異国に暮らし、異国を旅するにつけ、なるたけ偏りの少ない視点から、歴史を学ぶことの大切さを実感する。学生時代、日本史にも世界史にも大して関心を持たなかったわたしが、しかし社会人になり、海外旅行のガイドブックを制作する編集者になってからというもの、紹介する国の背景について、学ばざるを得ない状況になった。
初めての海外取材は台湾だった。そして、シンガポール、マレーシア……。どの国にも大東亜共栄圏の面影が残り、第二次世界大戦が身近にあった。
あの初めての海外取材から32年。訪れた国は、多分40カ国を超えているが、どこを訪れるにしても、その国の歴史や文化、イデオロギーなどの背景を知ることが大切だと実感する。背景を知らずして、現在を知ることはできない。
軽やかな観光の楽しみ方を否定するわけではない。しかし、食文化にせよ、芸術にせよ、ライフスタイルにせよ、背景を知ると、よりその国を深く理解することができ、同じ対象を見るのでも、感じ方が大いに異なる。
さらに言えば、その国に暮らすことになったら、あるいはビジネスをすることになったら、表層的な理解だけではすまされない。
インド生活が15年目となった今なお、この広大無辺の国インドをはじめ、国々の歴史に学ぶことの多い日々。
ここ数年のセミナーでは、特に若い世代の人たちに向けて、せめて明治維新以降152年の歴史、概観を、学んでおく方がいいと伝えている。無論、わたし自身、まだまだ勉強不足で、これから学ばねばならないことも多々あるのだが……。
現在の日本。日韓、あるいは日中の軋轢についても、日米の関係についても、何もかもが、第二次世界大戦の負の遺産が、まとわりついている。
……ここでは、8月6日という日に因んでの、過去の記録を以下、転載する。ぜひ、読んでいただきたい。
8月6日。広島に原爆が落とされた日。 まずは2014年の記録から。
ワシントンD.C.に住んでいたころのこと。2004年2月、完成してまもないスミソニアン航空博物館(スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)を訪れた。スミソニアンの博物館群は、ワシントンD.C.市内にあるが、2003年12月、この別館が、ワシントン・ダレス国際空港の近くに新設されたのだ。特に航空機に関心があるわけでもないわたしが、オープンしたばかりのそこに足を運んだのには、理由があった。
エノラ・ゲイを、見たかったのだ。
レプリカではない。広島に原子爆弾「リトルボーイ」を運び、投下したB-29、エノラ・ゲイの「実物」だ。
あの日、目にした光景は、受けた衝撃は、未だに鮮明だ。以来、毎年この日になると、あのとき記した言葉を、そのままブログに転載してきた。今年もまた、この『インド百景』に転載する。ただし、今年は今までとは違って、少し書き加えておきたいことがある。
実は先日、百田尚樹の『永遠のゼロ』を読んだ。戦地からひたすら「生きて帰ること」を望み続けていた、一人の優秀な兵士(戦闘機搭乗員)の話である。死なないために、特訓を重ね、神業のような操縦技術を身につけていた彼が、なぜ終戦間際に特攻隊員として死したのか。その一人の男の生き様を、生き延びた戦友らの証言からたどっていく物語だ。
第二次世界大戦にまつわる史実などの描写については、すでに知っている事柄が多かったが、以下ことは知らなかった。たとえば、神風特攻隊が乗り込んだ戦闘機が「桜花」という名前であったこと、そしてその自爆のための飛行機が、連合国側から、日本語の「バカ」にちなんで、BAKA BOMB(馬鹿爆弾)というコードネームで呼ばれていたことなど。馬鹿爆弾……。思うところ多く、ともあれ、下記に転載する。
なお、太字による文章は、2014年に加筆した部分だ。
思いがけぬほど、その飛行機は大きく、そして美しかった。
そうして、醜くも、忌々しくもなかった。
そのことが、何よりも、衝撃だった。
澄み渡った青空のただ中を、太陽の光をキラキラと反射させながら、
この銀色の飛行機は、飛んだだろう。
