昨日、ソウルを離れ、福岡へ戻ってきた。わずか1時間半のフライト。バンガロールからムンバイへ飛ぶような気軽さで、出入国も速やかに、5泊6日の韓国旅は幕を閉じた。
旅の最終日だった一昨日。わたしはグループを離れて自由行動をした。
旅の2日目に、みなで訪れた景福宮の東側のエリア、すなわち三清洞(サムチョンドン)や仁寺洞(インサドン)の界隈を、ゆっくり歩きたかったのだ。李朝時代に栄えたこのあたりには、[Korea 05]ですでに紹介した通り、昔ながらの建築物が残っている。今なお、そこに暮らす人々もある中、新しい店舗も点在し、まさに新旧が混沌と、共在している。
1988年11月。わたしが社会人になって初めての海外取材先は、台湾だった。1987年に戒厳令が解かれ、1988年1月に蒋経国が他界し、同年7月に李登輝が総統に就任した直後。近畿日本ツーリストが発行していたガイドムック(ブックとマガジンを掛け合わせた造語)の『台湾の本』を出版するための取材旅行だった。
あの過酷すぎたスケジュールと、歴史の重さと、情報の途轍もない広がりに、23歳のわたしは超絶に翻弄された。あの取材が、わたしのキャリアの原点であり、「世界を見る眼」の萌芽でもあった。
朝鮮半島よりもさらに長い期間、1895年から1945年までの50年間を日本に統治されていた台湾で見たこと、経験したことの密度の高さは、筆舌に尽くしがたかった。今まで無数の土地を訪れてきたが、異国でありながらも、日本人としてのわたしが深い郷愁を感じる国は、その台湾と、そしてここ韓国以外には、ない。……と、今回の旅を終えて、実感している。
韓国ではしばしば、「胸がいっぱい」になる瞬間があった。
歴史については思うところ多く、わたしは右も左もなく、白も黒もつけない。若いころには右左、揺れて揺られたころもあったが、今はただただ、中庸だ。だって、歴史は語り手によって、いくらでも塗り替えられる。ただ一つ言えるのは、「異文化への敬意」を忘れないこと。自分がそれを肝に命じていれば、おおよそ、友好は育まれる。
わたしは、この5泊6日の韓国旅で、出会う人、出会う人、本当に親切にしてもらった。わたしは職業柄もあって、どんな旅先でも(日本を含め)、出会う人とは何かしら、軽く世間話をしつつ、お店のことや、商品のことなどを尋ねる。小さな一つの質問が、認識を大きく覆したり、新たな発見を与えてくれたりすることが、多々あり、見識が深まる。
この日もまた、何人もの人たちと言葉を交わした。ほとんどの人が、一般的な日本人と同じくらいに英語を話さない。だからゆっくりと、簡単な単語での交流だから話は浅いが、それでも、伝え合える。
朝鮮半島の職人なくして、日本の名窯の歴史はない。ゆえに、韓国ではどうしても、陶磁器を買いたかった。釜山でのマグカップのほかに、伝統的なキムチ壺の「ミニチュア」を買った。わたしが手に持っているのがそれだ。店主曰く、これは蓮の蕾を模しているのだという。
我が夫の名前Arvindは梵語で「蓮」を意味することもあり、その名にちなんだ事象にはひときわ敏感につき、迷わず買った。
その店の女主人、そして常連客らしい女性とは、しばらく会話を楽しんだ。常連客が英語が堪能で、アカデミックな雰囲気を湛えていた。
「ご出身はどこですか?」と尋ねると、笑いながら言葉を濁したので、「秘密なんですね」と返したら、「そうなの」と笑って答えた。彼女はインドへも福岡へも訪れたことがあるらしく、会話が滑らかに進む。室内でも、帽子を目深に被られた、美しい女性。ひょっとすると、著名人だったのかもしれない。
その後、彼女におすすめのティーハウスを尋ねたところ、伝統的な「韓屋(ハノク)」が連なる北村八景にある店を勧められた。足を運べば、奇しくも「蓮華亭」とある。そしでわたしは、同店おすすめの「ロータス・リーフティー」を注文。干しミカンの茶菓子と共に、味わった。
喫茶の様子は、台湾の茶藝館の風情とよく似ている。韓国のお茶文化もまた、深く広いということの片鱗を、今回の旅で実感した。
……尽きない。この日の写真はまだ残しておきたいので、次に続く。
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