バンガロールで最も設備の整っている病院、コロンビア・アジア・ホスピタルの噂はかねがね聞いていた。主にはインド人富裕層や外国人居住者が利用している病院で、ここで出産する人の話もよく聞く。
米国を離れる半年ほど前に、わたしはニューヨークで簡単な人間ドックによる健康診断を受けていたものの、アルヴィンドは2年近く、検査をしていなかったこともあり、多忙な最中ではあったが、予約を入れていたのだった。
これまでも何度か書いたが、アルヴィンドは家族性高脂血症。つまり、遺伝的にコレステロール値が高いため、米国時代はリピトールと呼ばれる錠剤を毎日飲んでいた。
ところが米国を離れてこの一年、薬が切れてもそのままに、なんとなく来ていた。毎日、薬を飲むことに抵抗があったのも事実だが、毎日のようにヨガをやっているし、食生活にも気を遣っているし、ひょっとするとさほど悪くはないのではないか、という希望的観測で過ごしていた節もある。
とはいえ、彼も、なんだかんだで34歳。ひょっとすると、中年前夜である。油断は大敵なお年頃である。そんなわけで、噂のホスピタルへ行くことになったのだった。
ドクター以外のスタッフは、男女ともに濃紺のスーツ。女性は白地に黄緑色の花模様のブラウス、男性は同様の柄のネクタイ、という、かなり奇抜かつ個性的なユニフォームを着用している。
受付で登録をすませると、その場で顔写真を撮られ、即座にプラスチック製の診察カードを製造してもらえる。もう、その段階で、「インド、すごい!」と、感動している。
まさか診察カードに印刷されるとは思わず、ほぼすっぴんの、寝ぼけた仏頂面を撮られたのは不覚であった。
患者には、スタッフが専属でついてくれ、一連の診察をマネジメントしてくれる。我々の前に現れたのは、知的かつ美しい、若い女性であった。病院に入るが入るまで、
「ああ、お腹空いた」
「今日は仕事が忙しいのに。やっぱり来るんじゃなかった」
などと、ぶつぶつ言っていた夫ではあるが、きれいなお姉さんを前にして、みるみるうちに表情が軟化してゆく。そこまであからさまでいいのか、と驚かされるほどの、それは変わりようである。
お姉さんは、検査の内容を説明しながら言う。
「最初に血液と尿を採取します。その後、カフェで朝食をとってください。食事代は診察費に含まれています。朝食後、また検査をいたします」
「朝食が付くんですか! それはすばらしい! うれしいな〜」
夫、すでに満面の笑顔である。何なんだ。この男は。
血液検査の技師(女性)は手際よく採血をしてくれ、最初から、好印象。夫と合流してカフェへ入る。
「僕はドサを食べるよ!」
ドサとは、米粉と豆粉を混ぜて発酵させた生地で作られたクレープ状の食べ物。南インド定番の朝食である。病院で、ドサを出すんだろうか。と思ったら、出してくれた。
絞り立てのパイナップルジュースも出た。
食事をしていると、スタッフのお姉さんが検査についての説明に来た。
「お腹が空いてるせいもあるけれど、ここの朝食、おいしいですね〜!」
夫はすっかり、晴やかだ。本当によかった。朝食のついている病院で。きれいなお姉さんがいる病院で。
さて、隣のテーブルで、やはり健康診断に来たインド人女性(インド生まれ、カナダ国籍、米国在住ののち、インドに一時帰国在住)と挨拶を交わす。食後のカプチーノを飲みながら、すっかりくつろいで、談笑しつつ、いやいやここは、病院なのだ。
わたしは婦人科検診やマモグラム(乳がん検診)も受けるため、一足先にカフェを出る。
レントゲン技師、婦人科のドクター、当然ながらどちらも女性で、とてもリラックスできる。食後の血液検査をすませた後、今度は心臓の検査へ。ここの技師も、やはり女性だ。
心電図を取るためのコードを上半身のあちこちにくっつけられたあと、ジムにあるウォーキングマシンを歩かされる。最初は平坦で緩やかなスピード。
「では、第二段階、行きますね」
するとマシンはやや傾斜して「坂道」になり、スピードもアップする。結構、疲れる。
「では、第三段階、行きます。」
さらにマシンは傾斜を増し、スピードも高まる。かなりの早歩きだ。わたしは早歩きタイプだが、ゆっくり歩く人には辛いんじゃなかろうか。
