今日は夫とランチの予定だったが、またしても急なミーティングだという。こんなことなら、一人でMOMAにでも出かけ、ミュージアム内のカフェでゆったりとランチでもとればよかった……と思うが仕方ない。
インドで10年のキャリアを積んだ夫にとって、昨年は大きなディールを達成したことや昇格したことなどが重なり、辛酸をなめることの多かったインドでの日々において、ようやく努力が実を結んだ年でもあった。
ゆえに、今までのニューヨーク滞在とは異なり、ビジネスのチャンスも増え、会うべき人が芋づる式に現れてくるようで、それはうれしいことである。
インドでの最初の数年間は、決して彼が自身の実力をフルに発揮できる環境ではなかったが、年齢を重ね、経験を重ね、いい方向に向かっているのだということを、そばで見ていて、そう思う。なにしろ出会ったとき、わたしは30歳。そして彼は23歳。若かった……。
時に戦い、時に争い、時に責め合い……と、未だ喧嘩が絶えず、ごく稀に仲良くしつつの、実に大人げない夫婦であるが、これからもずっと、一緒にやっていくのだろうな、と思う。
さて、そんな次第で、ではランチは寿司でも食べに行こうと思う。
昨日、散々「電車は乗り間違えないように」などと書いたくせに、49丁目のロックフェラーセンター界隈で下車する列車に乗る予定が、うっかり急行に乗ってしまい、40丁目界隈のポートオーソリティまで来てしまった。
列車を降りて、脱力。なんで? なんでなの? バカなの? と自分に突っ込みを入れつつ、また電車を乗り換えるために別のホームに移動して待つのも面倒になり、結局は歩くことに。
ランチは寿司田でちらし寿司を。純和風の寿司が楽しめる安定の店だ。ものすごくおいしい、というわけではないが、いつ訪れても同じクオリティが提供されているので、安心感がある。
これまでも何度となく、一人ランチに訪れている店だ。カニカマとたくあん以外は、おいしく平らげた。それなりにきちんとした寿司屋でカニカマはないよな〜と、いつも思うのだが、どうなのだろう。
ランチのあとは、53丁目の5番街近くにあるバカラ・ホテルへ。クリスタルのバカラ、である。今回、初めて訪れる場所だ。
ホテル内にあるグランド・サロンへ。天井が高く、なんとも言えず居心地のいい空間。こんな場所があったとは、知らなかった。たちまち、気に入ってしまう。我が家の照明と同じテイスト、即ちわたし好みの空間だ。
実はここで、「初めてお会いする方」とお茶をしたのだった。
在米21年、グラフィックデザインの仕事をされている日本人女性。わたしがニューヨーク在住時に発行していたフリーペーパー、muse new yorkを愛読され、また当時発行していたメールマガジンの読者でもいらっしゃった方。数カ月前にFacebookを通してご連絡をいただいていたのだった。
彼女が待ち合わせ場所をいくつか提案してくれたのだが、その中からこの店を選んだ次第。来てよかった! と思える、居心地のいい空間だ。
muse new yorkは、当時まだ、日本語のフリーペーパーが少なかったニューヨークにおいて、広告が少なく記事が充実した、かなりクオリティの高い冊子だった。敢えて自分で言うが、それはもう、心を込めて作っていたがゆえ。
3カ月に一度の季刊誌で、1万部、刷っていた。取材、執筆、編集、デザイン、印刷手配から配達に至るまで、すべて一人でやっていた。もちろん、外注するだけの予算がなかったからというのもあるが、自分ひとりでどこまでできるのか、やってみたかったというのもある。
当時はDTPが一般化し始めたころで、アップルコンピュータを購入し、クオークエクスプレス、Photoshop、Illustratorなどを独学で勉強し、猛スピードで身に付けた。なにしろ、のんびりやっている暇はなかったから。
思い返せば、あのとき奮発して当時かなり高スペックのコンピュータを買ったはずだが、思い返せばハードディスクが2ギガバイトしかなかった。メモリじゃなくて、ハードディスクが。
このあたりの話、思い出を語り始めると長くなりすぎて終わらないので割愛。
ともあれ、経済的な余裕がなかったにもかかわらず、利益にはならないところに情熱を注いで投資していたのは、今思い返せば、自分の原点だなとも、思う。
お金を稼ぐことはもちろん大切だし、そのあたりはシビアにやってきた。自分の仕事の能力を図る、収入は一つの目安にもなる。しかしその一方で、「自己実現」のための活動は、どんな形であれ、どんな表現方法であれ、続けていけることは幸せなことだと思う。
彼女がmuse new yorkを2冊、持って来てくれた。15年以上も、捨てずに持っていてくださっていたことが、うれしい。
落ち着いた空間で、2時間ほどゆっくりと、おしゃべりを楽しんだのだった。
