先週は本当に、のんびりと過ごした。週末は新居にて。久々の新居は、まだ周辺ヴィラの建築が遅々として進まず。クラブハウスも未完成。こちらメインのライフは、いつになったら実現するのだろう。
かつてはこのプロジェクトをして、「バンガロールのサグラダファミリア」などと冗談めかして言っていたが、バルセロナのリアル・サグラダファミリアは2026年に完成予定。本気で、いい勝負になってきた。やれやれ、長生きせねばな〜。
かような旧居と新居の2拠点ライフも2年半。この宙ぶらりんな暮らしにもすっかり慣れてしまった。とはいえ、あっちでもこっちでも福岡でもデリーでも、片付けばかりをしている気がする。たった一人二人の人間が暮らすのに、どうしてこうも、「家事」は尽きぬか。
🇰🇷
ところで、先月の韓国旅は、「心の旅」「魂の旅」でもあった。その後の壱岐でもまた。幼少時に名島の海岸から望んだ玄界灘のその向こう。20歳のときに初めて太平洋を一気に超えて米国へ飛んで以来、この身近な「海外」を訪れることはなかった。
今、旅を重ねた挙句の、原点回帰ともいうべく旅をしている間ずっと、心は覚束なく彷徨っていた。特にインドの友らと旅をしていたせいもある。
わたしは、バンガロールに家があり、夫がいて、そこが拠点で、そこで出会った友人らと韓国に来ている。しかし、わたしの故郷福岡はここから目と鼻の先。人々は、わたしをして、インドから来たとは思わず、「親しき隣人」の体(てい)で、フレンドリーに接してくれる。
🇯🇵
果たして、わたしの帰る場所は、どこなのだ?
すでに記してきた通り、我が故郷の界隈は、わたしの幼少時からの面影をほとんど残さず、新しい街に変わってしまった。懐かしい情景は脳裏のなかに巡るばかり。
そんな矢先、壱岐島を訪れて心が満たされたのは、豊かな自然や、昔ながらの情景が、たぶんあまり変わらずに、残っているからであろう。福岡ではなく長崎ではあるけれど、日本における我が第二の故郷にさせてほしいとさえ、今は思う。
🇮🇳
そんな混沌の思いを抱えつつ、成田からバンガロールへ戻る。デカン高原の風に吹かれれば、たちまち、ここが「ただいま」の場所。囚われることなく自由に。
帰る場所。そこはわたしが定まれし処。
結局はすべて、わたしの心一つなのだろう。
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……ところで、先月のサントリー主催の「着物ファッションショー」開催に際し、わたしに声をかけてくれた、バンガロール・ファッション界の第一人者Prasad Bidapa氏。彼が後日、ファッションショーについてDeccan Herald紙に記事を書いていた。
わたしが過去1年間に集めた母の着物を含む中古ながらも高品質な着物や帯、羽織のことなどや、インドと日本のテキスタイルのつながりなどについて、言及している。とてもすばらしい記事を書いていただいて光栄だ。わたしの写真はないが、わたしの浴衣や母の羽織、父の浴衣、中古で買った銘仙の羽織を着たモデルの写真が美しく掲載されている。
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記事の最後を見て苦笑した。Designer: Miho Sakata Malhan というクレジットが入っている。わたし、デザイナーだったっけ? 社会人になって、編集者になって、それからライターになって……以来、さまざまな仕事を兼業してきた。かつては、広く浅くあれこれやる自分に対し、「絞り込めない弱み」を感じていた。「器用貧乏になるな」と言われたこともある。
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器用貧乏/なまじ器用であるために、あちこちに手を出し、どれも中途半端となって大成しないこと。また、器用なために他人から便利がられてこき使われ、自分ではいっこうに大成しないこと。(三省堂 新明解四字熟語辞典)
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実に嫌な言葉だ😅
30歳で渡米したころ、「器用金持ち」になってやる。と、思った。
無論、わたしはこれまで、「お金」に執着をしたことはない。「やりたいことを実現するための資金調達」には心血を注いできた。この二つは全く異質だ。お金について語りたいことは多々あるが、ともあれ。
人間、いろいろな個性がある。わたしは、あれこれやってみたいし、そこそこ、多様なことをそつなくこなすことができた。だから、肩書きがばらついていても、それはそれでいい。面白いではないか。
他者から見えるわたしと、わたしから見えるわたしはまた、異なる。これからも、自分がおもしろいと思うことを、たいせつに、続けていこうと思う。
着物ファッションショーに参加された女性ライターもまた、別の新聞にて取り上げてくれている。参考までに記事のリンクを貼っておく。
◉Celebration of Japanese textile heritage and sustainable fashion
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