久留米絣(かすり)。それは、祖母の時代の衣類であり、その井桁模様がモンペの象徴であり、子供の頃には「古くさいイメージ」が先行する布であった。
インドに暮らし始め、サリーを通して、テキスタイルに強い関心を抱くようになった。さまざまな工芸品店で、インド各地の伝統的なテキスタイルに触れる。
あるときは、絞り染め。あるときは、刺繍。あるときは、織り。そのときどきで、異なる地方の、異なる絹や綿の織物に関心を持ち、買い求めて来た。
昨年の終わり頃から、「マイブーム」となっていたのは、絣。オリッサ地方のイカットに、興味を持つようになっていた。
『裏ブログ』には詳細を記したが、オリッサの青年が1年半かけて織ったマスターピースを購入したことで、イカットへの関心は益々、高まったのだった。
今回、福岡へ帰郷した際、1日は、人と会う約束を入れない日を設けようと思っていた。そして、久留米へ行ってみたいと思っていた。
日本の絣の三大産地のひとつである。
最後まで、連絡がつかない人もあったので、前夜まで予定を確定することができなかったのだが、結果的に昨日、丸一日があいたので、久留米へ足を伸ばすことにした。
インターネットで調べたところ、八女郡の広川町に、久留米絣の工房が集中しており、折しも9月17日には「かすり祭り」を開催するとのことで、なんとなく、活気が感じられた。
工房を束ねている産業会館に連絡をしたところ、見学のコーディネーションもしてくださるとのことだったので、広川まで訪れることにした。
近所のJR千早駅から、鹿児島本線に乗り、羽犬塚で降りる。約1時間の列車の旅。途中で、3月に開業したばかりの九州新幹線を眺めつつ、田園地帯を走る。
羽犬塚の駅からは、タクシーで広川町まで。15分ほどの距離だ。運転手さんによれば、このあたりは気候が安定しており、農作物を育て易い環境なのだとか。
名産の八女茶をはじめ、ブドウやナシ、モモ、イチゴ、キウイなどの果実が生産されている。もちろん、水田もみられる。
米を収穫したあとは、小麦を育てるところもあるという。ただし、小麦を育てると、収穫が5月、6月となるため、稲を植えるのが遅れるとのこと。
「3月の震災の影響は、なにかありますか?」
と尋ねれば、
「いやあ、申し訳ないが、まったくないですよ。だいたい、こんなところで節電なんかしたらもう、町がまっくらになりますから」
とのこと。確かに。それでなくても、ここ数年間のうちにも、夜、近隣の繁華街へ出かける人が増え、タクシーの仕事も少なくなる一方だとのこと。
思えば一昨日、中洲で拾ったタクシーの運転手さんも言っていた。彼らの給与の相場の低さに、愕然とさせられたものである。この件については、また改めて記したい。
それにしても、暑い。午前中にして、すでに30℃を超えている気配。
バンガロールの気候が、本当に恋しい。のどかな田園地帯を散歩したい……などと考えるのは、自殺行為だと思えるほどの、激しい日射だ。
産業会館では、久留米絣製品のほか、名産の「八女茶」ほか食料品などが販売されている。
広川町には、久留米絣の手織り、機械織り双方合わせ、十数の工房、工場が点在しているという。それらの商品などが陳列されているらしい。
さて、併設されているオフィスにて、広川町商工会の方々とごあいさつ。
お問い合わせしてくださった結果、山村健(やまむらたけし)さんの「藍染絣工房」が、見学をさせてくださるとのことで、車で送ってくださった。
のどかな田園地帯を走り抜ける。空気が澄み渡っているせいか、緑や青空がまばゆく、本当に美しい。
福岡市内からさほど遠くもなく、久留米にも近く、こういうところに暮らすのもいいのではないか、と思える土地だ。
古びた日本家屋の情趣がまた、懐かしく、いい。
突然の来客を出迎えてくださったのは、山村健(たけし)さんと、奥様の羊候(ようこう)さん。
