1945年8月15日の日本の終戦と、1947年8月15日のインド独立との関係について、過去記した記事を、新たな出来事を加えつつ、2年ぶりに転載する。
たとえ自分が書いたことでも、歳月の流れとともに忘れ去る。自分の備忘録のためにも、どれも端折れぬ物語として、数年に一度、こうして転載する次第だ。
今年1月、デリーに暮らしていた義父ロメイシュが他界した。2月にも、デリーを訪れた際、伯父(夫の母の兄)の家を訪れ、以前から気になっていた、亡祖父の話を聞いた。ラホールで事業をしていた祖父が、戦後、デリーでビジネスを立ち上げることができた背景を知りたかったのだ。
1947年が明けて早々、分離独立が明らかになる前に、祖父は家族の安全を確保すべく、ラホールを離れ、一家でデリー入りしていたエピソードは、一つの物語として極めて興味深い。
まずは、日本とインドの8月15日が「必然」だったことに触れた記録を転載した後、祖父のエピソードを転載し、過去の記録を続けたい。
★MUSE CREATIONメンバー向け通信メールの長い序文
(2017年8月16日送信)
◯昨日8月15日は、インドの独立記念日であり、日本の終戦記念日でした。日本の敗戦からちょうど2年後の同じ日にインドが長きに亘る英国統治から「印パ分離独立」を果たしたことは、わたしはずっと偶然だと思っていましたし、今でも多分、ほとんどの人がそう思っていると思います。3年前、わたしはある書物を通して、それが偶然ではなく意図されたことを知り、強い衝撃を受けました。以来、機会があるごとに、セミナーで語ったり、記事にしたりしていますが、今でも知る人は極めて少ないと思います。
◯その書物とは、“INDIA AFTER GANDHI(インド現代史)”です。著者のラマチャンドラ・グハ氏とは、ちょうど10年前の2007年、とあるパーティお会いしました。そのことをブログに書いたところ、同書を日本語訳された佐藤宏氏がたまたま見つけ、「日本語訳の本を発行したのでお読みください」とメールをくれたのでした。英語ではとても読む気になれない分厚い本ですが、日本語ならばと日本のアマゾンで取り寄せて、上下巻二冊を手にしました。
◯イギリス領インド帝国最後の総督マウントバッテン卿は、アジア戦線で打ちのめされた日本軍に対して非常に強い怨念を持っていました。彼がマハトマ・ガンディやネルー、パテルなど、国民会議派(コングレス)の面々とインド独立のタイミングを検討していたころ、周囲は、8月15日ではまだ準備が整わないと反論しました。しかし、マウントバッテン卿は聞き入れませんでした。彼にとって、日本降伏の日はめでたい日であり、そこに自身が関わったインド独立という「ハレの日」を、ぶつけてきたわけです。
◯巨大国家誕生の準備が整っていなかったにもかかわらず、独立を急いだことにより、この国がその後、どのような悲劇に見舞われたかを知るにつけ、一人の人間が及ぼす影響の大きさを思います。3年前のブログに詳細を記していますので、ご興味のある方は、ぜひご一読を。インドと日本の繋がりの断片を、知ることができるかと思います。インドに暮らすにあたっては、両国の歴史の断片だけでも、知っておくに越したことはないと思います。ベン・キングズレー主演の映画「GANDHI」もお勧めします。
◯前置きが長くなりますがもう一つ。ある一定年齢を超えた世代のインド人が非常に日本人に対して好意的ですが、その理由の一つとして、第二次世界大戦での出来事を看過することはできません。みなさんも、年配のインド人が「トウキョウ」「キョウト」よりも先に、「ヒロシマ」「ナガサキ」と、口にしたことを聞いたことはあるかと思います。独立運動家スバス・チャンドラ・ボース率いるインド独立軍と、大日本帝国軍の連携によって進められたインパール作戦。しかしその作戦は、史上最悪の杜撰な作戦として戦争史上に残されています。
◯わたしは、インド移住当初から、インパール作戦の舞台となった、北東インドのナガランド州コヒマ、マニプール州インパールを訪れたいと思っていました。これまで機を逃してきましたが、ついには今年の11月、一人旅を決行する予定です(※注:諸事情につき行けなかった)。それもあって、今、少しずつ関連書物を読むなどしているのですが、今年は日本のメディアでも、インパール作戦を取り上げているのをよく目にします。先日はクーリエ・ジャポンが特集を組んでいました。そして昨日は、NHKスペシャルが『戦慄の記録 インパール』を放送していました。先ほどネットで検索したら、動画がアップされていたので、シェアします。わたしもこれから、じっくり見ようと思っているところです。多分、動画はすぐに削除されると思いますので、興味のある方は、早めにご覧になるといいかと思います。インパール作戦もまた、牟田口中将という一人の人間の不条理な判断が、何万人もの兵士の命を奪う結果となりました。
◯わたしのキャリアのスタートは、海外旅行ガイドブックの編集者でした。初めての海外取材先は1988年の台湾。戒厳令が解けた直後の当時の台北は、日本統治時代の面影が街の随所に残っていました。日清戦争が終わった1895年から1945年までの50年間、日本に統治されていた台湾。その50年間に生まれ育った人たちは、「日本人」として日本語を話し、日本の教育を受けていました。その様子を目の当たりにして、強い衝撃を受けました。世界には、知らないではすまされないことが、たくさんある、とも思いました。初めての海外取材での経験を契機に、学校で学んできた以外の世界の歴史を学ぶことの重要性を、未だ実感しています。
◯わたしたちは、故国を離れて異郷に暮らしています。歴史に関心があるないに関わらず、この国に暮らすからには、ほんのわずかでも、この国と母国との関係を頭に入れておくことが大切だと思います。善し悪しを問うのではなく、何が起こったかを知っておくことこそ、まずは大切なことだと思われます。「国民感情」が、暮らしにもビジネスにも、少なからず影響を与えることは、中国や韓国と日本の関係ひとつをとっても、明らかです。無論、歴史は、書き手の立場や考え方によって印象が操作され、公正な目で見つめることは、非常に困難なので、ジャッジする必要はないと思います。
●印パ分離独立を巡る、ドラマティックな祖父の人生 (1) 2020年2月16日
国境近く、過去からの干渉強く、デリー、北インド。時間旅行の日常にて。
一年中、概ね過ごしやすい気候の、南インドはバンガロール。彼の地の暮らしでは、なにかと「甘やかされている」ということを痛感する。
寒暖の差、著しく。国境に近く。タフな地理的環境にある北インドでは、心身の構造も変わってしまうようだ。マッサージオイルを塗れども塗れども、カサカサと乾いてしまう肌。厳寒の時期を過ぎたというのに、熱いシャワーを浴びれば、身体の芯が冷えきっていたことに気づく。
