第1弾@デラドゥーン(北インド)を終えて、昨夜、バンガロールに戻って来た。
仕事の合間を縫いながら、早いうちに記録を残そうと思う。なにしろ明後日は、第2弾@ゴア(南西インド)に参加すべく、再び旅に出なければならないので。
とはいえ、いったい何から書き始めればいいのか。最早自分たちの結婚式のときよりも、「説明しておきたいこと」がたっぷりで。
取り敢えず、インドにおける結婚の概要から説明しておく。
■見合いが主流のインド結婚式。全国的に、概ね派手。
インドの人口、約12億人。日本の約10倍。面積は約9倍。地方により異なる複数の言語が使用され、宗教やコミュニティ、階級によりライフスタイルが異なる。
一つの国、というよりは、ヨーロッパ共同体のような存在感である。
文化や生活習慣が多様性に富んでいるインドで、「一般的な結婚式」を語るのは困難だ。
ただ、結婚式は非常に重要な行事として盛大に行われ、それぞれの階級に応じた多額のお金と多くの人々が動く点において、全国的に、共通している。
昨今では恋愛結婚が徐々に増えているようだが、多様なコミュニティが混在するインドでは、似通ったバックグラウンドを持つ相手との見合い結婚が主流。
従来は、両親が、結婚相談所や新聞広告、知り合いなどを通して、結婚相手を探したが、最近ではインターネットの見合いサイトを通しての出会いも増えている。
サイトには、さまざまなカテゴリーが設けられている。
共通のバックグラウンドを持つ人物を対象に候補を選び、占星術などを基に相性を調べ、ターゲットを絞り込む。
結婚に際しては、従来、男性が「選ぶ立場」、女性は「選ばれる立場」であり、婚前交際はタブーとされてきた。しかし欧米の文化が急速に流入しているこの数年は、恋愛や結婚事情にも大きな変化が見られるようだ。
結婚前に堂々と交際するカップルも増えているが、とはいえ恋愛と結婚は別だと割り切る若者も少なくない。
国際結婚や異教徒同士の結婚は、インド全体においてはまだまだ極めて少数派である。
■新婦はヒンドゥー教徒、新郎はキリスト教徒。式典は計三都市で。
さて、結婚をする親戚とは、新婦となるアースタだ。デラドゥーン出身の彼女は、ムンバイ在住。ディレクター兼アンカーとして、毎朝、ブルームバーグ (Bloomberg)で経済情報をレポートしている。
その後、カナダへ留学し、数年前よりムンバイで仕事を始めている。
新郎であるクリントとは、ムンバイで出会ったらしい。
つまり恋愛結婚だ。
わが夫、アルヴィンドの家族や親戚は、一般的なインドと異なり、非常に家族が少ない。少ない上に、異なるコミュニティ同士の結婚が多い。
国際結婚はわたしたちだけでなく、アースタの叔父も、ノルウェー人と結婚している。
さて、親戚が非常に少ないことから(ちなみにアルヴィンドは従兄弟がひとりしかいない)、少々離れた親戚とのつながりも強い。
アースタの父親であるアローク叔父。彼は、アルヴィンドの亡母の従兄弟である。
母の従兄弟の娘に対して、日本語でどう呼べばいいのかわからないが、アルヴィンドは、遠い親戚をひっくるめて、「おじさん」「おばさん」「いとこ」と呼んでいる。この際、続柄など、どうでもいい感じではある。
さて、下の写真は、10年前のわたしたちの結婚式の時のもの。
あれから10年とは、感慨深い。と、わたしたちのことはさておき、これは一連の結婚イヴェントの初日にマルハン実家で行われた「メヘンディの集い」である。
自宅に招いたメヘンディ職人から、手足に「ヘナ」と呼ばれる染料で入れ墨を入れてもらう。インドの女性が「ハレの日」に施すものだ。
この日、わたしと日本家族は、インド人の親戚たちと初めて顔を合わせたのだった。
左上の薄紫色の服を着ているのがアースタ。まだ十代だったはずだ。
右端の、目を見張るほどに巨大なビンディ(額の赤いポッチ)をつけているのが、アースタの母、ニラだ。ニラ。語感が微妙だが、それはさておき、一度会ったら忘れられないお顔である。
「結婚式の開始」を告げる音である。
この直後、楽団の演奏がジャンジャカジャンジャカと始まるのである。
