静かな、日曜日。今日のランチタイムには、義姉スジャータとその夫ラグヴァンが訪れた。彼らとこうして、しばしば顔を会わせ、語り合い、食事をする時間を持つようになって、それが数カ月後のデリー移転によってかなわなくなると思うと、少し寂しい気がする。
デリーには、義父ロメイシュや義継母ウマがいて、彼らとは頻繁に会うことになろうけれど、やはりスジャータやラグヴァンとの方が、会話をするにも気安いというものだ。世代が同じだし。
今日は、日頃は話すことのない話題を、今日は少し尋ねた。結婚以来、我が家周辺では無縁だった、カースト制度のこと。持参金のことなど。
「へえ〜、そうなの?」
と驚いて聞くのは、わたしだけでなく、アルヴィンドも。18歳でこの国を離れ、米国で過ごした故、知らずしても仕方がないことだ。
さて今日は、少々、重い話題を。
■義理家族に、焼き殺される妻がいる。
我々が渡印する直前のこと。ペルーに住んだ経験のある日本人の知人から聞いた話。
彼女曰く、日本に出稼ぎに来ているペルー人男性と恋に落ち、婚約、もしくは結婚をしてペルーに渡る日本人女性が多いという。彼女らの中には、男性の故郷であるところの貧しい農村部に連れて行かれ、屋根もないような家に住まわされ、お金もパスポートも奪われ、日本へ帰国するにも帰国できない人がいるとのこと。
具体的な数字は確証がないので記せないが、ともかくそのような環境下にある日本人女性の数は「半端ではない」らしい。彼女曰く、パスポートもお金もなく、従っては飛行機に乗ることができないにもかかわらず、空港で惚けたようにたたずむ日本人女性が実在するそうだ。
その話を受けて、質問された。
インドにも、インド人と結婚したものの、たとえば山村に送られ、帰国するにできない状況に追い込まれた人がいるのではないかと。
正直なところ、わたしはそのような話は聞いたことがない。ただ、表面沙汰になっていないだけで、しかし有り得ることかもしれない。
インドでは「一般に」、婚姻の際、嫁側の家族が、「恐るべき高額の持参金(ダウリー)」を婿側に提供するのが慣習となっている。持参金は、現金ばかりでなく、最新の家電や車など、「形あるもの」で贈られることもあり、その総額は、嫁側の父親の年収の10倍、20倍になるそうだ。
婚姻時に、婿側を満足させるだけの持参金を払わなければ、以降、継続的に「催促」され、「支払い」を要求されることもある。要求に従わない場合、嫁は「いびられ」「いじめられ」「体罰を与えられ」、場合によっては、「殺害され」る。
殺害の手段は一般に、焼殺。キッチンで調理中の事故、あるいは焼身自殺を装い、殺す。
ところで、米国在住時代。購読していたThe New York Times紙のInternationalのセクションは、海外の「奇習」や「妙な文化」を好んで取り上げていた。かつて、そのセクションにおいて、インドの「焼殺事件」の件、及び「高額持参金」の件に関する記事が出ていた。
それを見た夫は、「こんなニュースは、今時、ごくごく稀に過ぎないのに!」と怒っていたし、わたしもそう思っていた。しかし、どうも、そうではないらしい。
上の写真の書籍。今、まだ読みかけではあるが、この小説の主人公の義妹もまた、キッチンにて焼死するのである。
この現象について、もう少し知りたいと思い、「インド」「持参金」をキーワードにGoogle(日本語)で検索したところ、19,900件がヒットした。それらのごく一部を走り読んだところ、この持参金を巡り
(1) 妊娠段階で女児とわかった場合は中絶する。させる。あるいは出生後に殺害する。
(2) 持参金を稼ぐために、臓器売買を行う。
といった事態が起こっていることがわかった。(1)を裏付けるものとして、インドにおける女性の数が、男性よりもかなり少ないことが挙げられている。具体的な数字はここで挙げないが、ご興味のある方は、ご自身でリサーチされたい。
