明日のセミナーの準備で、今までより深く掘り下げたテーマのひとつが「からゆきさん」。坂田はこれまで、インドで、日本で、のべ数百名の人たちを対象に、インド・ライフスタイルセミナー必修編を実施して来た。その都度、「からゆきさん」を知ってますか、と尋ねてきた。知っている人は、毎回、ほとんどいない。聞いたことがあっても実態を知らない人が大半だ。
1974年に『サンダカン八番娼館』という映画が公開された。かなり話題になった。わたしはまだ9歳。その言葉に聞き覚えはあったが、詳細は知らなかった。初めてその実像を知ったのは、23歳の時、ボルネオ島のコタキナバルからサンダカンまでドライヴ取材をすることになり、サンダカン八番娼館を読んだときだ。
そのときの衝撃は、筆舌に尽くしがたい。
家族に、国に売られ、まだ10歳にも満たない子どもさえ、異郷に送られ、やがて「おなごのしごと」=「売春」をさせたれてきた。そんな日本人女性たちが30万人を超えたという。
国のために、家族のためにと、思うも束の間、戸籍は抜かれて完全に身元ごと売られた女性たちが大半だった。
明治維新を経て、日清、日露戦争での勝利。年表を見れば、あたかも乗りに乗っている近代日本の幕開けだが、資料を紐解けば、国民の暮らしが困窮していたことが伺える。わたしは、たとえば夏目漱石の小説などを読んで、その断片を察していた。
昨今、インターネットで情報がたやすく手に入るようになり、当時の一般人の暮らしがいかに厳しく、そして熊本や長崎の貧村から、いかに多くのからゆきさんが、世界各地に売られていったかも、すぐに調べることができる。
からゆきさんによって、外貨を稼ぐため、日本ではお札の肖像に現れるような人物が、裏で支援していたという話もある。
そんな中、タフなからゆきさん女性の話もある。そもそもは、からゆきさんながらも、一度日本へ帰国して、ボンベイで「マッサージ医院」を開業し、マハトマ・ガンディも顧客だった島木ヨシという天草出身女性の生涯。無論彼女も、最後には天草で自害するのだが……。
彼女のことを、今後改めて、じっくりと調べてみたい、ムンバイで、天草で、彼女の足跡を辿りたいとの思いが、強くこみ上げた。
30年前に読んだときとは異なる、思いが諸々、脳裏を渦巻く。
それにしても、これらの関連書籍や資料を読むには、それなりの心の準備が必要だ。精神が弱っているときに読むと、間違いなく、落ち込む。
ボンベイ(ムンバイ)にもまた、明治末期から昭和にかけて、数百人のからゆきさんがいた。駐在員や戦没者ばかりでない。実は多くの彼女たちの魂が祀られているがゆえ、わたしはムンバイを訪れるたび、日本人墓地を訪れ供養塔に線香をあげ、手を合わせている。
明日は、この辺りをなるたけ端折ることなく、説明しようと思う。