今、URBAN CLAP (COMPANY)のサーヴィスでマッサージに来てもらい、久しぶりに、身体がリラックスしているところだ。
思えば先週の日曜日、ジャパン・ハッバを終えた翌々日にデリーへと飛び、バタバタとした日々を過ごした。わずか1週間の滞在につき、大したことはすまいと思っていたのだが、次にいつ来るかもわからず、できる限りのことはしておきたいと欲が出た。
とはいえ、無理は禁物。昨年8月の「帯状疱疹発症」が教えてくれた教訓につき。しかし塩梅を測りかねるのも事実。前半は、使用人らの協力を得て、家財道具の取捨選択。マルハン家に数十年働く彼らは、わたしよりもはるかに勝手がわかっており。同時に彼らをマネジメントするのは、これからは我々夫婦の仕事となる。課題も、責任も、増える。
急ぎの作業から始めるべしと、「アンティーク」な洗濯機やガスコンロを買い替えたり、オーヴントースタを購入したり、あらゆる鍋釜キッチン類を整える。まずは食。自分がここで料理をしやすいように環境を整えることが優先事項につき。
オンラインで買えるもの、自分で買いに行くもの、さまざまだが、主には無理なくamazon.inのお世話になる。助かる。
古い家具類は極力そのままに。ソリッドウッド(純正木材)の温もりを大切にしたく、ソファーの張替えなども依頼する。カーテンはソファーを変えたあとに、色柄を決定すべく、次回の課題に。ブルーが好きだったロメイシュ・パパの好みもあって、このフロアは何かと青かったが、寒い。薄暗い。明るい印象にすべく、少しずつ、インテリアを変えていこうと思う。
壁のペンキ塗りはURBAN CLAP (COMPANY)に、見積もりに来てもらった。これがまた的確だ。わたしはバンガロールの自宅の内装工事を手がけた際に、いろいろな業者に見積もりを出してもらったこともあり、ペンキの相場や人件費などにも明るいのだが、良質のアジアン・ペイントの塗料を用いて、十数年前のバンガロール相場の1~2割り増し程度である。見積もりを取りに来た青年曰く、創業者(30代)の二人は、「現場主義」でもあり、彼と一緒に家庭を巡ったこともあるという。ラタン・タタからの投資も受けており、海外進出も果たす模様だ。
URBAN CLAPのサーヴィスの利便性については、語れば長くなるので割愛するが、ともあれ、日常生活において、改築改装、修理その他、「業者への依頼」が不可欠なインドの生活において、まさに願ったり叶ったりの存在だ。
一昨日、昨日と、2日間に亘って、夜は親戚宅へ。一昨日、夫の伯父(夫の亡母の兄)宅で聞いたプリ家のエピソードが「ドラマ」すぎて、またしても、歴史に引きずり込まれる。
インドとパキスタンが分離独立した際、夫の母方の祖父は、なぜパキスタンのラホールから、資産を持ってくることができたのか。以前から不思議に思っていた。そして先日、散骨しにヤムナーナガールへ行った時にも感じた。
8月15日の分離独立直後、大勢のヒンドゥー教徒がインドへ、イスラム教徒がパキスタンへと流れ、難民として暮らし始めた中、なぜプリ家は当初から製糖工場や鉄鋼所を立ち上げることができたのか。
そのエピソードは映画さながら。詳細を綴るに長く、簡単に記すならば。
1947年初旬のラホールは、すでに暴動などが起こっていて情勢不安だった。だから祖父は一時、デリーに避難すべく準備をした。彼は当時からヤムナナガールにも事業拠点を持っていた。
ラホール最高裁の著名な弁護士だった彼の父親、すなわちアルヴィンドの曽祖父から、「万一のことがあったら」と、ピストルを託された。
もし敵に襲われた際、家族が敵の手に渡る前に、殺害する覚悟はできているか問われ、祖父はイエスと答えた。彼は以来、死ぬまで、銃を枕の下にいれて寝ていた。
分離(パーティション)の混沌の中、祖父は多くのイスラム教徒を匿い助けたことから、数奇な経緯で恩人と名乗る人物らの救いを得、1948年以降、ラホールに残していた土地を現金化。鞄に詰め込み、デリーに持ち帰ることになった。
関係者に「国境を越えるまで、絶対に車を停めるな! 一直線に突き抜けろ」と言われて、数十マイルを走破した。見るからにゴッドファーザーな出で立ちの祖父。エピソードは尽きず。
伯父の語りが巧みなこともあり、情景がありありと思い浮かぶ。プリ家の物語は、伯父に書き残してもらいたいと切に思う。一つの家族の歴史を追うだけでも、その時代の背景が見えてくる。
以前から、親類をインタヴューしたいと思いながら歳月は流れ、人々は、この世を去る。少しずつでも、聞ける時に、聞いておかねば。
●印パ分離独立を巡る、ドラマティックな祖父の人生 (2) 2020年2月18日
「世界で最も幸せなことは、アメリカの家に住み、フランス料理を食べ、日本人の妻を持つこと」
「世界で最も不幸なことは、日本の家に住み、アメリカ料理を食べ、フランス人の妻を持つこと」
結婚前には一度も口にしたことがなかったこのフレーズを、結婚後、たびたび持ち出すようになった我が夫。子供のころから、母方の祖父に聞かされていたという。
故に米国在住時、わたしとともにフランス料理を食べているときには、彼は世界で最も幸せ者だったというわけだ。
ピストルを携え、大金入りの鞄を車に詰め込み、分離独立直後の印パ国境地帯を猛スピードで走り抜けた祖父。最早、我が脳内では『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』的な映像が展開されているその祖父が、かように軟派な発言をしていたことに違和感だ。
しかし、先日、ランジート伯父にその件についても問うたところ、事実であった。
「そうそう。親父はその話をよくしていたよ。KAWASAKIに行ったあとからだから、日本人から聞いたんだと思うよ」
川崎!? ゴッドファーザーな祖父もまた、日本に行ったことがあったとは。わたしばかりか、夫さえ知らなかった。現在はランジートの息子、即ちアルヴィンドの従兄弟が継いでいる、祖父創業のISGECという鉄鋼会社及び製糖会社は、今でこそ日立造船や住友金属などと仕事をしているが、祖父の代から日本と関わりがあったとは知らなかった。
「親父と僕は、1965年ごろ、何度か川崎に行ったよ。当時はビジネスに発展しなかったけどね」
わたしが生まれたころ、事業家であり政治家でもあった祖父は日本に足を運んでいたのだ。実は、マルハン実家には、母方祖父の思い出の品々も残っており、その中に日本的なものが散見され不思議に思っていたのだが、腑に落ちた。
祖父はまた、日本と「負」の関わりも持っていた。祖父の姉の夫、即ちランジート伯父のそのまた伯父は、第二次世界大戦中、マレー半島のコタバルにで、日本軍の攻撃により戦死していた。