ちなみに背後で笑っているピンクターバンの男は、マイハニーだ。
まずは、新婦のふるさとであるヒマラヤ界隈のデラドゥーン (Dehradun) という都市で3日間に亘り、ファンクション(式典)が行われる。
その翌週、新郎のふるさとである南西インドのゴア (Goa) にて、2日に亘るファンクションが、そして最後にムンバイで1日、披露宴が開催されるという。
わたしたちはデラドゥーンとゴアのファンクションに招待されている。夫は仕事を休むのをためらっていたものの、数少ない嫁側の親戚。アロークからも再三、連絡があり、取り敢えずは二都市とも訪れることにした。
もっとも、夫が仕事でどうしても赴けない際には、わたしはひとりでも出席する勢いである。
アースタ自身が電話で、
「ミホ、アルヴィンドが来られなくても、来てね。普通じゃない (unusualな) 結婚式になるはずだから。特に、彼のコミュニティは、独特の結婚の祝い方があるのよ。ファッションもユニークみたいだから、楽しめるはずよ。ぜひゴアにも来てね」
と、誘ってくれるのである。これを行かずにはいられようか。いや、いられまい。
■デリーから飛行機で1時間弱、デラドゥーンへ。
夫の実家で2泊を過ごし、18日金曜日、午後の便でデラドゥーンに入る。義父ロメイシュと義継母ウマ、そして義姉スジャータの夫、ラグヴァンは、午前中の便で先に飛んでいた。
ちなみに義姉スジャータは、あいにく体調を崩してしまい、旅はキャンセルとなった。数少ない身内と訪れることができないのは、とても残念なことである。
ところでデリー空港が新しく生まれ変わったことは到着時の記録に残したが、出発ロビーの広さには、驚いた。チェックインカウンターが並ぶあたりは、「ここはサンフランシスコ空港?」と思わせるムード。
ただ、象の親子がたたずんでいるところが、サンフランシスコじゃないけれど。
それにしてもだ。国内線にしては、広すぎやしまいか。特にセキュリティチェックを終えてゲートまで向かう道のりが遠すぎる!
国際線空港も真っ青だ。
しかも、全面的に敷き詰められたカーペットが暑苦しいし、埃が溜まりそう。掃除が大変そう。「なにゆえにカーペット?」と疑問を抱かずにはいられない。
カーペット業者との癒着があるんじゃないか、と勘ぐりたくなるくらいに、力一杯、敷き詰められている。
写真を撮りながら、先日訪れた世界第2位の広さを誇るチェンナイの砂浜(写真右下)を思い出さずにはいられなかった。
このカーペット。荷物をころころ転がしにくいがため、三半規管脆弱ゆえ苦手な「動く歩道」を使う羽目になる。
ゲートは40番台。どのあたりだろうと目を凝らすが、見えぬ。最早、前方は、蜃気楼状態だ。動く歩道を歩いてなお、遠い。
ゲート62まであったが、最果て感たっぷりである。途中でお年寄りがよたよたと、しかし小走りでゲートへ向かっているのを見て、気の毒になった。
デリーの国内線、早めのチェックインがお勧めである。
ジェットエアウェイズのデリーとデラドゥーン間のフライトは、1日2便。義父らによると、午前中の便は、結婚式の出席者が大半だったという。なんでも、新郎側は海外からの友人らが大挙して訪れているらしく、
「飛行機、外国人だらけだったよ」
とのこと。わたしたちが乗った午後の便にも、それらしき家族連れが数組。
全体に、「派手な感じ」が漂っている。が、彼らが本当にゲストなのかどうかわからないので、特に挨拶を交わすことはない。
延々と続く樹海、見たこともない不思議な形状の山並みを見下ろし、インドの広さを感じつつの空の旅。
やがて樹海がばっさりと、まるで切り取られたように途切れ、畑や家並みが見えて来た。
予定より遅れて到着。最近、完成したばかりらしい新空港が、小さいながらも美しい。先日訪れたアウランガーバードと同様、ここも駐機場を呑気に歩けるところがいい。
思ったよりも寒くなく、夕刻ながらも気温は18度。心地よい風が吹いている。
さて、空港で叔父アロークが手配している3台の車の前に、結婚式のゲストが集合した。やはり、予想通り、「けばい家族」(失礼!)も、一緒だ。