その後、ちょうど界隈で打ち合わせを終えた夫と合流。ホテルまで、共に歩く。
「そういえば、昨日、変なことがあったんだよ!」
「なに?」
「昨日、新しいシャツを着てミーティングに行ったんだけどさ。夜、シャツを脱いで気づいたんだけど、一日中、タグをつけたまんまだったんだ!」
そういいながら、大笑いする夫。
なにがおかしいのか。なにが変なのか。それは「weird」ではなく、単に自分がいい加減というか、注意力散漫というか、おばかなだけだろう。
改めて公私のギャップの著しき男である。ある意味、退屈しない。退屈したいくらいだ。
帰路、ワインショップでスパークリングワインを購入。ソノマのワイナリーのBRUT。BRUTながらもドライすぎず、ほんのりフルーティ、ほのかな甘みがあって、やさしい味。おいしい。
なにしろ昨今のニューヨーク。飲食店の値段のあがりっぷりには、驚かされる。料理もさることながら、グラスワインが1杯15ドルやら18ドルやらするのだ。10ドルを切っているメニューは、今回一度も見ていない。
しっかり飲みたいなら、取りあえず「部屋飲み」である。よく冷えたスパークリングワインで、ほどよく、ほろ酔いだ。
ところで昨日、夫は3つのミーティングがあったが、ランチタイムに会ったのは、米財界でも一線で活躍する遠縁の男性。ペプシコCEOのインディラ・ヌーイの実弟だ。彼は米国経済の近未来に恐ろしくネガティヴで、経済情勢についても、非常に悲観的だったとのこと。
ニューヨークだけを見ていると、物価高で、あたかもバブル景気のような華やかさを見せているが、この国の経済格差はじめ諸々の問題点を、間接的に聞かされるにつけ、なにがなんだかよくわからなくなる。
「米国の状況は、日本よりも悪い」という例を具体的に挙げられても、言葉と数字の意味を理解できる能力を持ち合わせていないので、さっぱりわからない。
さっぱりわからないが、お腹がすいたので、夕飯に出かけることにする。といっても、酔っぱらって遠出をする根性がないので、ホテルの1階にあるレストランへ行くことにする。
今日は、シマシマではない。到着して数日はパシュミナを巻くほどに寒かったが、今は暑い。夏だ。パルーシーの刺繍が施されたお気に入りのシルクのストールが、役に立つ。
相変わらず、うまくいかないセルフィー。なぜわたしの視線は、お門違いの方向を見つめているのだ? どこを見ればいいのか、いまいちよくわかっていない。
ムール貝の殻をピンセットのように使って身を取り出して食べる。遠い昔、ムール貝料理の本場、ベルギーで習った食べ方。
ベルギーのムール貝料理は、本当に、おいしかった。
食後、腹ごなしに近所を散歩。かつて住んでいたアパートメントビルディングへ行ってみることに。
最初はわたしたちが誰かをわからなかった彼も、徐々に記憶を取り戻し(?)、お久しぶりですと握手を交わす。
そもそも寡黙で無愛想だったお兄さんだが、今もその雰囲気は変わらず。お兄さんからおじさんには変わっていたけれど。
このビルディングで火災が起こった日も、彼がここにいた。4名もの住人が亡くなったあの日のことを、今でもつい最近のことのように思い出す。
そもそもは、大学を卒業した直後、マッケンジー・カンパニーに勤務していたアルヴィンドがルームメイトとともに暮らしていたのが、このビルディングだった。
最初の住まいは2ベッドルームの14Nだった。その後、わたしが転がり込む形で二人して1ベッドルームの11Mヘ。転がり込むとはいえ、もちろん、家賃は折半。フェアな同棲であった。が、ここに暮らすには、それなりの経済的なバックグラウンドがあることを証明できるものがなければ、入居できない。
その後、夫がフィラデルフィアのMBAに進むべくニューヨークを離れたとき、わたしはステュディオの18Cに移ったのだが、それが可能だったのは、夫の名義で借りていたからだ。
結婚前のことである。もちろん、家賃は全額、自分で支払っていた。が、夫がいなければ、当然ながら、ここには住めていなかった。わたしのニューヨークでのキャリアも、夫なしでは実現しなかった点が多々あったのだということを、改めて思い出す。
さて、夜も11時を過ぎたころ、夫はコロンバスサークルにあるジャズクラブに出かけるという。散々誘われたが、わたしはもう、夜遊びをする根性がなく、一人で行ってもらった。ずいぶんと、楽しかったようだ。
観衆の中にはミュージシャンも多く、途中から外野がステージに上がってのセッションもあったりするなど、ずいぶんとフレキシブルに楽しいスタイルらしい。
わたしはといえば、12時過ぎにはベッドに入り就寝。残りわずかのニューヨーク滞在。最後まで、元気に過ごしたく、無理はしないのである。
ともあれ、今日もまた、違う角度から過去を紐解く出来事のある、味わい深い一日であった。