この話は、2014年に、ランジートが我が家に泊まりに来た時に話してくれたのだった。国際結婚は、個々人の問題を超え、背後に国家間の問題も横たわる。有事の際の自分の立ち位置は、常に心しておくべきだろう。万一、日印が国交断絶となった時、自分はどうするのか。断絶と行かぬまでも、今回のコロナウイルスを巡る日中関係のような事態に陥ったとき、自分はどうするのか。
さて、このときにランジート伯父から聞いていた「祖父の最期」の話の記録を加筆修正して転載する。1993年。夫の実母が若くして慢性白血病で他界したあと、祖父は第一線を退き、ランジート伯父に会社を引き継いだ。晩年の祖父は、欧州を旅し、多くの友人が暮らすスイスや英国へ、好んで赴いた。
普段、祖父とランジートとは、会社運営の都合上、異なるタイミングで海外に出ていたが、1996年3月は、いつもと違った。祖父がロンドンに赴いた直後、ランジートも欧州数カ国歴訪の出張が入った。インド人は欧州を訪れる際、観光ヴィザが必要だ。それを準備した上で、ランジートは最初の渡航先、ドイツのフランクフルトに飛んだ。
ところが、フランクフルト空港の入国管理で足止めを食う。発行されたヴィザが、「1カ月先から有効」になっていたのだ。明らかに在インドのドイツ領事館のミスなのだが、入国できない。仕方なく予定を変更し、次の目的地、スペインのバスク地方、ビルバオに入った。その後、ドイツのヴィザの手配をするために、予定にはなかったロンドンへ入ることにした。
午前中、ロンドンに到着したランジートは、父親の滞在する社交クラブに電話を入れた。インドにいるものとばかり思っていた息子がロンドンにいるとわかり、 祖父は驚きつつも「これから友人とランチをとるから、クラブに来なさい」と言った。しかし、彼は疲れていたこともあり、「午後のティータイムに行くから」と電話を切った。
そして午後、ランジートはクラブへ赴いた。フロントで祖父の名前を口にするや、マネージャーが現れ、深刻な顔で彼に告げた。「ミスター・プリは、先ほど救急車で病院に運び込まれました」と。驚いた彼は、急ぎ、病院へと向かう。
そこで、ランジートは、祖父の旧友のインド系英国人のドクターと会った。祖父とドクターは久しぶりの再会を喜び、ランチをとるべくクラブのレストランのテーブルに席を取った。笑顔で語らいながら、給仕に食前酒を注文してときのこと、祖父の急に表情が陰った。祖父の異状に気づいた給仕が、
「サー、大丈夫ですか?!」
と、声をかけると同時に、祖父はふらりと上半身を揺らしながら、倒れ込んだ。旧友のドクターは、救急車が来るまで応急処置をし、共に病院へと向かった。結局、祖父はそのまま意識が戻ることなく、翌々日に他界。英国の友人らが葬儀を取り仕切ってくれ、ランジートは遺灰とともに帰国したという。
「僕の母も心臓が悪くて、英国の病院で手術を受けた後に他界したんだ。父は以前、自分もロンドンで死にたいと言っていたから、願い通りの死に方だったと思うよ……」と伯父。わたしが夫と出会う、わずか4カ月前のことだ。
断片を聞く限りにおいても、ドラマティックな祖父の人生。一度、お会いしたかった。
★印パ独立前夜の様子を、映画『英国総督 最後の家』で知る
(2017年12月24日のインスタグラムより)
ラジャスターン旅から戻って久しぶりにのんびりの週末。先日購入していたDVD(という言葉が古く感じる)を夫と鑑賞。公開前のトレイラーを見て気になっていたものの、すっかり忘れていたところ、たまたま旅の前に友人2名からこの話題が出て、見たくなったのだ。
『VICEROY’S HOUSE』。邦題は『英国総督 最後の家』。この総督とは、英領インド最後の総督、マウントバッテンのことだ。
実際のVICEROY’S HOUSEはデリーにあったが、映画は、我々が先日滞在したジョードプルの「ウメイド・バワン・パレス」の内部にて撮影されていた。ブーゲンビリアあふれる庭で、わたしがセルフィーを撮った場所を、ガンディが歩んでくるシーンなどもあり、より一層、映像に惹きつけられた。
マウントバッテンは1947年2月に家族とともにインドに赴任。任務は「1948年6月までにインドを独立させること」であった。しかし、彼は着任当初から、独立を急いでいた。「ひとつのインド」での独立を目指すコングレス(国民会議派)のネルーやパテル、そしてガンディ、その他の首脳、そして彼の妻ですら、「焦るべきではない」と提言していたにも関わらず。
彼が「ハレの日」を1947年の8月15日にこだわったのは、ビルマ戦線などで打ちのめされ忌み嫌っていた日本が敗戦した日に重ね合わせたからだったということが、『インド現代史』 ("INDIA AFTER GANDHI"の日本語訳)には記されている。
インド・パキスタン分離独立にまつわる映画では、ベン・キングズレー主演の『ガンディ』が非常に勉強になるのだが、この映画ではまた、異なる側面からの独立前夜が見て取れる。
この映画における主要人物は、マウントバッテン、ネルー(独立直後の首相)、そしてパキスタンの建国を頑なに主張し続けたジンナーであった。
ガンディの登場は少なく、パテル(独立後の副首相で、統一インドの実現のため、全国の藩王国を奔走したネゴシエイター)の存在感もほとんどない。
映画は、VICEROY’S HOUSEで働く従業員らのライフを同時に描いており、異教徒間の恋愛も軸になっている。それまで共に生きていたヒンドゥ教徒とイスラム教徒とが、離れて暮らすことになるに際しての悲劇も描かれており、胸に迫るシーンが多い。
我が夫アルヴィンドにとっては、あまりにも身近な映画だけに、見ていてかなり憂鬱そうだった。
1947年の印パ独立に際しては、1400万人もの人々が、西へ東へと大移動した。人類史上最大の大移動、である。そしてその間に起こった諍いで命を落とした人は、百万人を上回るという。
コングレスの政治家であり実業家であったアルヴィンドの母方の祖父ら一家も、当時は、ラホールからデリーまで移動してきた「難民」であった。
この写真。インディラ・ガンディ首相(ネルー首相の娘)と一緒に写っているのが、夫の祖父である。
祖父は若いころ、フリーダム・ファイターだったことから、ガンディらと同様に、投獄されていた時期もあったという。祖父は独立後、北インドで製糖工場と鉄鋼会社を立ち上げた。その会社は現在、夫の従兄弟が受け継いでいる。
ちなみにその祖父の父親、つまりアルヴィンドの曽祖父は、ラホールで弁護士をしていた。かつて検事だったジンナーとは、宗教の聖地を巡る争いの法廷で敵対したことがあるという。結果はアルヴィンドの曽祖父側の勝利だったらしい。
歴史的な出来事が、現在に連なっている。夫の家族や親戚の背景に、密接に絡み合っているからなおのこと、身近に思えてならない。
