飛行機が着陸態勢に入り、徐々に高度を下げて行くと、奇妙な形の岩山が見えてくる。人間が立ち入った様子の見られない、ゴツゴツとした凹凸のある山頂が、間近に迫る。西ガーツ山脈 (Western Ghats)の一端、だろう。
やがて、辺り一面に、まるでブロッコリを敷き詰めたような緑の大地が広がる。そのブロッコリは、川辺や海岸にまでせり出していて、果たして人が寄り付けるのかどうかさえ、定かではない。目を凝らしてみても、ぎっしりとひしめき合うブロッコリに隙間はなく、人間が介入した形跡を確認することはできない。
数分の間、その荒っぽい自然の景観を眺めているうちにも、二千万人以上の人間がせめぎあうように暮らす半島が見えてくる。
「ボンベイ」と呼ばれていた時代もあった都市、ムンバイ。
そこここに、高層ビルが見えてくる。
ぐっと高度を下げた飛行機は、薄汚れたパッチワークの布が敷き詰められているかのような、重なり合うスラムの屋根屋根を掠めるように降下し、着陸する。駐機場に停められた飛行機から外へ出れば、たちまち熱気に包まれる。湿気を含んだ、独特の熱い空気。
ムンバイの匂い。
ジェットエアウェイズの、フライトアテンダントの黄色いジャケットが、青空に映えてまばゆい。
わたしが初めてこの地を訪れたのは、2004年4月。まだ米国に暮らしていたころのことだった。
当時は、将来の住まいをインドに移すであろうことを予測はしていたものの、確定はしておらず、夫の出張に便乗して訪れたわたしは、「果たして、インドに住めるだろうか」という視点で、この街を眺めもした。
ネット上に漂う、当時の記録を読み返せば、初めて訪れたこの街に対し、相応の衝撃を受けながらも、印象を淡々と、客観的に記しているように思える。
宿はあのときと同じ、ムンバイの最南端、コラバのアポロ・バンダー地区にあるタージ・マハル・パレスに予約を取っている。今回の旅は、わずか2泊3日。しかし、仕事でもなければ、夫の出張に便乗でもない。自分のための休暇である。自分だけのために、時間を使える。
実は、旅の前々日、思いがけず体調を崩した。土曜の未明から嘔吐を繰り返し、軽い脱水症状となってしまい、その日は一日ぐったりとしていた。症状は食中毒に似ていたが、食事に心当たりはない。夫も同じものを食べていた。しかし、思い当たる節はいくつかある。数週間前より接種していた狂犬病ワクチンの副作用、更年期障害、盛夏の気温上昇による疲労、ちょっとした、精神的なストレス。
今思えば、そのいずれもが、少しずつ作用して、一気に襲って来たようにも思う。夫は旅の延期を勧めたが、このタイミングを逃しては、また次がいつになるかわからない。むしろ不調はリラックスをするためのいい理由になる。張り切って街歩きなどすまい。ゆっくりとホテルで過ごそう。そう判断し、まだ完全に復調していないものの、月曜の朝、バンガロールを発ったのだった。
2008年の年頭から2009年の終わりにかけての約2年間、我々夫婦は、この街にも、暮らしていた。コラバから更に南に位置するカフパレードと呼ばれるエリアだ。
バンガロールとの二都市生活をしていた当時、1軒の家でさえ、管理をするのはたやすくないインドにあって、双方に使用人を抱え、諸々を託し、行き来していたことを思うと、我がことながら、よくやっていたと思う。
気候という点においては、バンガロールに比してムンバイは、非常に暮らしづらかった。特に蒸し暑いモンスーンの時節には、部屋のなかが熱帯雨林のように湿潤し、冷房よりも除湿機能が欲しかった。一日に何度もシャワーを浴びたものだ。
2001年9月11日。結婚して数カ月後の我々夫婦。わたしはニューヨークに、夫はワシントンD.C.郊外に暮らす「二都市生活」をしていた。ちょうど、わたしが夫のいるワシントンD.C.の自宅に滞在していたとき、この二都市を襲った同時多発テロが発生した。
