今日は終日、自宅仕事。半日で仕上げる予定の仕事が仕上がらず、結局夕方までかかってしまった。しかし、一仕事やりとげたあとの、まだ日が落ちる前の夕暮れ時、開けるワインのその一口目の、なんとも言えずおいしいこと。五臓六腑に染み渡る幸せ感。
今ひとつ、おいしくないインドの赤ワインに慣れてしまった自分が哀しくもあるが、適応能力があってすばらしい、とも思う。が、実のところは、安くてもおいしいカリフォルニアワインがしのばれる。
さて、夕食を終えて、お茶を飲んでいたら、家政夫モハンが夫に話しかけて来た。特別の用事がない限り、普段は話しかけたりはしないのだが、なにか特別な用事があるようだ。かなり饒舌に語っている。べらべらしゃべっている。アルヴィンド、驚いている。
「ねえねえ、何て言ってるの?」
「夕べね、彼が寝ていたら、誰かが足を引っ張るんだって。で、びっくりして飛び起きたら、人影が見えたんだって」
「ドアの鍵、しめてなかったの? 誰よ、それ。」
「鍵はかけてたらしいんだ。で、驚いて電気を付けたら、誰もいなかったって言うんだよ。幽霊だった、って言ってるよ」
使用人部屋は、我が家の玄関脇にある三畳ほどの空間だ。そこに小さなバスルームがついている。小窓がある限りの狭苦しい場所ではあるが、基本的には寝るだけだから、十分かとも思われる。
もともと幽霊だの霊魂だの占いだのは、「非科学的だ!」と一切信じない夫、半ば「作り笑い」をしながら、モハンの語りに耳を傾けている。
「ねえ、なんて言ってるの? ちゃんと訳してよ」
「だから、夕べ、誰かが足を引っぱって、それは幽霊に違いないんだって」
「それはさっき聞いた!」
「彼の村(ヒマラヤ山麓)では、しょっちゅう幽霊が出て来てたらしいよ。でね、彼が昔、デリーで働いていた家(大邸宅)にも、幽霊が出る部屋、っていうのがあって、誰も近づかなかったんだって」
ちなみに、モハンがここで「幽霊に出くわした」のは、これで二度目らしい。
さて。
わたしは、幽霊、霊魂系の存在は、あって不思議ではないと思っているし、実際、奇妙な経験をしたことも少なくない。
が、今回に限って言えば、モハン。それはきっと「金縛り」もしくは「悪夢」だと思うよ。
というのが、実は昨日、「マダムのビッチ化」が最高潮に達していた日で、何が起こったか詳細は割愛するが、モハンの行いを巡って我々夫婦は大げんかをしたのである。
それは、はっきりいって、モハンが悪かった。悪かったが、悪気がなかったのも事実なので、マダムは辛抱するべきだった。しかし、昨日は、いくつかの不快事が積み重なり、堪忍袋の緒が切れたのである。そこへ来て、アルヴィンドが
「ミホはビッチだ!」
と畳み掛けるものだから、怒り絶好調でね。なにしろ、わたしはそもそも声が大きい上に、昨今のヨガで肺活量が増えている。更には大理石の床はエコーが響く。アパートメント全体に声が響き渡る。自分でも、自分がうるさいくらいだ。
それでもなお、自分を抑えきれず、夕べは罵声の嵐だったのである。
「モハンに聞こえるじゃないか!」
「聞こえたっていいじゃない! どうせわたしが頼んでること、全然わかってないんだから!」
そうなのだ。モハンは、わたしが言っていることを、わかっていないのに、わかったつもりで確認をせず先走り、その都度、わたしが受け入れなければならないのだ。
わからないのなら、ゆっくりと、わかるまで確認してよ、とスジャータに頼んで説明してもらっているのだが、そもそもが「優等生的」気質の彼は、「わかってますとも!」という思い込みで、わたしの全身による説明に注意を払わないのだ。
更にはスジャータに「僕はマダムの言っていること、ほとんどわかっています」と言ってのけているらしい。だから、それはわたしが黙認しているだけで、日々、誤解だらけなのよ!
ヨガのジャージにアイロンは不要なのよ! テカるのよ! 裸足で外と部屋を行き来しないでほしいのよ! ジャガイモの芽は毎回除去してほしいのよ! くずかごのゴミは手で触らずビニル袋に入れてほしいのよ! わたしのクローゼットは開けないでほしいのよ! アルヴィンドのパンツと台所の布巾を一緒に洗濯しないでほしいのよ!
いろいろ、あるのよね。何度説明しても、わかってもらえない日々の諸々。自分でやるほうが、よほど楽かもと思える出来事。
とはいえ、こまごまと不満はあるにせよ、しかし彼が優秀な使用人であることは、事実であり、だからわたしも折り合いをつけて行かねばならないのは重々承知である。
そんなわけで、だらだらと書いたが、マダム思うに、モハン。それは幽霊ではなく、マダムの爆発により、精神的ストレスを与えられ、それが悪夢となって「足を引っぱられる現象」になったんだと思うよ。
とはいえ、それがもしも本当に幽霊だったとしたら、いやね。
「アルヴィンド。モハンに、部屋の四隅に、塩をまくように言って。それから、バスルームにも塩を流すように。あと、そうだ、酒を供えておいた方がいいかもね。こないだ香港で買って来た料理酒、あれでいいわ。酒はわたしが準備するわ」
「あ〜もう、またミホが変なことを言い始めた! だから、幽霊なんて存在しないんだってば! 僕は信じないよ!」
「信じようが信じまいが、いいから彼に説明してよ! 塩と酒は、清めに使うんだから。邪気を浄化してくれるのよ」
いりこも供えたほうがいいかな。でも、いりこはないな。顆粒状のいりこだしならあるけど。しかしここはインドだ。インドの霊魂が、塩はまだしも、日本酒やいりこで「祓われてくれるかどうか」も疑問だな。
なんだか、わけがわからなくなってきたので、取りあえず、塩をわしづかみにして各窓窓から撒き散らして、清めておいた。
日々是、妙な、インド生活である。