最後の最後まで印パ分離独立を叫んだジンナー(写真右端)。彼がもし、ひとつのインドの独立を容認していたなら、今、世界はどうなっていただろう。そんな夢想をするのも虚し。わずか数名の人間が、良くも悪くも、歴史を大きく塗り替えていくことのすさまじさ。
印パ戦争が繰り返され、テロリストの攻撃は尽きず、カシミールの印パ国境は未だに不穏で、負の遺産は尽きず引き継がれ続けている。
その一方で、この巨大な国が、ひとつの国家として、70年以上も存続し続けていることを、「奇跡のようだ」と、いつものことながら、思わずにはいられない。
★モディ政権発足直前、フリーペーパー『シバンス』に寄稿した記事
(2014年4月)
皆さんがこの記事を目にするころは、すでにインド総選挙(下院選)の結果が出ているかもしれない。有権者8億人超、世界最大の国政選挙の投票は、4月7日から約5週間、地方ごとに9回にわけて実施される。この選挙では、BJP(インド人民党)が、コングレス(インド国民会議派)を破り、10年ぶりに政権を握る可能性が高いことから、今後のインドの趨勢に大きな影響を与える総選挙として、海外メディアの関心も集まっている。そこで今回は、インドの二大政党、特にコングレスの歴史をたどりつつ、インドの政治的背景を紐解きたい。
◎コングレスの歴史は、英国統治時代に遡る
通称「コングレス」と呼ばれるインド国民会議派 (Indian National Congress) が産声を上げたのは、インドが英国統治下にあった1885年。当初は、インド総督下で「増えつつある反英勢力の安全弁」としての役割を果たす存在として誕生したが、徐々にインドの自治独立を目指す活動が強まっていった。
初代首相のジャワハルラール・ネルー、副首相のサルダール・パテール、日本とも縁のある独立運動家のスバス・チャンドラ・ボース、パキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナー、そして後に加わったマハトマ・ガンディ(本名はモハンダス・カラムチャンド・ガンディ)は、独立運動に関わるコングレスの主要なメンバーだった。
◎「一つのインド」は実現せず、印パ分離独立
1947年のインド独立に至る道のりは、実に険しい。 数百年に及んだ英国によるインド亜大陸の統治が終焉しようとしていたとき、統一インドの実現・維持を、誰もが不可能だと予測したという。そもそも英国統治以前、インドという一つの国が存在していたわけではなかった。この亜大陸には、500を優に超える大小の藩王国が共存していた。生活文化や主要な宗教の異なる無数の藩が、一つとなって協調することなど、夢物語のようでもあったのだ。
しかしガンディは、統一インドの実現を願い、長きに亘り尽力した。藩王らの説得に際しては、パテールの巧みな交渉が功を奏した。しかし結果的にガンディは、イスラム教指導者のジンナーからの同意を得られなかった。ジンナーは、多数派であるヒンドゥー教の勢力に制圧されることを懸念し、パキスタンの分離を望んだのだ。インド最後の総督マウントバッテンも、印パ分離独立に合意していた。
分離独立にあたり、イスラム教徒が多いパンジャブ地方とベンガル地方が分断されることになった。現パキスタンは「西パキスタン」として、 現バングラデシュは、西パキスタンから1,800kmも離れた飛び地国家「東パキスタン」として独立したのだ。なお、第三次印パ戦争後の1971年、 東パキスタンはバングラデシュとして独立している。
この印パ間の国境をして、インドの人々は「パーティション (Pertition)」と呼ぶ。この分割線が国民に公表されたのは、1947年8月15日独立直後のことだった。故郷の分断を突きつけられた人々は、混乱に陥った。ヒンドゥー、イスラム教徒だけでなく、聖地を分断されたスィク教徒にとっても、受け入れ難い現実だった。
イスラム教徒は東西パキスタン側に、ヒンドゥー及びスィク教徒はインド側に、徒歩や列車で強制移動させられる「大移住」が展開された。その数1,000万人以上。西へ東へと移動する大きな二つの隊列は、時に衝突し暴動が発生。各地で虐殺が起こり、死者は100万人を超えたとされる。
なお周知の通り、カシミール地方の領有を巡っては、未だに印パ間の軋轢が残されている。サティヤグラハ(真理の力)をスローガンに、「非暴力」を訴えて続けてきたガンディにとって、分離独立は悲劇だった。独立の翌年、ガンディは、彼をイスラム教徒に寛大すぎるとみるヒンドゥー原理主義者によって暗殺された。
◎インドの独立記念日と、日本の終戦記念日
インドには、国家を祝する日として、1月26日の共和国記念日と8月15日の独立記念日がある。独立前の1930年1月26日、コングレスはこの日をインドの独立を支持する全国的な集会日に決定。 以来、 コングレスの支持者は、1月26日を独立記念日として祝賀してきた。一方の8月15日。日本の終戦記念日と同じ日なのは偶然ではない。
インド最後の総督マウントバッテンが、8月15日を英国からの権力移譲の日と決めたのには理由がある。第二次世界大戦における連合軍に対する日本降伏2周年記念の日に、敢えて重ねたのだ。日本人としては、インドとの数奇な縁に複雑な思いを抱かずにはいられない。
◎コングレスを牛耳るネルー・ガンディ王朝
1947年の独立以来、一時期を除き政権を握り続けてきたコングレス。初代ジャワハルラール・ネルー首相から続く一族をして「ネルー・ガンディ王朝」と呼ばれるが、このガンディ家とマハトマ・ガンディに血縁はない。ネルーの娘、インディラの結婚相手がフェロズ・ガンディであったことから、彼女はインディラ・ガンディと名乗ることになった。
しかしこの史実には裏がある。フェロズはそもそも「フェロズ・カーン」という名前だったのを、ネルーが敢えて「ガンディ」に改姓させたというのだ。その理由に関しては諸説あるが、いずれにせよ、奇妙かつ紛らわしい話ではある。
インディラ・ガンディはやがて首相の座に就くが、スィク教過激派を排除すべく「ブルースター作戦」を実行した結果、1984年、スィク教徒に暗殺される。彼女の死後、首相の座に就いたのは、政治に関心を持っていなかった長男のラジーヴ・ガンディであった。本来、次男のサンジャイが後継者と目されていたが、飛行機事故で他界したことからラジーヴが政界入りしていた。
彼は政治スキャンダルが原因で1989年の選挙で敗北したが、1991年、スリランカにおけるLTTE(タミル・イーラム解放のトラ)闘争に介入した復讐として、女性自爆者により暗殺される。ラジーヴ・ガンディの妻は、英国留学時代に出会ったイタリア人女性、現在コングレスの総裁を務めているソニア・ガンディだ。彼女は総裁ではあるが、インド人ではないことなどから、マンモハン・シンが首相となった経緯がある。
◎BJPは、10年ぶりに政権を奪還するのか?