アパートメントの窓から、どす黒い煙を上げるペンタゴンを眺めながら、テレビに映るワールド・トレードセンターが、力なく崩れ落ちてゆくのを眺めながら、深く怖れ、未来を憂いた。
あのテロが契機となり、結婚後もニューヨークを離れたくないがあまり、別居していた自分を顧み、人生の優先順位を大きく変更して、夫と一緒に暮らすことに決めた。
ひと言で語るには尽きぬ、それはもう無念の思いで、しかしニューヨークを離れた。あのころの、「執着」のような情念を、今では懐かしくも愛おしく、思える。あれほどまでの、感情の動きを。物事に執着するにも、相応のエネルギーが要る。
その後の、ワシントンD.C.での「平穏な暮らし」が、しかしどうしても、受け入れられず、諸々の出来事を経て、インドに暮らしてみたい、という心境に至った。
夫を巻き込んでの、あれは1年余りにも亘っての、インド移住計画だった。思い返せば本当に、わたしはと言えば、自己中心的で、しかし壮絶なエネルギーを持っていたと思う。あのとき、まだ米国に未練があった夫を引っぱりこめた力は、すさまじかった。
インドが好き、というわけでもなかったのに。
ただもう、理屈抜きの「勘」で、行き先を決めていたように思う。尤も、今にして思えば、それもまた、自分自身の経験から育まれたものであったに違いないのではあるが。
2008年11月26日。夫と京都の旅を楽しんでいる最中だった。朝、何気なくテレビのスイッチを入れ、BBCニュースから流れる映像を見て、言葉を失った。
ムンバイの、カフパレードのアパートメントの窓から、毎日眺めている、見覚えのあるキューポラ。その、タージ・マハル・パレスホテルのキューポラが、煙焔に包まれている!
それから先の旅はもう、心、ここにあらず。錦市場を歩きながら、おいしそうであろう食べ物を目にしながら、何を口にしても味わうこともできず、茫然とする思いだった。
自分の身近で起こった2つのテロは、わたしの心に、静かに、強い決意のようなものを、育てたように思う。それを言葉にすると、いかにも安っぽくなってしまうのであるが、ともあれ、自分自身の、世界を見る目、が、変わった。いや、変わったというよりは、新しい視点が、増えた。
現在の自分は、常に過去の経験の、延長線上にあり、生き方も、考え方も、日々の有り様も。中でも突出している事象の中に、これら二つのテロは、含まれている。
あの日、多くの人々が血を流し、命を落としたこのホテルに、なぜ、敢えて訪れたいのか。
それをまた、ひと言で語るのは困難であり。
この街に住んでいたころ、町歩きの最後に必ず立ち寄ったのが、ここだった。エントランスのドアを開けた途端、涼しく澄んだ空気、芳しい柑橘の匂いに包まれ、覚醒した。ここに入ることができる自分でよかった、と心の底から思った。
旧館のSEA LOUNGEに赴き、インド門、そしてアラビア海を望む窓際の席に座る。コーヒーを飲みながら、1時間でも、2時間でも、やがてあたりが暗くなり、街頭が灯り始めるころになっても、ひとり過ごしていられたものだ。
ムンバイに到着したわたしは、予約していたタクシーで、北ムンバイにある空港から、バンドラ・ウォルリシーリンク(ラジヴ・ガンディ・シーリンク)を渡り、南ムンバイへ向かう。
シーリンクを下りてまもない場所にある、日本山妙法寺、そしてそこから少し離れた場所にある日本人墓地。今回は、日本人墓地にのみ、詣ることにした。
日本山妙法寺、とは、個人的に深い関わりがある。祖母、そして父と連なる記憶がそこにはあり、そこから連なる日本人墓地もまた、わたしにとっては、足を運ばずにはいられない場所、となってしまった。
そのことについては、過去にも縁のある写真を含め、何度か記している。ぜひこちらも、目を通していただければと思う。
■1年ぶりのムンバイで、100年前の日本人を思う。 (←Click!)