(2)の「臓器売買」に関しては、今まで全く知らなかった事実を、こちらの論文で学んだ。「臓器売買 −インドの事例−」と題されたもので、「メディカル朝日・1995年11月号」に掲載されたとのこと。粟屋剛氏ご本人に、リンクの承諾を得ているので、ご興味のある方は、ご覧いただければと思う。
なお、ここでの臓器売買は、中南米諸国などで多く見られる、「誘拐、殺人により、臓器を獲得して売る」というものではなく、「本人が、報酬目的で自主的に臓器を売る」ケースである。
これは無論、「持参金目的」だけでなく、貧民らが「貧しさから逃れたい」、「まともな暮らしをしたい」という願いのもと行うケースも多いようだ。
ところでインド政府は「結婚持参金の禁止法」を制定しているとのことだが、実際の効力はないのであろう、今日も、女性たちは持参金と言う抑圧と闘っているようである。
■持参金って……? 普通じゃなかった我々のケース。
そこで気になるのが、わたしの身の上。思えば、米国時代から、日印カップルの友人らは何組もいるにも関わらず「持参金払った?」という話題になることはなかった。だから、他の日本人女性がインド家族に、幾ばくかのお金を払ったのかどうか、まったくわからない。
だから、我がケースだけを公開するに、日本家族からの持参金は「ゼロ」だった。というか、むしろ「マイナス」だったとも言える。
詳細はホームページのインド結婚式を見ていただければわかると思うが、そもそも、結婚式はインドでするつもりはなかったのが、インドですることになり、「こぢんまり」のつもりが、「やや大きめに」なったという、なあなあの経緯がある。
結果的に、まさかインドに来ないだろうと予想された我が日本家族が来ることになり、たいそうな一大行事となってしまった。
そもそも、小さくまとめようと思った理由は、「国際結婚」故、どちらの文化をも強調せず、さりげなくでいいかも、という思いがあったことと、日本父が当時、肺がんを患っていて、抗がん剤治療を受け、一時的に回復していたものの、夏のデリー訪問など、無理だろうと思われたからだ。
インド家族は、父の病に同情したこともあってか、結婚費用はもちろん、日本家族4名のホテル代その他、すべて用意してくれた。加えて、デリー市内観光ツアー、タージマハルツアーまでも催行してくれたのである。
無論、日本家族が、「持参金払います」といえば、拒まなかっただろう。でも、そのころのわたしは、インドの持参金文化のことなど、「これっぽっち」も知らなかった。いや、特に追求することなく「気づかないふりをしていた」ような気もする。従ってはなんの負い目を感じることもなかった。
今ようやく、「あれ、わたしたち、厚かましかったかも」と、ちょっとだけ、思う。だいたい、「末期がん患者」という割に、無闇に恰幅がよく体格がよく、食欲も旺盛で、インド家族の誰よりも健康そうに見えた父。
初めてマルハン実家での晩餐会に訪れた折は、しょっぱなから「食欲全開」の父で、スジャータから、「ミホ、これは前菜だから。メインはこれからだからって、お父さんにお伝えして」と言われたエピソードは、いまだ忘れがたく。
「持参金を払いたくないがための仮病」と間違われても無理はない状態だった。
実際のところ、父親は事業に失敗した上に、末期な肺がんになってしまい、わたしに持参金を持たせる経済的余裕など全くなかったから、催促されても無理だったのだけれど。
というか、「持参金を催促するような家族だったら、わたしは絶対に結婚していなかった」というべきであろう。
更に言えば、「同居を要求」したり、「子を産め」と圧力をかけてきたり、その他「いろいろややこしいことを要求する」ような家族だったら、決して結婚していなかった。そんな面倒に巻き込まれるくらいなら、一生独身の方がいい。