1947年の独立以来、コングレスの一党優位体制だったが、ヒンドゥ至上主義の潮流も生まれていた。1980年に発足した Bharatiya Janata Party(インド人民党)は、1998年から2004年までの6年間、ヴァジパイ首相のもと政権を握っていた。当時、インドは高度経済成長を実現、BJPは、“India Shining”をスローガンに政権維持を目指したが、経済成長から取り残された貧困層からの支持を得られなかったなどの理由から、下野するに至った。
その後、コングレス主導の連立政権下にあったこの10年。汚職まみれで私腹を肥やす政治家があふれ、インフレーションが著しい一方、経済成長率は低下、生活インフラストラクチャーの不備、子供の教育の不全、貧富の差の拡大など、社会問題は改善されないままである。この趨勢をして、今回の総選挙では、ナレンドラ・モディ率いるBJPが勝利するであろうと見られている。
BJPが優勢だと予測される理由のひとつに、対抗馬であるコングレスのラーフル・ガンディの「頼りなさ」も挙げられる。ラジーヴとソニアの息子である彼は、モディに比べて政治経験も浅い。
だが、もしBJPが勝利し、モディ首相が誕生したら、それはそれで懸念がある。グジャラート州知事である彼は、過去にイスラム教徒との大きな軋轢を生む事態を引き起こしており、彼に反発するイスラム教徒が少なくないからだ。いずれの結果にせよ、順風満帆に航海が進むとは思えぬ巨大国家インドの潮流。選挙権のない我々異邦人は、この国の行く末を、客観的に見守るしかない。
★歴史を知れば今が見える。『インド百景 2014』ブログより転載
(2014年4月)
昨日は、ミューズ・リンクスの第6回ライフスタイルセミナーを実施した。テーマは、すでに昨年2回行った入門編。インドの概要に始まり、衣食住などについてと、内容は多岐に亘る。
今回は、ここ数カ月の間に、わたし自身の知識が少々厚くなったことに加え、インドが4月7日、すなわち本日から総選挙の投票に入ることもあり、政治や政党のこと、またインド独立に関することなどについての部分に厚みを持たせるべく、資料に新情報を追加しておいたのだった。
過去に行った入門編のセミナーは、一度に20名以上の参加者を募っていた。なるたけ一度にたくさんの人に伝えたいとの思いがあってのことだった。
今回、参加希望ながらも都合がつかない方が多かったこともあり、14名に留まったが、この人数がベストであったと、終えてみて実感した。部屋の人口密度(むさ苦しくない程度)、参加者同士の自己紹介、そして飲食物の準備など、あらゆる点において「ちょうどいい感じ」だった。
今回の参加者は、企業の駐在員だけでなく、駐在員夫妻数組、母娘(駐在員家族)、日本からの出張者……と、多彩な面々。インドに対する知識はみなさんそれぞれで、大きなばらつきがあると見受けられた。
ともあれ、「老若男女問わず」「知っている人にも知らない人にも」楽しんでいただける内容を目指していることもあり、わかりやすく伝えることにつとめた。
セミナーを終えて、今回うれしかったのは、12歳、中学1年生のお嬢さんが、休憩時間を挟んだとはいえ、午後2時から6時ごろまで、延々と続く講座を、興味を持って聞いてくれたことだった。
また、セミナーの前夜にバンガロールに到着された出張者の方が、駐在員の方のアテンドで来てくださったのも、よかった。「初のインド」で一晩過ごしたあと、翌日訪れた場所が、拙宅でのセミナーというのは、自分で言うのもなんだが、ワンダフルなスタートである。
セミナー自体に感銘を受けてくださったのもうれしいことであったが、ティータイムに、ミューズ名物のカステラやタルトを召し上がりつつ
「インドで、こんなにおいしいものが食べられるなんて!」
「インドでおいしいものといえば、紅茶だけだと思ってました!」
と、感激してもらえたのも光栄であった。光栄ではあったが、「紅茶だけ?!」「インド料理はどうなんですか?!」と突っ込まずにはいられない気分でもあった。それはそれである。
ちなみに参加者14名、わたしと夫を含めて16名というのは、「カステラをほどよい大きさに切り分けるのにベストの数」という意味でも、ちょうどいい数なのである。名物カステラ、重要。
◎学ばずして、語るなかれ。と、自分に言い聞かせつつ読む。
インドとは、本当に広く深く、果てしがない。インドに何年住んでも、インド人の家族として何年過ごそうとも、自分の知り得る世界は氷山の一角である。インドに生まれ育ったインド人でさえ、インドの全容を把握し、理解することは不可能なことである。
知れば知るほど、知るべきことが沸き出て来て、それはインド移住当初の9年前から変わらない。とはいえ、書いて、話して、人に伝える仕事をしている者としては、どこかで見切りをつけながら、不確かさを心許なく思いながらも、発信せねばならない。
前回も記したが、ここ20年のインドのあらゆる事象を遡る仕事を行ったことを契機に、歴史を知ることの重要性を再認識した。特にインドが独立する前後の事柄、ガンディが行ったことをより具体的に知っておかねばと思った。
上部写真の分厚い本。これは1947年にインドが独立したころのことから、現代に至るまでがまとめられた本である。著者のラマチャンドラ・グハ氏とは、2007年、ヴィクラム・キルロスカ邸でMITの学長を招くパーティが開かれた際、お目にかかったことがあった。
その後、この本については各方面から勧められていたこともあり、夫が購入していたのだが、夫婦揃って読まずじまい。そのようなことを以前ブログに書いていたところ、同書を日本語訳した方がその記事をご覧になったとかで、メールをくださった。それは、日本語版『インド現代史』が発行されたという旨のお知らせだったが、しばらく購入する機会もなかった。ようやく数カ月前、日本のアマゾンで取り寄せて、分厚い上下巻二冊を手にしたのだった。
実はまだ、上巻の最初のあたりまでしか読めていない。なにしろ、登場人物や歴史的な背景を理解しながら読み進める必要があり、そのために、いちいちネットで検索、情報を得たりしているので進まないのだ。
とはいえ、独立前後のエピソードだけでも、十分に読みごたえがあり、特にインド独立に関わったガンディはじめ、コングレス(国民会議派)の面々についての理解が深まった。
この本を読んだ上で、夫に以前から勧められていた映画「Gandhi」(1983年)を見ることにした。オンラインショップのFlipKartで注文したら、セミナーの前日に届いたので、その夜、大急ぎで見た。
ちょうど『インド現代史』で読み終えていた時代と映画の内容が合致し、登場人物大半が理解できたうえ、以前、ガンディの伝記を読んで知ってはいたものの、リアルにイメージできていなかった彼の南アフリカにおける公民権活動についても、臨場感とともに知ることができた。ともかく、深く心を揺さぶられる、すばらしい映画だった。もっとも、ガンディ中心に描かれているので、周辺人物の人間像が非常に浅薄な印象を受けることは否めない。とはいえ、見る価値のある映画だと思う。
そして改めて思う。このインドという国が、一つの国として(厳密にはパキスタン、バングラデシュと分断されているが)独立し、今に至るまで成り立っていることが、実に奇跡的なことだということを。
この奇跡的なことが起こっている背景には、無数の命が奪われ、数えきれない「不都合」が起こったことも、決して知らずにはすまされないことではあるが。
◎広く浅く、 厚みのある資料。「知りたいこと」を見つけるために