母娘そろって、高級ブランドのバッグを片手に、やはりブランドのロゴががっつり露出したサングラスを、頭に載せている。華やかな大振りジュエリーに、派手なトップ。そして、ぴっちりのジーンズ。
このファッションは、特にムンバイやデリーなどの都市部における、富裕層女性の、ここしばらくのトレンドだ。一方、男性の存在感は薄い。
それはそうと、母娘が手荷物で持っている「ギフトラッピング」されたバッグに目が釘付けになった。母はバーバリーの紙袋を、娘はルイ・ヴィトンの紙袋を下げている。
まさか、それが結婚式のプレゼント? そうとしか思えない。いやはや。いやはやだ。
インド富裕層。ひと言で富裕層を語れないほど、その「ライフスタイル」もまた多様である。しかし二つに大別するならば、
○質実剛健。堅実で、派手を好まず、昔ながらに地味なライフスタイルを貫く、あるいは継続する人々。
と、
○高級ブランドの物品を好み、華やかに身の回りを飾り立て、一目を引く人々。
とにわけられる。どちらもそれぞれに、それぞれである。
夫の親戚の多くは前者であり、しかしアースタの夫となるクリントの一家は後者かもしれない、ということが、薄々、察せられたのだった。
空港から市街までは車で約1時間。市街に入るほどに、渋滞で込み合う。恐ろしいほどに交通ルールがハチャメチャだ。都市部の比ではない、すさまじさである。具体的な話はここでは割愛するが。
さて、ゲストは街にある3軒のホテルに振り分けられる。海外からのゲストと新郎側の家族は、多分、街一番のホテルである。
義父ロメイシュとウマは、そしてわたしたち夫婦とラグヴァンは、別のホテルに予約が入っていた。
部屋にはアローク叔父たちからの、お菓子の詰め合わせとワイン(カリフォルニア産!)が置かれていた。感謝である。
ちなみに交通費は我々が出すものの、ホテル代などはすべてアローク叔父が手配してくれている。わたしたちは2泊しかしないが、他のゲストは3泊目をリゾートホテルで過ごすことになっている。
この際、わたしのサリー姿など、最早どうでもいい気がするが、一応、載せておく。先日バンガロールで行われた シルクエキスポにて購入したものだ。
カシミール地方の刺繍が、全面に施されているものの、シルクが薄手で軽く、着やすい。薄紫の地色が珍しく、その光沢も上品で、気に入ったのだった。
後ろ姿が、少々、凝っているのだ。
「セクシーな編み編み仕上げ」である。
すみません。もう言いません。
それはそうと、左上の写真。
床に夫が脱ぎ捨てたソックスが転がってるしもう!!
注意し続けて早15年。
何度言っても、床にソックスを脱ぎ捨てる男。
ああもう、こんなに書いたのに、まだファンクションその1にも到達していない。とっとと先に進めよう。
■式典1:飲んで踊って大騒ぎ! サンギートの夜
第一の式典は、サンギート(サンギータ)。音楽で賑わう夜だ。
会場は新婦の実家であるタンダン邸。英国統治時代のコロニアル風建築。築80年を超えているという。
アローク叔父の父、つまり新婦アースタの祖父は、現在98歳。若かりしころは名高いジェネラル(総督)だったとのこと。わが夫アルヴィンドは、子ども時代から慕っていたという。
今回、久しぶりの再会を楽しみにしていたのだが、体調が悪く休んでいるとのこと。夫はとても残念がっていた。
さて、タンダン邸はエントランスから華やかに飾り立てられている。豊かな花々と、ライトアップが美しい。
広々としたガーデンは、ダンスフロアやカクテルラウンジ、ダイニングのコーナーがセッティングされており、さながらリゾートホテルの趣だ。
屋内に入れば、すでに身近な親戚たちが集まっていた。スタイルよく美しいアースタの隣で写るのは辛い。と思いつつも、親戚と記念撮影。
アースタ、かなりセクシーなドレスである。これほど露出度が高いのは、かなり「現代風」であり、インドの典型的な花嫁の姿ではない。と、我が夫、アルヴィンドが耳元でささやく。
ちなみに彼女のドレスは、インド・デザイナーズの中でも、最も有名なデザイナーの一人、タルン・タヒリアーニ(TARUN TAHILIANI)の手なるものらしい。