日本人墓地は、アンベードカルの影響を受け、ヒンドゥー教から仏教に改宗したのであろうダリットの人々が暮らす住居の裏手にある。折しもアンベードカルの生誕記念日を翌日に控え、周辺は彼の姿を映したポスターが随所で見られた。
アンベードカルは、インド独立直後の政治家であり、思想家であり、またインド憲法の草案を作成した人物である。そもそも、ヒンドゥー教社会におけるカーストの最下層に位置するダリット(アンタッチャブル/不可触民)の出自であった彼は、インドにおける仏教復興運動を行ったことでもよく知られている。
晩年、カースト制度による身分制度から脱するべく、約50万人ものダリットの人々を率い、仏教に改宗した。
日本人墓地は、フォーシンズホテルの、道路を挟んで斜向い、住居ビルの裏手にある。折しも給水車が訪れ、住民らが水の配給を受けていた。水道が自由に使えない。人口の約半数に上るスラムをはじめ、基本的な生活インフラストラクチャーが整備されていない場所に暮らす人が大勢の、この都市。
いつもは、墓守のおばあさんの住まいであろうバラックの傍らの貯水槽から水をもらい、お墓を清めさせてもらうのだが、そうだ、この水は、汲んで来なければならないのだと思うと、申し訳なくなり、バケツにほんの半分だけをいただき、お墓にかけた。
途中、露店の花屋で買い求めたブーケを、飾る。
日の丸を思わせる赤と白の花を、いつも選んでしまう。
からゆきさん。
子供……。
刻まれた名前。没年齢は、みな、若く。
ミューズ・リンクスのセミナーで、インドの入門編をするときには、インドと日本の歴史を語る際に必ず、この日本人墓地についても触れている。
しかし、語る対象の大半が、「からゆきさん」を知らない。そこから説明せねばならない。自分が、歳を重ねたことを実感するひとときでもあり、また、できる限り伝えなければならないことの一つであるとも思う。
日蓮宗の藤井日達上人。
異郷の地で拝めることの有り難き幸せ。
南無妙法蓮華経。
墓守のおばあさんたちと、お堂の掃除をする。蜘蛛の巣を払い、埃を払う。
訪れるたびに、天地逆さまになっているので、正しく立てかけるのであるが、おばあさんにもお願いしているのであるが、いつも、逆さまになっている。
どなたか、訪れる方あれば、気づいたら、正しくたてかけていただきたいと、わたしがお願いするのも筋違いのことであろうが、思わずにはいられない。
いつも、木陰の下で、風に吹かれながら、ひとときを過ごさせてもらう。
ホテルへ向かう前に、軽くランチをとることにする。目的地は、やはりいつもと同じ場所、Good Earthの中にある、Tasting Room。
ムサンビ(スイートライム)のジュースと、マッシュルームのリゾットを頼む。
ゆっくりと、咀嚼しながら、これまでここで食事をしたときのことを、思い返してみる。
最初は、ひとりだった。
次は、夫と、だった。
友人夫婦や、クライアントとともに訪れたこともある。
最初のころは、昔、マンハッタンに住んでいたころに好きだった、ABCカーペットのカフェに似ている、と思った。それも1996年から97年にかけての。
しかし今では、そういう全てが、遠すぎて、比較をするにも、回想するにも、脳裏の中だけで、虚しく懐かしく。現(うつつ)に同じ光景はなく。
食事を終えて、ホテルへと向かう。アラビア海を望むマリン・ドライヴ。久しぶりに見る、海。
チェックインのときに出すID。マハラシュトラ州の運転免許証。この街に住んでいた2009年2月に、取得した。ニューヨーク州の運転免許証を持っていたので、書類の手続きだけで、取得することができたのだ。
その免許証も、今年の誕生日の前日に切れる。今度はここ、カルナータカ州の免許証に切り替えなければならない。
まだまだ先のことだ、と思っていた期限を、何度、更新して来たことだろう。免許証、クレジットカード、パスポート、グリーンカード……。
ニューヨークの運転免許証の次の更新は、2022年。57歳。きっと、すぐに来てしまうのだ。
部屋で荷物をほどき、いつもの、クールグのコーヒーを煎れて、一息つく。ここ数年はもう、どこを旅する時にも、ファミリーフレンドのラナが厳選し、丁寧に焙煎し、そして挽いてくれたこの、南インドのアラビカ豆のコーヒーを、持参している。
こんな風に、一つの銘柄に拘ることなど、久しくなかったのであるが、このコーヒー豆は別である。それから、ORGANIC INDIAのTULSI MASALA CHAI。このティーバッグも、もう何年も、わが旅の友、である。
初めてここを訪れたときから、まるで「儀式」のように、同じ場所から、同じような写真を撮っている。
折に触れ、過去の、ムンバイの記録を見返すたびに、「同じような写真ばかり撮っているな」と、我がことながら、苦笑してしまう。それだけ、気に入っている光景、でもあるのだろう。