このセミナーは、インドで暮らし働く人々を対象としている。だから、「広く浅く、時に深く」説明しながら、「何を知るべきなのか」を知るための、きっかけ作りができればと思っている。
そんなわけで、資料は厚い。パワーポイントで約100ページ。それを1枚の紙に3ページ分ずつ印刷して配布。メモのスペースを設けておき、書き込めるようにしている。
このセミナーに関しては、文字情報を入れすぎないよう、メリハリをつけている。聞き手が、「これは大切」と感じたポイントを、自らメモしておけるようにとの思いもあり。
◎8月15日にインドが独立した理由。日本との関わり。
『インド現代史』を読んだことで、コングレス(国民会議派)の母体が、イギリス統治下の1885年に結成されていたことを知った。
また1930年の1月26日に、ラホール(現パキスタンの都市)において、マハトマ・ガンディや 初代首相のネルー、初代副首相のパテール、イスラム教徒のムハンマド・アリ・ジンナーらが名を連ねるコングレスが「独立」したことも知った。ゆえに、インドの「共和国記念日」が1月26日だということも。
この本を読んで驚いたのは、インドの「独立記念日」が8月15日に制定されたその理由である。
日本の終戦記念日である8月15日とは、たまたま同じ日だったのだろうな、くらいに思っていた。しかしそうではなかったのだ。それは、インドにおける最後の総督マウントバッテン(マウントバトン)によって、敢えて定められた日だった。
そのあたりの一文を、ここに抜粋する。
1930年ののちも、会議派支持のインド人は、一月二十六日を独立記念日として祝賀した。しかし、最終的に亜大陸から退去するとき、イギリスは一九四七年の八月十五日を権力移譲の日とした。この日付は総督マウントバトン卿が、第二次大戦での連合軍に対する日本降伏二周年記念の日として選んだものであった。総督と権力の座を期待したインド人政治家たちは、一部の人々が主張したように、一九四八年一月二十六日まで待つことを望まなかった。それゆえに、独立は最終的に、ナショナリズム感情よりもむしろ、帝国の栄誉心と共鳴する日に訪れたのであった。
インドの独立記念日に、日本が敗戦した日、「帝国の栄誉心と共鳴する日」が選ばれたという奇妙な縁。なんとも言い難い思いが心をよぎる。
ちなみに独立インドの首都となったニューデリーでは、公式行事は14日の深夜から始められたという。というのも、占星術師が8月15日は凶兆の日と占ったからとされている。
◎存在感のある、夫アルヴィンドの曾祖父のこと。
先週、資料の準備をしていた日のこと、夕食時に夫とインド独立前後のころの話をした。
夫に、「あなたもこの分厚い本を読みなさいよ」と勧めたところ「読まなくても、おじいさんから当時の話は聞いているからいいよ」と言う。もちろん、それでいいわけはないのだが。
夫の祖父は、わたしとアルヴィンドが出会う半年前、1996年1月に他界している。もし今、生きてくれていたら、どれだけ興味深い話が聞けただろうと、残念でならない。
祖父は学生時代、闘争による革命を目指していたが、ガンディの「非暴力」に影響され、サティヤグラハ(真理の主張の意)の運動に参加。ガンディをはじめ他の活動家同様、投獄されたこともあるという。独立前後はコングレスに属し、政治家、実業家として活動をしていた話は聞いていた。
ちなみに祖父が行っていたビジネスは、経営危機に陥っていた砂糖会社を英国から買い取り、一時期はインド最大の製糖会社に育てたことである。インド製糖業者協会の会長を数回に亘って務めたこともあるなど、実に指導力のある人物だったようだ。その企業は現在、夫の伯父を経て、従兄弟が引き継いでいる。現在は砂糖よりも鉄鋼会社として成長しているようだ。
夫の祖父が具体的にガンディやネルーと交流があったと聞いて、俄然、インドの歴史が身近なものに思えてきた。祖父と夫の人格に、共通点が見いだせないところがさりげなく惜しいが、それはそれ。
先日もここで紹介したが、デリーで、祖父とインディラ・ガンディの写真を見つけたので、それを資料にも使った。
このスライドは、今回の総選挙で10年ぶりに政権を奪回する可能性が高いと見込まれているBJP、インド人民党についての説明だ。前述の通り、本日4月7日より、インドでは総選挙の投票が開始された。この先1カ月に亘り、各地で投票が行われる。有権者8億人超、世界最大級の総選挙だ。そんな時節柄、今回のセミナーでは二大政党の背景などについても、詳しく説明したのだった。
ちなみにインディラ・ガンディはマハトマ・ガンディとは血縁でもなんでもなく、ネルー元首相の娘である。彼女はスィク教徒によって暗殺された。彼の息子のラジーヴ・ガンディもまた、テロリスト(スリランカ拠点のタミル・イーラム解放のトラ)によって暗殺された。彼のイタリア人の妻が、ソニア・ガンディである。これら「各種テロの背景」についても、今回のセミナーでは時間をかけて語ったのだった。
さて、アルヴィンドの祖父の父親、即ち夫の曾祖父がまた、祖父を凌ぐ人物だったということを、先日の夫との会話で初めて知った。マハトマ・ガンディとは、同じコングレスに属する者同士として活動してきたイスラム教徒のムハンマド・アリ・ジンナー。彼は、インドの独立を前にして「一つのインド」を切望するガンディの要求、要望を最終的には受け入れず、印パ分離独立の結果を導くことになった人物だ。
だからといって、彼だけに問題があったのかといえば、そうではないだろうところが、歴史である。
ともあれ、「パキスタンの父」として、パキスタンでは英雄でもあるジンナー。彼はかつて、弁護士だった。そのジンナーと、やはり弁護士だった夫の曾祖父は、ラホールでのムスリム対スィク(シク)の裁判「グルダワラ」で戦ったのだという。
結果的には、ジンナーが弁護したイスラム側ではなく、「曾祖父が弁護したスィク側が勝利」したらしい。
この裁判は、アヨーダヤにおけるムスリムとヒンドゥー教徒との諍いにも相当する重要なものだというから、たいへんなものだ。歴史に夫の血縁が関わっていると思うと、過去がぐっと身近になる。
ところでセミナーにおいては、ただその人物を取り上げるだけでなく、その人物の「人間味のある背景」を敢えて説明することにしている。
たとえば、ジンナーは、飲酒をせず、豚肉を食べないはずのイスラム教徒でありながら、実はウイスキーを好み、ハムサンドが好物だったという話。また彼は再婚をしているのだが、二度目の妻は24歳も歳下、しかもパルシー(ゾロアスター教徒)だというスキャンダラスな事実。
イスラム教徒もパルシーも、異教徒間の結婚は厳しくタブーとしている。ゆえに、再婚の後は両家ともに親族と断絶することになったという記録もある。
それにしても、時代を動かす男たちのパワーといったら、すさまじい。仕事をしつつ、プライヴェートもあれこれと。
それは現代の、たとえば浮気で離婚や再婚を繰り返す各国首脳の様子とほとんど同じではある。
パワフルといえば、一見、細くて頼り無さげなガンディ。その彼の体力。彼は人生において幾度か断食をすることで世の暴動を鎮めているが、最後に断食をしたときには、確か76歳だったはずだ。脈拍が遅くなり、血圧が下がって、「死にそう」になりつつも、死なず。
なにより、英国の塩の専売に抗すべく「塩の行進」の記録には驚かされる。500ルピー札にも描かれているその行進で、彼は380キロを歩いたとされている。気になったので調べたところ、歩いたのは実質25日。
