西鉄名島駅から電車に乗って3駅。西鉄香椎駅で降りる。母の「補聴器」の具合を見てもらったあと、界隈を散策し、昔懐かしロイヤルホストでランチをとる。
1945年8月15日の敗戦以来、連合国軍の占領下にあった日本。サンフランシスコ平和条約によって、1951年に主権を回復した。ロイヤルの歴史はその年、就航が再開した国内線の「機内食提供」が端緒だ。
初代社長は江頭匡一氏。1953年、ロイヤル中洲本店を開業。大濠公園の湖畔にある「花の木」の前身だ。ちなみに花の木は、パンデミック以前に、家族と何度か訪れてきた。とても雰囲気のよいフレンチだ。
江頭氏の情熱に育まれた新天町のロイヤル。セントラルキッチンやファミリーレストランのパイオニアとしてのロイヤルホスト……と、ロイヤルの話だけで延々と語れてしまう。福岡におけるロイヤルは、高度経済成長期の象徴のような存在だったこともあり。
1984年、今からちょうど40年前。高校を卒業した直後の春休み、わたしは初めてアルバイトをした。それは、今はなき「ロイヤルホスト九大前店」だった。時給430円ながらも、アナログ時代のウエイトレスは、メニュー、料金を全暗記。今よりもかなりタフな労働環境だったが、非常にいい経験となった。
このロイヤルホスト香椎店にはまた、いくつもの思い出がある。最後の記憶は20年前。父が他界した時に利用した葬儀場が、このロイヤルホストの向かいだった。ワシントンD.C.から帰国し、父の屍と対面し、そのまま葬儀店へ移動し、通夜や葬儀の手続きを終え、疲労困憊の深夜、妹と二人でここで遅い夕食をとったことを思い出す。
あのときは、豚の角煮定食を注文した。テーブルに届いた直後、ワシントンD.C.で日本行きのヴィザを手配していた夫から、日本大使館が発行を渋っているとの連絡があり、店の外に出て職員の人と交渉をせねばならなかったことを思い出す。あとにも先にも、あれほどまでに理不尽な対応を受けたことがなかったと怒りさえも鮮明に思い出されるが割愛。
さて、久しぶりにロイヤルホストを訪れたら、メニューのビジュアルに圧倒される。内容は昔を思い出される「洋食」がメインになっていた。40年前、アルバイトの面接を受けた時に店長から江頭氏の理念をいろいろと教わったのだが、その中に「家庭では作れない洋食を提供する」と同時に、「家庭料理には敵わない和食の提供はしない」という話があった。
だから一時期、和食メニューが入った時には、江頭氏の思いは継承されなかったのだなと感じたものだ。
メニュー構成についても語りたいところ多々あるが、この辺にしておく。母はハンバーグを、わたしは懐かしのコスモドリア……と思ったが、シーフードドリアにした。想像していた以上においしく、二人とも完食した。
ところで、創業者である江頭氏のストーリーは非常に興味深い。産経新聞の「私の履歴書」の連載(1999年)を読んで、わたしは感銘を受けたのだった。
今、探したところ、ロイヤルホールディングスのホームページにてシェアされていた。外食産業に関わる方はもちろんのこと、日本の高度経済成長を支えた一人の実業家の生き様に興味のある方は、是非ご一読を。
私の履歴書/江頭匡一
https://www.royal-holdings.co.jp/co/story/
やれやれ、わたしといえば、現在、疲労困憊でそろそろ寝ようかというときに、何をロイヤルホストの話題を書き込んでいるのだろう。いや、思うところあれこれあったので、これもまた現実逃避か。文字を綴ることは、わたしにとって瞑想のようなものでもあり。文章が支離滅裂かもしれぬが、ご容赦を。
さて、ランチのあと、母は一足先に帰り、わたしは自分の用事をすませたあと、腹ごなしに母校の香椎高校まで散歩する。新しい校舎ができていたが、旧校舎も残っている。卒業してちょうど40年。女子バスケ部の部室があった2階を眺めたり、嫌というほど走った運動場を眺めたり……40年が巡り巡る。
部外者なのに校舎をうろうろしたら、すれ違った体育会系男子らから、「こんにちわ〜!!」と元気よく挨拶されたので、どこぞの先生のふりして「こんにちわっ!!」と挨拶を返した。爽やかすぎてたまらん。
「国語の教師になって、母校に戻ってきたい」との夢を抱いて卒業した40年前。米国経由でインドに暮らす未来が待っていようとは。なんてこったい。
人生は、喜劇だ。
この先はもう敢えて、悲劇を消し消し、ひたすらに喜劇を綴り、演じ続ける。
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