そうして、胴体をぽっかりと開いて、新しい爆弾を落とし、
そうして、夥しい数の人々を、燃やしただろう。
あの朝の、空の下の風景を、ここでは知る術もなく、
多分知ろうとする人もなく。
ただ、この飛行機は、半世紀を経て、ナチスの戦闘機や、
日本の戦闘機を睥睨するように。
愛らしいほどの、神風特攻隊の、小さな戦闘機などを。
夫のオフィスはヴァージニア州のレストンという街にある。DC郊外の、新興ビジネスタウンだ。新しいオフィスビルやアパートメントビルが次々に立ち、ここ数年のうちにも、レストランやショップなどが軒並みオープンしていた。
さて、先週の金曜日、夫が通勤する車に乗って、わたしもレストンへ行った。夫をオフィスでおろしたあと、そのまま車でショッピングモールなどに出かけ、買い物をしようと思ったのだ。買い物の合間、思い立って、スミソニアンの航空宇宙博物館に立ち寄ることにした。
そもそもスミソニアンのミュージアム群は、ワシントンDCの町中、連邦議会議事堂やワシントン記念塔などの観光名所がある「モール」と呼ばれるエリアにあり、航空宇宙博物館もそこにある。
ただ、展示品が大きいだけに、多分、モールの館内ではおさまらなくなったのだろう、去年の末、ヴァージニア州にあるダレス国際空港のそばに、巨大な「別館」が完成したのだ。
この航空宇宙博物館については、ご存じの方も多いだろう。ここには復元された「エノラ・ゲイ」が展示されているのだ。日本のメディアでもたびたび取り上げられていたのを目にした。広島県被爆者団体協議会の人たちが渡米し、地元の平和活動家らと共に抗議運動をしたとの記事も、インターネットで見た。
わたしは、もちろん戦後生まれだが、戦争教育はしっかりと受けてきた世代だ。夏休みの登校日には、必ず戦争に関する話を聞かされたり映画を見せられたりした。家族に戦争体験を聞くという夏休みの宿題もあった。
福岡大空襲を経験した担任教師の話も、臨場感があって、とても怖ろしかった。他の授業のことは忘れていても、先生が、防空頭巾を被って焼夷弾の雨をくぐり抜け、溝の中に命からがら避難したという話は覚えている。
「原爆の歌」(ふるさとの町焼かれ、身よりの骨埋めし焼け土に……)とか、「夾竹桃の歌」(夏に咲く花、夾竹桃…… 空に太陽が輝く限り、告げよう世界に原爆反対を)とかいう歌は、今でもしっかりと覚えているくらい、繰り返し歌わされた。
あまりに戦争の話が怖ろしくて、子供のころは夏の入道雲や青空を見るたびに、自分が戦争を体験したわけでもないのに、底なしの恐ろしさや虚無感に襲われることがあった。
体験したことのない戦争だけれど、自分の国(日本)の痛ましい歴史の断片は、確かに刻み込まれているような気がしていた。
ハイウェイをはずれ、わざわざそのミュージアムへアクセスするために施工されたらしき、真新しい道路を走った先に、そのミュージアムはあった。駐車場代だけで、一台につき、12ドルも払わされた。まずはそのことに驚いた。
アメリカの、こんなに土地の有り余った場所で、駐車場代を12ドルも払うとは。無論、スミソニアンのミュージアムそのものは無料だから、多分道路の工事費とかそういうものの赤字を埋めるための、それは駐車場代だろうとも思った。
広大な駐車場の向こうに、巨大なメタリックの建物が、青空に映えて美しい。上空ではダレス空港に飛来する飛行機が行き来している。わたしは、少し身構えるような心持ちで、車を降り、エントランスへ向かった。
エノラ・ゲイ。
わたしの想像の中で、その飛行機は、忌々しく、醜いはずのものだった。罪なき十数万人の命を一瞬にして奪った、残酷な飛行機。それをこれから見るのだと思うと、胸の鼓動が高まった。案内のパンフレットを受け取り、その広大な展示場に出る。
第二次世界大戦のコーナーは、入館してすぐの場所を占めていた。そこで、ひときわ大きく、格好のいい銀色の飛行機が目に飛び込んだ。尾翼に大きく「R」の文字があり、胴体に「82」という数字と星印がある。
その大きな飛行機の周辺に、主翼に日の丸のある日本の戦闘機が数機と、それからナチスのマークが入ったドイツの戦闘機などが展示されているのが見える。
