『全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。そして、言った、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。(旧約聖書「創世記」11章)』
このところ、脳裏に幾度となく浮かび上がる「バベルの塔」。この冊子は、わたしが27歳のとき、フリーランスのライターになった直後に関わった編集物の一つだ。4カ国語情報誌『We’re』。在日コリアンの芥川受賞作家、李良枝(イ・ヤンジ)の妹であるSakaeさんが創刊した冊子だ。
1992年の創刊準備中、良枝さんが37歳で急逝。わたしは、Sakaeさんと共通の友人を介して知り合い、1993年5月から、休刊となるまでの半年間、新大久保のオフィスで、編集に携わった。
デジタルカメラやDTP(デスクトップ・パブリッシング)の普及前夜。4カ国の版下を出力できるところも限られていて、何もかもが手作業の、アナログな時代。短くも濃厚で、忘れ得ぬ思い出多き、日々だった。
最終号の表紙を飾ったのは、昭和元年生まれの田中浩氏。姉妹の父親だ。昭和15年、日本の植民地下だった韓国の済州島から、君が代丸に乗って日本に上陸。大東亜戦争のときには、軍属としてマグロ漁船に乗った。彼は戦後、済州島の親族の反対を押し切って日本に戻り、帰化した……と、綴るに尽きず。
バックナンバーは、こちらのサイトに公開されている。関心のある方は、ぜひご覧いただきたい。
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この最終号の、最初の見開きページが、このバベルの塔だ。折しもそのころ、セゾン美術館で、オランダのロッテルダムにある「ボイマンス美術館展」が開催されていたことから、Sakaeさんが交渉。展示作品の一つだった、このピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」の写真を借用することができた。
当時、編集作業をしながら、この絵の力に、しみじみと、引き込まれた。そして今もまた、見入らずには、いられない。ブリューゲルの絵画、ひいてはベルギーやオランダあたりの、重厚で薄暗く、しかし人間味(ヒエロニムス・ボスの魑魅魍魎を含む)に満ちたフランドル絵画が好きだということもあるが……。
9/11の直後にも、同じことを考えた気がする。イタリア、トスカーノ地方のサン・ジミニャーノの情景とともに。14-15世紀の全盛時代、サン・ジミニャーノの小さな街には、70本を超える塔が林立していた。今では、そのうちの14本が残っている(写真は1995年の取材時に撮影)。
今、改めて、この絵の力を借りながら、バベルの塔の意味することに、思いを馳せずにはいられない。
書棚から、併せて2冊の本を引っ張り出す。
……衝動的な好奇心に、脳みそがついていけず、ため息まじりに仰ぐ空。