「大丈夫ですか? 辛かったら言ってくださいね。じゃ、第四段階、行きます」
えええ〜っ、まだあるの? わずか10分間と思っていたけれど、このペースで10分はかなりきついぞ。足はもう、かなりの早歩き。マンハッタンを歩いていた速度を、軽く上回るスピードだ。しかも、坂。
「どうですか? 大丈夫ですか? 毎日ハードな運動されていますか? ここまで来ても心拍数があまり上がりませんね。」
わたしは持久力はある方なのだ。ただ、腰痛があるので無理ができないだけで、基礎体力もある。褒められてうれしいので、もうちょっとがんばろうと思う。
「じゃ、最後の段階行きますね」
ええ〜っ、まだあるの?! 最早、小走り状態。さすがに息が切れて来た。
「お疲れのようですから、じゃあこのへんにしておきましょう」
9分あたりで、機械を止めてくれた。助かった。汗を拭いてください、とティッシュを渡されたが、わたしはかなり運動をしても汗をかかないのだ。代謝がよくないから、痩せないのかもしれない。
そんなことはさておき、わたしはこの検査の過酷さに驚いた。
「この検査、年配の人には、大変じゃないですか? だいたい、早歩き、できないでしょ?」
「そうですね〜。これはリスキーな検査ですね。だから大丈夫ですか、って声をかけるようにしてるんですよ。でも、たまに機械の上で倒れる人がいますよ」
た、倒れる人がいるって……。心臓の検査で心臓発作を起こされたら、洒落にならんやろ!
「でも、この検査はとても有効なんです。心拍数の経緯がよくわかりますから」
こともなげに言う技師。もっとリスクの低い検査方法はないのだろうか。と、人ごとながら、心配だ。
その後、肺活量のチェックをしたり(これも人並み以上)、簡単な問診を受けたりして、本日の検査は終了。なんだかんだで3時間以上はかかったのだが、そのうち30分以上は食事と世間話タイムだったし、待ち時間も比較的少なかったし、非常にいい感じの検査であった。
検査結果は、婦人科検診以外は明日、出ると言う。ばたばたしている時期ではあるが、せっかくだから早めに結果をもらうことにした。
それにしてもだ。
メディカルツーリズム、つまり海外からインドへ疾病の治療のために訪れる人が存在するのは、当然の趨勢かもしれない、と、会計時に改めて認識した。
あらかじめ料金を知ってはいたが、米国時代に訪れた病院に比して、勝るとも劣らぬ設備とサーヴィス。物価の差があるにせよ、この料金は驚きである。
料金は、性別年齢によって異なるが、たとえば30代-40代の男性は1750ルピー。US$40に満たない。女性の場合は約2割増し。無論、わたしは惜しくも40歳以上につき、ぐっと値段があがって3100ルピー。加えてマモグラムのオプショナルが1000ルピー。
とはいえ、合わせてUS$100程度なのだ。これは米国の1、2割の料金だ。安い。
勤務している会社によって、保険プログラムの内容が異なるゆえ、まともな治療を受けられずにいる国民がごまんといる。
わたしはアルヴィンドと結婚するまでの米国生活前半5年間、海外旅行者傷害保険しか持っていなかったので、保険の利かない歯医者にかかるのは、実に辛かった。外れたクラウンを詰め替えるだけで数百ドルかかることもあった。
とはいえ、自分の会社から保険を払うとなると、月々数百ドルの出費となり、当時のわたしに、それは負担が大きすぎ、どっちもどっち、の状況だったのだ。
加えて言えば、不妊治療。IVFと呼ばれる「究極の」体外受精は、米国の場合、US$15000〜20000、日本円で200万円ほどかかる。それがインドでは、十分の一、もしくはそれ以下だ。
だからといって技術に問題がある訳ではない。先進諸国での経験もある優秀なドクターが診療にあたってくれるのだ。高額の治療になればなるほど、その格差が大きく経済状況に影響する。
メディカルツーリズムがはやり始めていることを、納得させられる。
保険の利かない治療はインドで受けよう!
ついでにアーユルヴェーダで、副作用のないホリスティックな治療も試そう!
おまけにヨガで心身を調えよう!
そんな風潮が一般に知られる時代が、まもなく訪れることだろう。