380÷25は、約15。当時60歳だったガンディは、一日平均15キロをも歩いていたことになる。しかも一カ月近く。半裸にサンダル履きで、杖をつきながら15キロ。すさまじい。
更に言えば、映画『ガンディ』で、あまりにも忠実にガンディを演じていて驚かされたベン・キングスレーの演技であるが、彼が塩の行進のシーンにおいて、たいへんな「早歩き」をしているのを見て目を見張った。きっと史実に基づいての演技だと思われるが、杖をついて「すたたたた〜っ」と歩くガンディの姿には、実に驚かされた。
◎夫にとっての、祖父の名言とは……。
ところで「蛇足」の話題だが、夫と出会って十数年というもの、夫が祖父のことを語るとき、いつもいつも、繰り返される「祖父の好んでいた話」があった。それはこのような話である。
「世界で一番幸せなのは米国の家に住み、フランス料理を食べ、日本人を妻にすること」。
「世界で一番不幸なのは日本の家に住み、米国料理を食べ、フランス人を妻にすること」。
米国に住んでいたころ、フランス料理を食べているときには、ことさらうれしそうに、この話をしてくれたものである。
祖父や曾祖父のどんな偉業よりも、このどうでもいい感じのエピソードが、夫の人生に大きく影響していることは、言うまでもない。
◎頭を使うと腹が減る。というわけで、飲食重視のミューズ・リンクスなのだ
ミューズ・リンクスのセミナーでは、休憩時間のおやつや、親睦会の飲食物も「目玉」である。頭を使った後というのは、お腹が空くものだ。セミナーのときには毎回、みな驚くほどの食欲で、食べ物が平らげられてゆく。
今回、ティータイムにはカステラのほかに、今年初のマンゴー・カスタードクリームタルト、及びムンバイ発、非常においしい自然派アイスクリーム、Naturalのミルク味とイチゴ味をお出ししたのだった。
そして毎度おなじみ、クールグ産の美味コーヒー、そしてバンガロールの新しいティーブランドSublimeが発売している、香り豊かなティーバッグを数種類。
どれもこれも好評で、カステラは人数分きっちり出していたのだが、残っていたアルヴィンドの分までも食べようとする参加者がいたので、それを制して「カステラの端」を提供。タルトは20個以上あったはずだが、それもすべて消え、アイスクリームも2パック、きれいに平らげられた。
庭などで参加者が交流しつつのティータイム。この30分程度を除き、実質、約3時間半に亘ってセミナーを行った。そして6時ごろになって親睦会のスタートである。
この日の午前中にあらかじめ準備していた料理などを、加熱したりして供する。よく冷えたキングフィッシャー・ウルトラも。まずはこのビールで乾杯し、夜の部に突入だ。セミナーの案内には、控えめに「軽食」と記しているが、最早、軽食ではない。がっつりとした夕飯の域だ。
16名中2名が、親睦会を前に早めに帰られたのだが、残った14名、いや正確には夫を含めた13名が、それぞれにかなりの勢いでお召し上がりに。最終的には10時半まで飲んだり食べたり語ったり……。
夜の部では、インドを離れ、過去の欧州やらモンゴルやらの旅の話なども語り、20代、30代の、若者参加者らの話なども聞き、楽しいひとときであった。
この入門編。多くの人たちに聞いてもらいたいとの思いを強くした一日でもあった。
★ ★ ★
ここまでお読みの方は、マウントバッテンが、いかに日本を憎んでいたかがお分かりだと思う。
彼の遺言には、かつて敵対した日本人の参列を拒否するくだりがあったらしい。旧日本軍に対する憎しみを晩年まで抱き続けていたようだ。
そんな彼の背景を知るべく、ネットであれこれ調べていたところ、日本語のウィキペディアのページで、衝撃の一枚を見つけた。
まだ日本軍と戦う前の1922年。若かりしころの彼は、皇太子時代のエドワード8世の随行員として日本を訪れた。その際の仮装パーティで、人力車夫に扮した姿が残されている。
後年、写真映えを極めて気にして、俳優である友人のアドヴァイスを受け、撮影される角度などにもこだわったという彼にとって、この写真は痛恨の一枚であるに違いない。
日本とインドとマウントバッテン。その奇縁を思う。
★極東国際軍事裁判を描いたドラマ『東京裁判』を見て。
(2016年12月)
真の勉強は、社会に出てからはじまるのだということに気づいたのは、大学を卒業後、上京して旅行ガイドブックの編集者として働き始めたときだ。学んできたことは数あれど、「歴史」の重要性を痛感したのは、1988年の秋、初めての海外取材で台湾を訪れたときのことだ。
なぜ、台湾の高齢者は、流暢な日本語を話すのか。世界史の教科書にあった、「日清戦争」「下関条約」「三国干渉」といった、歴史の中の言葉が、今なお連綿と今に連なっているという事実を突きつけられて、困惑した。
その後、シンガポール、マレーシア、インドネシアなど東南アジアの国々や、中国、モンゴルなど日本以外の東アジア旅するにつけ、「大東亜共栄圏」というものが、どういう世界観だったのか、ということへの関心を高めた。
「八紘一宇」という言葉の解釈ひとつをとっても、それを具現化するための方策は、個々人によって異なるだろう。世界平和を目指していたはずのことばが、海外侵略を正当化するためのスローガンと解釈されている記述もある。
インターネットのない時代である。情報を知るには、書物を紐解いたり、映画を見たりする必要があった。目にした資料、書き手の立ち位置によって、わたし自身の考え方はまた、左へ、右へ、と揺れた。そして今は多分、どちらでもない。ただ、知れば知るほど、善し悪しを判断できなくなる、ということだけは、わかる。
さて、このような話題を書き始めるとまた尽きないので本題へ移る。NHKスペシャルで『東京裁判』という4夜連続のドラマが12月16日より放送された。
NHKの当該サイトの説明を引用する。
---------------------------------------------
70年前の東京で、11人の判事たちが「戦争は犯罪なのか」という根源的な問いに真剣な議論で取り組んだ東京裁判。NHKは世界各地の公文書館や関係者に取材を行い、判事たちの公的、私的両面にわたる文書や手記、証言を入手した。浮かび上がるのは、彼ら一人一人が出身国の威信と歴史文化を背負いつつ、仲間である判事たちとの激しいあつれきを経てようやく判決へ達したという、裁判の舞台裏の姿だった。11か国から集まった多彩な背景を持つ判事たちの多角的な視点で「東京裁判」を描く。人は戦争を裁くことができるか、という厳しい問いに向き合った男たちが繰り広げる、緊迫感あふれるヒューマンドラマ。
【ドラマあらすじ】
1946年の春。東京の帝国ホテルに戦勝国11か国の判事たちが集まった。日本の戦争指導者を裁く「東京裁判」を開くためだ。裁判の焦点になったのは、ナチスを裁くニュルンベルク裁判と同時に新しく制定された「平和に対する罪」。それまで国際法では合法とされていた「戦争」そのものを史上初めて犯罪とみなし、国家の指導者個人の責任を問う新しい罪の概念であった。この「平和に対する罪」を弁護側は事後法として否定する。判事室では各々の判事の意見が鋭く対立、最初は短期間で決着がつくと思われた裁判は、混迷と長期化の様相を見せてゆく。