つまりは、我々夫婦の愛というのは、その程度のものである。そういう荒波を乗り越えてまで結ばれたいと思うような、我々にパッションはなかったと、断言できる。することもないけど。
なにしろ、アルヴィンドはまだ20代だったけれど、わたしは36歳になろうかという歳だったわけで、「一生、結婚することはないかも」という状況も、非常に現実的だったのだ。
さて、我々は結婚前、5年間も付き合った。その長さをして、世間は、「親御さんの反対とかに遭ったんでしょ?」と同情の言葉をかけてくれるがさにあらず。
「僕たちの結婚が遅くなったのはね、僕がね〜、独身時代を伸ばしたかったからなんだよ〜ハッハッハ!」
と本人が言う通り、ただアルヴィンドが、決断したがらなかっただけである。毎度毎度、結婚の話題が持ち上がるたび(わたしが持ち上げるたび)「僕はまだ若い」「僕はまだ若い」を繰り返していたのである。あなたは若かろうけれど、わたしはそう、若くはなかったのよ。
日本家族も、インド家族も、反対どころか、後押しするくらいの状況だったのに。
さて、我々が付き合っていた5年の間に、わたしはインド家族、親戚、その他、夫を取り巻く主要な身内には何度も会っており、彼らが忌むべき文化をわたしに要求することは有り得ないとわかっていたから、安心して結婚したのである。
更には、わたしは、夫とその家族を信頼しているからこそ、「インドに住みたい」「インドに行こう」という心境に達したわけで、彼らなしでは、インド移住は、当たり前だが考えられなかった。
何度も書いたが、わたしは「アルヴィンド・マルハンの妻」という立場において、インドに移住したいと思った訳で、インドに惚れて、一人ででもいいから、ここに住みたいと思った訳ではない。たとえば農村に嫁いだりなんて、ありえない。
わたしにインド農家の嫁をできるはずもない。
わたしのインドに対するパッションとは、その程度のものである。
なんだか話が大きくそれてしまった気がしないでもないが、我が家のケースが特殊であることを、この際、書き記しておきたかった。
というのも、「インド人と国際結婚をするかも」という人たちから、しばしばメールや相談を受け、正直なところ、困っているのだ。結婚にまつわるケースは千差万別。ホームページやブログに記していること以外で、アドヴァイスできるような何かがあるわけではない。
自ら、じっくりと、検討していただきたいのだ。
我が家のような「しがらみ希薄」な「気ままインド一族」は、ごく稀なのだ、ということを、理解した上で、わたしの経験を参考にしすぎないでいただきたい。
■改宗して即結婚。さもなくば、即刻、別れろ。金なら払う。
つい先日、夫が米国人の友人とランチをとった。彼はこの地に駐在している独身男性で、インド人のガールフレンドを持つ。彼らは我が家のパーティーにも訪れたことがある。
その彼らが、今、危機に直面していると言う。彼らは現在、同棲しているのだが、インドの他地方に住んでいる彼女の母親が、遊びにくることになった。
彼は大急ぎで荷物を整理してクローゼットに押し込み、しばらく不在にしておいた。そもそもインドにおいて、結婚前の女子が男と暮らすなど、論外なのである。
彼女はうまく隠しおおせたと思っていたのだが、近所のおばさんが、彼女の母親に、「白人の男と住んでるよ」とちくったらしい。そこで大騒ぎ。
彼女の父親がやってきて、彼に向かって言った。
「君が、僕の娘にいったい、いくら使ったのかしらない。ともかくその金額を教えてくれ。そうしたら、僕はその100倍を払う。払うから、即刻、娘の前から消えてくれ。もしも、どうしても消えたくないのなら、いますぐ改宗して、娘と結婚しろ」
ものすごい、二者択一である。しかし、100倍っていう大げさなところが、妙におかしい。先日の、コカコーラのCMみたいだ。
