金曜日の午後、マンハッタンを離れ、フィラデルフィア入りした。
この街を最後に訪れたのは、インドを離れた年だから10年前のこと。当時暮らしていたワシントンD.C.から、フィラデルフィア・ミュージアムで開催されていたサルバドール・ダリ展を見に行ったのだった。
あのエキシビションは、すさまじくすばらしいものだった。あの展示と同じ内容を、不可能だとわかっているが、また見てみたいと思う。
1996年5月に、1年間の語学留学予定でニューヨークに渡ったわたしは、ともかく英語力をつけることだけに専心するつもりだった。20代の東京では、いろいろと、ありすぎた。仕事はともかく、恋愛事情も非常に問題が多く、30歳にしてすでに「わたしはもう、結婚することはないだろう。自分自身を磨いて生きるのだ」と考えたりもしていた。
渡米からわずか2カ月後の7月7日。日曜日の夜だった。
そのころ、日本人青年をルームメイトにアッパーウエストサイドの安アパートメントに暮らしていたわたしは、ブローウェイ沿いのリンカーンセンター前にあった大型書店、BARNES&NOBLEのスターバックスカフェで勉強をするのが日課だった。
独立記念日の連休最終日だったその日も、いつものようにカフェへ赴いた。込み合った店内で唯一見つけ、相席させてもらったその席の向かいに座っていたのが、アルヴィンド、わが夫である。
半年後には一緒に暮らし始めた。
1997年、わたしはミッドタウンの日系出版社に現地採用で働いていた。夫はまたミッドタウンにあるマッケンジー・カンパニーに勤務していた。二人で自宅を出て、マンハッタンを闊歩して通勤していた短くも懐かしい時期。
1998年。わたしは前年に起業していたミューズ・パブリッシングから、自分への就労ヴィザを発行できたのを機に、独立した。
最初の年は、それでなくても不安定な状況であるのに、一緒に暮らし始めていた彼が、ビジネススクールに進学することになった。わたしは果たして、一人で家賃を払うことができるのか。
一緒に暮らしていた当時、もちろん家賃は折半していたとはいえ、事実上、夫の暮らしていた高級アパートメントに転がり込んでいた状態のわたしである。自分には、その物件を借りるに際して必要なステイタスがない。
同じビルディングの最も廉価なステュディオを彼に借りてもらい、彼に家賃を払う形で引き続き暮らしを始めた。思えば諸々、乱暴なことをしていたものである。
廉価とはいえ2000ドル。自分に就労ヴィザを発行した以上、自分への給与も払わなければならない。最低限に設定したとはいえ、年間25,000ドル。そのうち3割以上はタックスに消える。クライアントがついて複数の収入源が確保できるようになるまでの、綱渡りっぷりといったら、なかった。
夫は1998年から2年間、フィラデルフィアにあるWHARTONに通い始めた。勉強勉強の日々で、非常にタフだった。それでも週に1度は会いたがる彼。二都市の間を、幾度となく行き来したものだ。
わたしはと言えば、まだまだ仕事も不安定、経済的にももちろん不安定。そんなぎりぎりの生活の中、この街に夫に会いに来ては、掃除や料理の作りだめなどしつつ、まるで家政婦状態でもあった。
まだ、結婚してもいなかったのに。
いろいろあった。もう、この人とは付き合えない。無理。もう別れる。そんな致命的な事件が起こったのも、この街が舞台だった。
諸々、苦くも懐かしい。そして、よくもまあ今日まで、続いてきたものだと思う。
お互いさま。
思い返せば、そのひとことに尽きる。
罵詈雑言の限りを尽くし、大げんかの絶えない我々の大人げなさは、未だに健在だったりもして、自らの成長のなさが残念だったりもするけれど、ともあれ、よくも19年間、ともに過ごしてきたことよ。
年に一度のニューヨーク旅で、他都市まで足を伸ばすのは3年ぶりのこと。ワシントンD.C.以来だ。かつてはカリフォルニアへ飛んだことも幾度かあった。同じ国でも西と東。異国に飛ぶほどに、遠い。
今回は、夫の同窓会に参加するため、フィラデルフィアで2泊。その後、夫の知人を訪ねたりしつつ、郊外の田舎ドライヴ旅を3泊4日で楽しみ、マンハッタンに戻る予定だ。
本当は、フィラデルフィアまではアムトラック(鉄道)で赴き、郊外ドライヴだけ車を借りる予定であった。しかし、旅の数日前、アムトラックが大きな脱線事故を起こしてしまった。それもフィラデルフィアで。8名が亡くなり、200名以上が負傷するという大惨事となっており、ニューヨークーフィラデルフィア間の便はまだ復旧していなかった。