裁判の舞台裏の攻防に、日本滞在中の判事たちの私的な行動や、周辺に現われる人物の思惑が混じり合う。1948年の秋、ついに11人の判事たちは2年半に及んだ東京裁判の結論となる判決を出すべく、最後の評議の場に臨むのだった。被告たちの生と死が分かれる瞬間。それは、「人は戦争を裁けるか」という、人類の根源的な問いに答えが出されるときでもあった。 極東国際軍事裁判、通称東京裁判を描いたこのドラマをどうしても見たく、ネット上にて公開されている動画を探しだして、珍しく夜更かしをして、一気に見た。「概要として」知っていた現実が、いかに乱暴な要約であったか、ということを、改めて思う。 勝利した連合国によって、敗戦国が裁判にかけられる。不条理すぎるとも思えるその裁判の、判決に至る2年半の物語だ。 このドラマでは、感銘を受ける点が多々あったが、その一つが、裁判の様子。当時の白黒の映像記録を着色し、現在のドラマの映像と色調を合わせ、現実の裁判の様子とドラマとが、絶妙に融合している点だ。 70年前の東條英機が、今、そこで語っているような錯覚さえ起こす。 判事たちが2年半を過ごした帝国ホテルが、フランク・ロイド・ライト建築の当時のまま、主には正面からの外観しか見られなかったにせよ、目にできたのもうれしかった。 東京オリンピックの直前に、大改装された帝国ホテル。それ以前は、関東大震災、そして東京大空襲を生き延びた、重厚なビルディングだったということを、わたしは昨年、知った。ホテル・オークラのロビーが改築されるという残念なニュースを読んでいたときに、ニューヨークタイムズの記事を通してその事実を知り、相当の衝撃を受けた。 なぜ? なぜ誰も止めなかったのか? 今、フランク・ロイド・ライト建築の帝国ホテルがそこに存在していたら、どんなに高価であったとしても、なんとかして泊まりたいと思う人は、世界中にたくさんいただろう。わたしもまた、その一人だ。 この件についてもあれこれ書こうと思いつつ、思いが強くなりすぎて収拾がつかなくなり、書かずじまいだった。せめてその記事のリンクだけでも残しておく。 ◎The End of a Treasure in Tokyo (←click) ドラマの主人公的な役割を担っていたのは、11人の判事の中では最も若かったとわれるオランダのレーリンク判事であった。パル判事と出会ってからの、彼の心の動き、変化などを通して、周囲の「多数派」の有り様が浮き彫りにされる。 米国、英国、ロシア、オーストラリア、フランス、ニュージーランド、カナダのほか、中国、フィリピンというアジアからの判事もいて、彼らの言葉、見解は、ことさらに、胸にしみた。 1話の後半に登場したパル判事の姿を認めて、一気に気持ちが盛り上がった。わたしの大好きな俳優、イルファン・カーンだったのだ。風貌に、ではなく、彼の演技、存在感が、好きなのだ。彼は本当に、すばらしい俳優だと思う。わたしが好きなインド映画の、歌って踊らない系の多くに、彼が出演していると言っても過言ではない。主人公であれ、脇役であれ、味わい深い存在感なのだ。 惜しむらくは、日本語吹き替えになっていたこと。これこそ、字幕で見たいドラマであった。なにしろイルファン・カーンの声が若々しくて、軽すぎた。もっと、落ち着きのある声なのに。 オランダのレーリンク判事をつとめたマルセル・ヘンセマという俳優も、とてもよかった。最後に、東條英機が絞首刑を宣告された時の、彼の表情は、本当に、得も言われず。東條英機の実際の記録映像がまた、あまりにも現在に近くて、時空を飛び越えて間近にある様子にまた、鳥肌が立つ思いだった。 ところで、裁判が終わった後、判事らが全員揃っての記念写真の様子、ドラマ版がこちらだ。動画をスクリーンショットで撮影したもの。 このドラマのよかったところの一つは、最後に、史実の説明や各判事の背景についてを伝えるドキュメンタリーレポートの時間が設けられていたところ。ドラマを通してだけでは分かり得ない史実が解説され、理解が深まる。 パル意見書についで分厚いレーリンクの意見書は、のちにオランダで出版されたようである。 最終回(第4回)の最後、番組説明のコーナーでの、ドイツ、ハイデルベルク大学のケルスティン・フォン・リンゲン教授の言葉が、心に残ったので、引用しておく。 「70年たった今、東京裁判を考えることは、私たちが戦争のない世界をどう構築できるかを考えることにつながります。東京裁判の国際的な研究を通して、ヒューマニズムが進歩し、世界がよりよくなることを望んでいます」 過去は現在と「分断」されるものではない。現在に連なり、歴史を育み続けている。教科書に書かれているものを記憶し知識にするべきものではなく、肌身に感じ続けるものなのだと思う。特に日本を離れて暮らす者にとっては。歴史における日本とインドの関係を知ればなおさら、この国への理解も深まることであろう。まだまだ、知るべきことが多いとの思いを新たにする。読みきれていない多くの書物を、紐解かなければ。 ★靖国神社の遊就館を見学。東京裁判とパール判事について。 日本を離れ、年を重ね、客観的に母国を見るにつれ、そして歴史の断片を学ぶにつれ、他国に干渉される不条理と不愉快。 今日、きちんと手を合わせ、参拝できて、本当によかった。 参拝後、立ち寄った遊就館の、その展示の充実ぶりに、驚かされた。ここでは詳細に触れぬが、ともあれ、日本人であれば、見ておくべき、知っておくべきものが、たくさん詰まっていた。1時間程度ではとても消化できない展示の数々である。折しも行われていた大東亜戦争七十年展がまた印象深く、ゆっくりと時間を取れなかったことが悔やまれるほどだった。 米国のスミソニアン航空博物館で、日本の零戦やエノラゲイを見たときの話は、過去にも記した。ゆえに、零戦の展示については、さほどの衝撃を受けはしなかったが、人間魚雷と呼ばれた「回天」を目の当たりにしたときには、あまりのむごさに、泣けた。 海底深く、こんなものに押し込められて、自爆を強いられた若者ら。どれほどに辛かったことであろう。 無数の展示の中にあっては、ほんの一隅ではあったが、インドを舞台に展開された「インパール作戦」に関する事項も見られた。いつか必ず、コヒマにある日本兵の慰霊碑を訪れたいと思いつつ、幾星霜。 なお、東京裁判(極東国際軍事裁判)において、被告人全員の無罪を主張したインド人のパール判事の顕彰碑は、2005年、ここに建立されたという。 石碑の文字を目で追いつつ、彼の情念が、胸に迫る。 歴史をもっと、きちんと、学ばなければと、今更のように思う。ともあれ、遊就館で購入した図録を、まずはじっくり読もう。
「東京裁判」については、インドに暮らし始めたころだったか、パル(パール)判事の存在を知った。世界各国の判事の中で、彼が唯一、無罪論を唱えたのかと思っていたが、実はそういうわけではなかったということを、このドラマを通して、知った。
後列左端がパル判事演じるイルファン・カーン。そしてその右隣がレーリンク判事演じるマルセル・ヘンセマ。その後、実際の70年前の集合写真が映し出された。
この写真で見る限りにおいて、レーリンク判事、ジュード・ロウに激似、である。
現在も残されている東京裁判の意見書の映像もまた、興味深かった。多数派の意見をまとめ東京裁判公式判決書のほかに、判事が個別に提出した意見書だ。インドのパル判事の意見書は最も分厚い。この意見書(判決書)がまとめられた本(一番上の写真にあるもの)を購入したが、まったく読めていない。
なお、靖国神社にある「遊就館」の入り口そばに、パル判事の碑がある。折に触れて記しているが、イデオロギーはさておき、靖国神社に参拝するかどうかも別として、この「遊就館」へ足を運ぶことをお勧めする。
★関心のある方には、このドラマをぜひご覧になってほしい。
(2016年12月)
今から20年前、東京で暮らしていたころに、一度、ふらりと訪れたことがあった。そのときのわたしは、今に比べ、思うところ浅く、祈るところ浅く。