「1941年、日本軍による真珠湾攻撃を機に、米国は第二次世界大戦に参戦した……。」そういう文章で始まる案内を一通り読んだあと、まずは日本の戦闘機を眺める。
※スミソニアンのサイトを調べていて、この戦闘機が、『紫電改』という名であったことを知った。この名前は『永遠のゼロ』を読んで初めて、戦闘機の名前だったということを知った。零戦と並ぶ有名な戦闘機だったらしい。
カネボウ化粧品が「紫電改」という名の育毛剤を発売したとき「変わった名前だな」と思ったが、まさか戦闘機の名をさしているとは、思わなかった。個人的に、受け入れ難い、センスだ。
翼が極端に小さく、飛行機と言うよりは、まるでミサイルみたいに小さな「クギショー」と言う名の戦闘機があった。
それは特攻隊の乗っていたものだという。説明書きには、「終戦までに5000人のパイロットが特攻(Tokko Attack) によって戦死した」と記されている。
※これもまた、『永遠のゼロ』を読んでわかったのだが、この戦闘機の名前は、クギショーではなく「桜花(Ohka)」であった。なお、Kugishoとは、海軍航空技術廠の略、「空技廠」のことらしい。
「機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される」「いわゆる人間爆弾である」と、wikipediaには紹介されている。
さて、エノラ・ゲイはいったいどの飛行機なのだろうと、コーナーをぐるりと回り込んで、息をのんだ。
最初に目に飛び込んできた、あの銀色の飛行機の操縦席近くに、「ENOLA GAY」という文字が記されているではないか。
わたしは、非常に混乱した。
なぜなら、エノラ・ゲイは、醜くも忌々しくもなく、むしろそれは、美しく、格好のいい飛行機だったからだ。しかもそれは、想像していたよりもはるかに大きい。
それは、このミュージアムの大きな目玉、といってもいいほどの存在感だった。勝手に小さな戦闘機を想像していたわたしは、ともかくその大きさにも驚いた。
エノラ・ゲイのそばには、他の航空機にあるのと同様、その機体名と概要、スペックなどが記された説明書きがあった。
Boeing B-29 Superfortress Enola Gay
このB-29というタイプの飛行機が、太平洋戦争でいかに活躍した優秀な航空機であったかが記されている。
そして、1945年の8月6日、この飛行機が最初の核兵器を日本の広島に投下したこと、その三日後に、同じ機種のBockscarと名付けられた戦闘機が、日本の長崎に二つ目の核兵器を投下したこと、そしてそのBockscarは、オハイオ州デイトン近くの航空宇宙博物館に展示されていること、などが記されていた。
原子爆弾によって広島の一般市民が何人死んだかは、記されていなかった。
わたしはエノラ・ゲイの間近に迫り、下から見上げた。全身をジェラルミンで覆われた、軽量で丈夫な飛行機。わたしは、その胴体のあたりを見つめた。あそこの扉が開いて、原爆が投下されたところを想像してみた。
しかし、ずいぶん昔、白黒写真で見たことがあったはずのB-29と、目の前にある飛行機とが、どうしても結びつかなかった。
呆然とした気持ちのまま、今度は階上にあがり、至近距離で操縦席を見た。中の様子が、見えすぎるほどにくっきりと見えた。説明書きによれば、広島に飛んだとき、12人の兵隊が乗っていたという。その様子を想像してみたが、うまくいかなかった。
わたしは、エノラ・ゲイを見た瞬間、自分は憎しみや悲しみに襲われるかもしれないと思っていた。でもわたしは、その機体を見て、それを美しいと感じた自分に、驚き、困惑した。
わたしの周りでは、年輩の男性たちが、熱心にエノラ・ゲイを見ていた。ベテラン(退役軍人)たちだろうか。
エノラ・ゲイを見たら、もう、あとはどうでもよくなった。エール・フランスのコンコルドとか、フェデックスの古い貨物輸送機とか、パンナム航空の飛行機などが展示された商業用航空機のコーナーを横目で見ながら、出口へ向かった。