ちなみに、新郎の衣服(シャルワニ)は、やはり有名デザイナーのロヒト・バル (ROHIT BAL)のものだとか。
なおこれらの情報は、サイエンティストな義兄であるところのラグヴァン博士より得た。
ラグヴァンは自分のファッションはさておき、世間のファッション情報にも詳しいのだ。
「新聞を読んでいればわかる」らしい。
ちなみに右端の恰幅のよいおばさまは、アルヴィンドの亡母の兄の妻。つまり一番近い唯一の叔母ニナ、である。彼女のキャリアがまたお見事。
彼女が大学時代、ワシントンD.C.在住時に家族揃ってJ.F.ケネディからホワイトハウスに招かれたらしい。そのときの招待状を見せられた時には驚いたものだ。以降の、彼女の仕事ぶりを書くだけでも、尽きない。
左端の女性は、アルヴィンドの唯一の従兄弟の妻だ。
そして賑やかに再会するは、アローク叔父の弟、ランジャン叔父と、その妻、チャンドリカだ。
彼らはニューヨークのアッパーイーストサイドに住んでいて、わたしと夫が結婚する前からよく顔を合わせている、もっとも近い親戚である。
インドで二人に会うのは初めてのこと。なんだか奇妙な感じだ。
チャンドリカはつい最近、インドにおいて「時の人」であった。先日も紹介した通り、ビジネス界の人物でミュージシャンでもないのに、先日、グラミー賞にノミネートされたからだ。
もっともノミネートされただけで受賞はしなかったが、それでもノミネートされるだけでたいへんなことである。
インド国内でも、あちこちのメディアで紹介されていた。彼女のバックグラウンドに加え、彼女の妹が、米ペプシコの社長、インディラ・ヌーイであることも、話題性があったのだ。
といったことは、すでに過去、書いているので割愛する。詳しくは下記に残している。
■天は二物を与える。チャンドリカ叔母、グラミー賞ノミネート!(←Click!)
親戚のディテールはこの辺にして、いよいよ宴の始まりである。
遠くから、賑やかなバンドの音が響いて来る。と、アースタの姉の指揮により、皆がエントランスへ集合。と、音がだんだん、「壮絶な状態」になってきた。
トラクターの後ろに発電装置の車と、巨大なアンプを載せたトラックとが続く。そしてその後ろに群衆。
どこから出発したのか知らぬが、なんと1時間以上も、踊りつつ練り歩いて来たらしい新郎側の一群だ。
新郎は白馬が引く馬車に乗っているようだが、どこに馬車があるんだか見えやしない。
それにしても、恐るべき音響。ここは仮にも住宅街。しかし今夜ばかりは、近所迷惑もなにもあったものではないのである。
エントランス前に到着した一群。花嫁側の家族も合流して、踊りまくる大騒ぎだ。ちなみに道路は砂利道で、ヒールもサリーの裾もあったものではない。
想像していたが、しかし、しょっぱなから、熱い。
なお、この時点で午後9時半である。
そしてこれから、エンドレスな夜の宴が始まるのである。
キャンドルが麗しく灯されたレッドカーペット。
ここを通り抜けて、庭の一画に設けられたダンスフロアへ、一堂はなだれ込む。
楽団は激しく演奏を続けている。
その楽団のクオリティが、かなり高い。
ミュージシャンたちの風貌も、かなり「いけて」いる。
インドの伝統音楽ながらも、モダンな風味たっぷりだ。特にドラマーたちの「バチさばき」が見事! 踊りより、むしろ彼らの太鼓に集中したい気分である。
それにしても、確かに新郎側は外国人の姿が目立つ。新郎の父が海外資本と仕事をする事業家であるのに加え、新郎も海外生活が久しかったことから、友人があちこちにいるらしい。
耳にしただけでも、ドイツ、フランス、英国、米国、イスラエル、アイスランド、チリ、オーストラリア、シンガポール、カナダ……と多国籍な構成だ。
通常だと、ここで踊りまくり、バーカウンターでお酒を飲み、そして深夜にようやくディナーとなり、しかしその後も延々と、日付が変わっても踊り続ける……というのが、サンギートの有り様なので、特に書くこともないはずなのだが……。
この結婚式は、「普通ではない」のだった。
まず、この日は「新郎の母の誕生日」だということで、いきなり巨大なバースデーケーキが登場。