そんな次第で、急遽レンタカーを借り、全行程を車で移動することにしたのだった。
マンハッタンを出て、ニュージャージー・ターンパイクに移るべくリンカーントンネルを目指すのだが、このわずか20ブロックが大渋滞。フィラデルフィアまでは2時間とかからない距離なのに、マンハッタンを脱出するのにすでに40分ほどもかかってしまう。
渋滞で身動き取れない車の間を縫い歩く歩行者。マンハッタンでの運転は、人を傷つけないようにするのが最優先事項。ともかく、信号無視をする人々が、車に向かって飛び込んでくる感じ、なのだ。
ようやく、トンネルの入り口へ。ここからハドソン川の底を潜って、対岸のニュージャージーへと渡るのだ。
ニュージャージー側から眺めるマンハッタンもまた、すばらしいものだ。かつて、muse new yorkというフリーペーパーを発行していたときのこと。阿呆のように2万部も刷って、マンハッタン、その他郊外の日本料理店など日本人が出入りする店に、置かせてもらいに配達に出かけたものだ。
重い段ボール箱を抱えて車に積み込み東奔西走。企画、取材、写真、執筆、編集、デザイン、印刷手配、レイアウト……。すべてを一人きりでやっていた。我がことながら、非常にパワフルな働き者であった。よくもまあ、あそこまでフットワーク軽く動けたものだと感心する。
仕事で得た利益を、フリーペーパーの出版に使い切る。あれは仕事ではなく、趣味の世界だったのかもしれない。
ともあれ、配達をしながら、道に迷って途方に暮れてしまったときなど、「わたしはいったい、何をやっているのだろう」と幾度となく自問したものである。
ニュージャージーでの配達ついでに、このハドソン河畔の眺めのいい丘の上で車をとめ、マンハッタンの光景を眺めつつ休憩するのが大切なひとときでもあった。
無数の窓のなかの一つで、わたしは、小さく小さく、しかし確実に、息づいていた。
2時間どころか、3時間を過ぎてようやく、デラウエア川を渡りフィラデルフィアへ。ハイウエイの随所で速度が落ちたのは、アムトラックの事故のせいで交通量が増えていたせいでもあるだろう。
ホテルは市内のマーケットストリート沿い。散策にも便利な中心部だ。夜、夫は友人らと飲みに出かけるというので、わたしは同行せず、一人で過ごすことにした。翌土曜日は、ランチピクニックとディナーパーティに同行する。
家族も参加できるセミナーなどが実施されているが、今回は一人で街歩きなどを楽しもうと思う。
ウォルナッツ・ストリート(くるみ通り)とか、チェスナッツ・ストリート(栗通り)とか、かわいい名前が付いた目抜き通りを歩く。かつてはなかったお洒落なお店が増えていて、特に飲食店の向上が目覚ましく。
夫が住んでいた当時、こういうスーパーマーケットなどがあったら、料理の作り置きなどせずにすんだのに……などと思う。当時は夜遅くまで開店しているのはWAWAと呼ばれるコンビニのような店しかなくて、そこで唯一おいしいと思えるのはバナナマフィンくらいのものだった。
米国の独立にまつわる由緒ある建物などが少なくないこの都市。独立のシンボルである「自由の鐘」(リバティ・ベル)もまた、ここにある。
新しい店が散見されるものの、古い佇まいのストリートに味わいがあり。
乱暴な工事現場。インドかと思った。インドの「麺」みたいな鉄筋とは異なるけれど。
一人の夕飯は軽めに……と思っていたところ、こんなところでSHAKE SHACKを発見。比較的良質の肉を使っているらしい、ハンバーガーの店である。
ハンバーガーとフライ、そしてビール。デング発症以来、控えて来たアルコール。まだワインは飲んでおらず、ビールを軽めに半〜1杯程度にとどめている。そのせいか、1パイント飲み尽くさぬうちに、酔いがまわってしまった。エコノミカルすぎる。
ハンバーガー、ビーフの風味が濃厚で、チーズの香りもほどよくて、とてもおいしかった。
食後も街をしばし散歩。くるみ通り沿いにあるこの高層アパートメントは、夫が暮らしていた場所。あのころに比べたら、すてきなお店も増えていて、街歩きが断然、楽しい。
一時期は、昔ながらの小さな書店を席巻して、全国各地に無数の店舗を展開していたこの書店も、今は閉店に次ぐ閉店。マンハッタンでも、数えるほどしか見られなくなってしまった。
時代は流れる。
それは仕方のないことである。
さて。
ここ数日は曇天らしきフィラデルフィア。せめて雨が降らないで欲しいと願う。