ギフトショップには、エノラ・ゲイのプラモデルや模型さえもが、売られていた。
わたしは、日本の被爆者団体の人たちの訴えも、平和運動家の訴えも、至極もっともだと思っていたし、共感もしていた。
あの夏の朝、このエノラ・ゲイは、広島の青空を、太陽の光をきらきらと反射させながら飛んでいただろう。それが新型原子爆弾というものを落としさえしなければ、それは、きらきらと、優美に飛来する一機の飛行機に過ぎなかった。
あの日、この飛行機が落としていったおぞましいものの引き起こした惨事を体験している人にとっては、どうしたって、これは忌々しい物体に違いない。けれどわたしは、この飛行機を見ても、憎悪の念が浮かび上がりさえしなかった。
飛行機には罪がない。
当たり前のことだけれど、飛行機には何の罪もないのだ。それは「罪の象徴」かも知れないけれど、でもやはり、罪そのものではない。そのことが、実際に、こうして自分の目で見て初めてわかった。罪は人間が創り上げるものであって、人間の中にある。
核兵器がどんなにおそろしいものか、戦争がどんなに悲しいものか、その避けがたい諍いを、いったいどうすれば避けられるのか、それはいつの時代も、誰かが必ず、問い続けなければならない問題だと思う。さもなくば、世界は、戦争に満たされてしまう。
しかし、この航空宇宙博物館に、原爆被害の展示をするというのはまた、微妙なずれを感じた。航空宇宙の技術や進歩を展示するこの場所において、戦争の被害を展示すると言うことに。
わたしは何か、間違ったことを書いているかも知れないが、これが本音だし、正直な感情だ。
しかし、さておき、エノラ・ゲイは展示されて然るべきであると思う。けれど、エノラ・ゲイがさも、「第二次世界大戦にピリオドを打った英雄」として在るのは、やはり許し難い。
日本は、世界で唯一、原爆の被害を受けた国であると同時に、敗戦国であり、敗戦した国の言い分が、戦勝国において全面的に受け入れられ、正統化されることは、ほとんどあり得ないことのように思われる。
では、いったいどうすれば、核兵器の恐ろしさを、客観的に人々へ伝えることができるのだろう。
この際、日本が「軍事兵器博物館」でも作ればいいのだ。もちろん、現物を展示することはできないだろうから、模型などを展示して、軍事兵器の技術や進歩を見せると同時に、それらの兵器によって、どれほどの人々が、どういう殺され方をしてきたか、を伝えるような博物館。
今、イラクで行われている戦争で使われている兵器や、それらがイラクの人々に与え続けている影響についても、一目でわかるような。
しかし、今、書いているだけで、そら怖ろしい博物館になりそうだと思う。子供が見たら、トラウマになるかもしれない。そうならないように、恐ろしさを伝える方法は、ないだろうか。
ともかく、エノラ・ゲイを見て、わたしは困惑している、ということを、考えのまとまらないまま、しかし今の心境を、ここに書き記しておく。
Smithonian National Air and Space Museum
-Boeing B-29 Superfortress "Enola Gay"
-Kugisho MXY7 Ohka (Cherry Blossom) 22
-Kawanishi N1K2-Ja Shiden (Violet Lightning) Kai (Modified)
戦争反対を叫ぶなら、戦争がどのような状況だったのか、ということを知ることも、大切だと思う。戦争が美化されている云々の意見はさておき、靖国神社の遊就館は、訪れるべき場所のひとつだと、わたしは思っている。
ステロタイプの意見に惑わされず、まずは自分の目で確かめて、感じて、自分の考え方を、自分なりに、生み出すべきだ。他人の意見に便乗するのではなく。
情報が手軽に入手できる現代だからこそ、自分の感性、感覚を研ぎすまし、身体を動かして、肌身で経験することを、厭うべきではないだろう。
■2013年11月:靖国神社を訪れたときの記録 (←Click!)