グラミー賞なチャンドリカ叔母がマイクを握り、ハッピーバースデーを歌う。
ちなみに新郎の母は、元ミス・インディア、らしい。
道理できらびやかというか派手というか、なんというか、強いインパクトだ。
いや、この写真で強いインパクトを与えているのは、他でもない、ニラ叔母であろう。相変わらず、額の巨大なビンディが目を引く。
これほどまでに巨大なビンディ。いったい、どういう意味があるのだろう。単に「好み」の問題なのだろうか。これはいったい、どういう好みなのだろうか。
その後、今度は新郎新婦家族の挨拶が始まった。インドの結婚式でこんな挨拶を見るのも初めてのことだ。珍しい。
赤いポケットチーフのマイクを握っている男性が、新郎クリントの父、その隣がアローク叔父。この二人の風貌が、まるで兄弟のように似ているところが興味深い。
中央に立っている、マトリックスのキアヌ・リーヴスのような出で立ちでカメラを持っているのは、新郎の弟。ハリウッドで映画プロデューサーをやっているらしい。
その後は、なぜかデリーから「出張サーヴィス」のロシア人ダンサーが登場。
「ベリーダンスもどき」が披露される。
このような出し物もまた、非常に「普通ではない」。
新婦側の親戚各位は、楽しんで見ていた風だが、その後、「あれは下品すぎた」と口々に。
なかなかに際どい出し物ではあった。
このような出し物を、真剣に見る人あれば、スナックを食べつつ、飲みつつしゃべる人あり、みな、それぞれに楽しんでいる。
もちろん、年配のおばさま方のなかには、どっしりと腰かけて踊りは控えめ、な方々もあるが、少数派である。
その後、バーカウンターにて、バーテンダーによる「火焔ショー」が披露される。
この出し物も、「超今どき」である。
さて、このころにはもう、11時を回っていて、気温がぐっと落ちている。
吐く息が白い。
やっぱり靴下を履いて来るんだったと後悔するも遅い。
それにしてもお腹が空いた。しかし誰も食事に移ろうとはしない。再び皆が踊り始め、飲みまくり、どうしてそんなに、みんな元気なの?
そもそも海外から駆けつけて、時差ぼけ疲労炸裂なゲストも多かろうに、なぜそんなに元気なの? ランジャン叔父も、チャンドリカ叔母も、ニコニコ激しく踊っている。かなわん!
その後、新郎の友人らによる「二人の出会い」をストーリー仕立てにした「演劇」が披露される。
それは小学生の学芸会を下回るかと思われるほどの出来映えであったが、このような出し物もまた珍しく、ユニークではあった。
このような出し物が「合いの手」で入ることで、踊り続けなくてもよいのがまた、助かった。
なにしろちょっとでも傍らでボサッと立っていようものなら、誰からから手を引っ張られ、「ミホ、踊らなくちゃ!」とステージに引き込まれるのだ。
しかし12時を過ぎた頃にはもう、いい加減、寒いし、お腹が空くしで、ステージを離れる。頼むから、夕飯を食べさせてくれ、という話である。
が、深夜に重いものを食べたのでは、翌日に差し支える。
夫と二人「絶対食べ過ぎないようにしよう」と言い合いながら、結局食べ過ぎてしまう、おばか夫婦。
食事をしている人々はしかし少なく、踊り人口の方が高い。
普段はクールな義継母ウマも、きりりと知的な従兄弟の妻のタヌーも、ラグヴァン博士も、すでに70歳を超えて久しい義父ロメイシュも、みな人が変わったように、熱く踊りまくっていた夜。
もちろんマイハニーも、「機械仕掛けのクマ」みたいな動きで、楽しげに踊っている。
そんな彼らに「そろそろ帰りましょう」との声を上げたのは、他でもない、わたしだ。
もう、疲れた。付き合いきれん。
そんな次第で、午前1時近くに退散した我々。もう十分っちゅう話や。
ちなみに宴は、午前3時ごろまで続いていたらしい。そしてまた、翌日は正午より、「ファンクションその2」が開催されるのだった。
すでに初日の段階で、「お腹いっぱい」な気分になってしまったヤワな日本人であるところのわたし。
インド人の恐るべき底力。精神力&体力に敬服しつつ、寒さに震えつつ、会場を後にしたのだった……。