカリーを通過した瞬間、足が止まって引き返した。「帰りにここでケーキを買って帰ろう。せめて小さくでも、ウマを祝さなければ、パパが悲しむ」と思った。
ウマと彼女の娘のナミタは、疲れもあってか、わたしたちとは一緒に夕食をとらなかった。わたしはケーキと皿を携え、4階へ行った。ウマに、ケーキを買って来たから、一緒に食べようと箱を見せたら、彼女は小さく微笑みながら言った。
「BreadTalkはロメイシュのお気に入りの店で、いつもここで小さいサイズのバゲットを買って帰ってたのよ」
やはり。パパはわたしを使って、ウマの誕生日を祝いたかったのだなと思った。ちなみにここのパンやケーキは、日本的東アジアのテイストで、スポンジケーキも繊細なおいしさだった。
そして今日。夫とスジャータたちは、遺言書の確認や実践的な諸々の作業にかかりきりだった。睡眠不足が苦手な我々夫婦だが、このような状況下では、話しは別。今年はのんびりした新年を過ごしていたので、余力は十分にあるはずだ。時に悲しみが苛立ちに転じる夫をなだめつつ、わたしの本日の担当は、写真の整理とセレモニーで上映するスライドショーの準備。
古びたアルバムの写真だけでなく、わたしのブログ上の写真、ウマやスジャータ、ラグヴァンから送ってもらった数々の写真の中から50枚程度を選んでPowerPointにレイアウトした。パパの両親、そして彼の子ども時代からつい最近までの写真を、順番に並べていく。
最初はモノクロの、インドの歴史が透けて見える、英国統治時代の写真。
インド初代首相ネルーの風格に勝るとも劣らない存在感を放っている、アルヴィンドの母側の祖父。実業家であり、政治家であり、そしてフリーダムファイターでもあった。独立前にはマハトマ・ガンディー同様、投獄されたこともあるという。インディラ・ガンディーと一緒に写っているのが、その祖父だ。
一方、ネルーの背後から、カメラ目線なロメイシュ側の祖父。柔らかく陽気な人柄がにじみ出ている。英国留学をするロメイシュを見送るべく、波止場に立つ3人の姿。すっかり肥満している祖父と小柄な祖母は、まるでフリーダ・カロとディエゴ・リベラだ。
パパが生まれ、育ち、英国へ留学し、前妻との間に二人の子をもち、子どもたちの結婚式を見守り、その後、後妻の家族とも過ごし、それぞれの場所で、いつも笑顔の彼の様子を見て、パパは本当に、豊かな人生を送って来たのだということを、しみじみと実感した。
平易な言葉では伝え難い、しかし、人生にとって大切なものはなんだろうということを見つめ直す契機となった、作業でもあった。
夜、バンガロールに住む夫の友人、アミットが、わずか数時間、夫に会うためだけに、日帰りで、わざわざデリーに来てくれた。彼は親戚の結婚式に招かれ、チェンナイを訪れていたらしいのだが、「友が悲しんでいるときにパーティに参加する気分にはなれないと」来てくれたのだ。
「帰りのチケットはまだ予約していない、空港に行って、決めようと思う」と、まるでバスに乗るみたいに軽やかに。
そんな友人に恵まれて、夫もまた、幸運な人だと思う。彼と話しているうちに、ずいぶんと気持ちが落ち着いたようだ。アミットは物事の優先順位を、きちんと見極められている人なんだと、深く感じ入った。
疲労しているはずなのに、書きたいことが、次々に溢れてくる。
パパの「死」を通して、「生」についてを、学んでいるところだ。