マッサージの間は、眠ることなく、気持ちよさを実感したいと思うのだが、この日はもう、かつて全身麻酔を打たれたときよりも速やかに、深い深い眠りに落ちた。
途中で、裏返しになったときと、フェイスマッサージをしますか、と尋ねられたときしか覚えておらず、気がつけば、瞬時に1時間が過ぎていた。
「本当に、マッサージをしてくれたのですか?」
と、問いかけたくなるほどに。
暑さは和らぎ、湿気を帯びた海風もまた、心地よくさえ思える。
何が欲しいとか、何が見たいとか、そういうことではなく、ただ、歩いて、立ち寄ってみる。
顔なじみの給仕が、丁寧に、サーヴしてくれる。顔なじみ、だけれど、特に言葉を交わしたことはなかった。
「あなたは、シンガポーリアンですか?」と、尋ねられる。
よく、間違えられる国籍の一つ。
以前、このテーブルの花は、黄色いバラ、が定番だった。わたしの好きだった色、黄色。しかし、あのテロ以降、わたしが知る限りにおいて、ここに飾られる花は、白、である。
この、オールドウイングの回廊に飾られている花もまた、わたしが知る限りにおいて、あの日以来、白一色、である。
ワールドトレードセンターが崩れ落ちたあと、大好きだったマンハッタンの夕暮れの、摩天楼に反映する夕日が、哀しみを伴わずには見られなかったのと同じように。
この白い花を通して見上げる、この独特の回廊は、未だに、哀しみの霧が、静かに降り注いでいるようでもあり。
1903年に創業して以来、110年を超えているこのホテルの、歴史の重みを、思う。
もしも病み上がり、でなければ、きっとなじみのいろいろな場所へ、足を運んだことだろう。
しかし、今回は、無理をするのではなく、ひたすらリラックスしようと決めて来た。だから本当に、ほとんど、ずっと、ホテルで過ごした。
何かを書く、ということも考えていたのだが、何一つ、書けなかった。邪念だらけで、脳内は混沌の極みであった。
ヘッドマッサージを受けているときも、スパ・ペディキュアを受けているときも。
寝ているときと、読書をしているときだけが、無心、だったような気がする。
そうして、とりとめもなく考えているうちにも、わかったことは、
こうして、日常を脱して、ひとりきりの時間を持つことの大切さ。
それを、知ってはいたけれど、忘れたような気になっていた、気がする。
いろいろな問題点のなかの、切に改善すべきことが、混濁の中から、静かに、ゆっくりと、浮かび上がって来るようでもあり。
今、やりたい。
今、すべきだ。
という、衝動があるうちに、動かずして、得られるものはない。
まもなく50歳の節目を、今年ばかりは、さりげなく通過してはならない。きちんと、考えて生きなければと、切に思う。だからこその、こうした、個人的な記録でもあり。
いつものわたしなら、決して選ばない色の靴を、店の人の勧められるがままに。
自分にも。2枚も。これもまた、店の人の勧めを振り切って、自分の思う色を。
レイトチェックアウトを頼んで、最後にビューティサロンでペディキュアを。
爪が痛むので、久しくエナメルは塗っていなかったのだが、久しぶりに。しかも、今までなら決して選ぶことのなかった色を、勧められるがままに。
色彩溢れるインドでヌードカラー、違和感があるけれど、むしろ流行っているのだろうか。
チャッパルと、おそろいのような、色。
思えばファッション雑誌などさえ、開かなくなって久しく。
短編しか読まず、数カ月、放置していたこの本を、読めたことも、何より、よかった。
近い過去、遠い過去を思いつつ、時間旅行をするかのようなひとときを過ごす中、まさに時間の流れを丁寧に紡ぎながらのこの、小説。
本当に、いい。
ジュンパ・ラヒリの過去の作品をまた、読み返してみようと思う。過去の作品は、時間をかけて、原本で読んだ。日本語訳で読むよりも、ずっと時間がかかってしまうけれど、もう一度、原本を読み返してみよう。
折しも、偶然にも、この滞在は、11年前に初めてムンバイを訪れ、初めてタージ・マハル・ホテルに滞在した日と、重なっていた。そんなささやかな偶然にも、意味を見いだしてみたくなるような、小さな旅。
世間から見れば、たいそう元気に見られる我であるが、「個人的な比較」においては、決して芳しくないここ数年。
そういう、お年頃、である。
まだしばらくは、万全なる体調とは言えない、いくつものトンネルをくぐり抜けねばならないような日々が続くことだろう。
しかし、あと何年かすればきっと必ず、乗り越えて、かつてよりも、もちろん今よりも、ずっと軽やかに、動ける日が来るに違いない。
そのときのためにも、今、できることを、静かに、着実に、大切に、育んでゆく。
風を切り、全速力で走れたころは、それが当たり前のことだと思っていた。
わが魂の住処、この身体を、大切にしてやらなければ。