ちなみに彼女はムスリム(イスラム教徒)、彼はジュイッシュ(ユダヤ教徒)である。聞いてるだけで、たいへんそうである。そこで、彼はどうしたかといえば、まだ「悩み中」なのだとか。夫曰く、
「彼、いますぐには結婚したくないんだって。付き合って2年もたつらしいけどね。結婚すればいいのにね〜」
自分のことは棚に上げて、すっかり人ごとである。
「アルヴィンド。自分がもし、わたしの父親に同じ条件をつきつけられてたらどうするの? 改宗してた?」
「問題ないよ。僕、別に宗教、ないし(一応ヒンドゥー教徒ではある)。愛を貫くためには、それくらいはするよ!」
ああ。書きながら恥ずかしい。
言うまでもないけど、彼は本気ではない。有り得ぬ。
こんな調子のいい男である。だからやはり、我々のような軽いケースは、稀なのである。
■有事の際に逃げ込むなら、米国大使館。
今日もまた、話が長くなった。が、これだけは、厭味のように、書いておきたい。冒頭のペルー在住経験のある知人は、また、こうも言った。
日本に帰りたくても帰れない日本人女性たちに、日本大使館は救いの手を伸ばさないという。「自分が好きできたのだから仕方がない」というのがその理由で、彼女らが逃げ込んでも助けようとしないのだとか。
「有事の際に、逃げ込むのは、日本大使館じゃなくて、米国大使館」
という言葉が、現地で聞かれることもあったという。
2001年9月11日のマンハッタンでも、同じようなことが起こった。あの「有事の際」、帰国便に乗れず途方に暮れる個人旅行者らは、日本領事館を訪れた。しかし、領事館員らは、彼らを受け入れ保護するどころか、受け皿がないとの理由で、突き返したのだ。
そのことは、現地の日系メディアでも紹介された。結局は、日系企業や現地の日本料理店主など、民間がヴォランティアで、日本人旅行者の便宜を図ったと聞く。
もちろん大使館員、領事館員の多数は、敬うべき仕事をされているに違いない。しかし、そうでない人の方が、あまりにも目立ちすぎる。個人的にも、苦い経験が少なからずあった。
海外に住んでいると、日本大使館、領事館に関わる機会が多い。わたし自身にとって、最悪の経験は、日本父の死による夫の渡日に際しての、ヴィザ発給にまつわる件である。
今でも、父が亡くなった夜、葬儀場向かいのロイヤルホストから米国の日本大使館に電話をして、激怒に震えた感情が、まざまざと蘇ってくる。目に見えない相手に対して、今までの人生で、一番、怒りに打ち震えた経験だった。
それがいかにひどかったか。ということに、ご興味のある方は、こちらをクリックしていただきたい。父の死に際して帰国した折の、猛烈に長い記録だが、ざっと読み返してみるに、読み応えのある、いい記録である。またしても、自画自賛で失敬。
この長大な記録の「●ホスピスへ。父との対面。」という項の後半が、その大使館のひどすぎる一部始終である。
今更、古い話を掘り返すのもなんだが、
「逃げるなら、米国大使館」
の一言に、またしても、膝を打ち、同時に書かずにはいられなかった。
わたしは米国永住権を持ってはいるものの、市民権はない。有事の際、道理で言えば、「日本大使館」に逃げ込むのが筋だろう。しかし今のわたしは、米国大使館を選ぶだろう。迷うだろうけれど、選ぶだろう。米国大使館を選ぶ方が、ひとまずの命は保証されると思うのだ。
あれこれ問題のある米国ではあるけれど、住んでいるときは文句も多かったけれど、「そういう点においては」遥かに、我が祖国日本よりも、頼りがいのある国だと実感する。
-------------本日は、スジャータらに聞いたカースト制度のことなどにも触れるつもりだったが、毎度寄り道の話題で長引いてしまった。
がんばって綴ってはみたが、もう、寝る。今日のところは、これにて。