健さんは、西日本新聞の『激変するインド』を読んでくださっているらしく、わたしの名前をご存知であった。
久留米絣は、着れば着るほど、洗われて渋みが落ち、色が鮮やかに浮き上がると同時に、肌触りがこなれてくるとのこと。
このトップは、もう20年ほども着ていらっしゃるらしい。
木綿の味わいが、歳月を重ねて肌になじみながら変化していくさまに、ひかれる。藍の濃淡が、美しい。
これは、蓼(たで)科の藍草(あいくさ)と呼ばれるもの。右上は、天火干しをしたもの。これに水をかけ、腐敗させ、「すくも」を作るという。
左下の写真がそれだ。通常、すくもは他から取り寄せているらしいが、これは少量を作ってみたものらしい。
すくもをアルカリで溶かし、水飴やブドウ糖などを加えることで発酵させ、染料とする。右上の写真がそれだ。色の異なる4つの染料の龜が一セットになっている。中央は、火種を入れる場所。
今回は突然、来訪してしまったが、あらかじめ、見学を申し出ておけば、藍染めの様子を見せてくださるとのこと。
一隅には、手織りの織機が置かれている。今となっては、新しい織機が売られている訳でなく、部分的に修理をしながら使われているとのこと。
工房の見学を終えたあと、屋内に通していただく。藍色に満ちあふれた部屋。和室によく似合う色合いだ。
久留米絣の歴史は、江戸時代後期に遡る。そもそも、絣はインドを起源にして、東南アジアを経由し、琉球を経て日本にたどりついたとの説がある。
しかし、久留米絣の場合は、今から約200年前、井上伝(でん)という、当時12歳だった少女のインスピレーションによって誕生した技術として、継承されている。
健さんは、ちなみに四代目だとのこと。
久留米絣は、図案作りから最後の仕上げとなる整反まで、約30もの行程がある。各工程に経験と技を要する非常に難しいものだという。
特に、たてよこ絣と呼ばれる経(たて)糸、緯(よこ)糸を交差させて織る技術は、以前も記したが、インドと、インドネシアのどこかの島と、日本にしか残っていないという。
その技法の困難さは、インドの工芸品展で認識しており、だからこそ、今回、絣の作業工程について、きちんと見たいと思ったのだ。
白い糸で綿糸をくくり、藍で染めたとあと、たて糸、よこ糸の柄を合わせながら、織る。しかし、その柄をきちんと合わせるのが簡単ではない。ということは、見ていて、わかる。
一人の人間がつきっきりでの作業ではないとはいえ、一反を織り上げるのに、2カ月ほどを要するという。
ちなみにこの山村さんの工房では、図案ができてから、3〜4カ月を要するとのこと。
実は、若い職人さんがいらっしゃるということで、もう一軒、訪れる予定だったのだが、あいにく来客があるとのことで、訪問が叶わなかった。
と、羊候さんが、お茶菓子だけでなく、昼食まで出してくださり、本当にありがたい。盆の上には、界隈の自然の産物が、ちりばめられていて、それがまた、美しい。
ところで、わが「坂田家」の祖先が、このあたりらしく、坂田姓が多いのだとか。2軒目に訪れようとしていた工房も「坂田織物」という名であったので、ひょっとすると、遠い遠い昔に、ご縁があったのかもしれない。
左上の筒状になっているのは、たて糸の束。860本の糸が、整然と並べられている。これが1本でも欠けると、柄がきれいに揃わないのだ。それだけでも、最早、気が遠くなる感じである。
右上が、よこ糸の写真。たてとよこを、交差させながら、織り進める。ということを、言葉では、とてもうまく説明できない。
明日17日から2日間、年に一度、開催される「かすり祭り」については、上記のサイトにも記されている。ここでは、各工房の作品を直接購入できるのだという。
各地の「久留米絣ファン」が一堂に介するとのことで、作り手と、買い求める人々が交流できる、貴重な機会のようだ。
なお、「新風 久留米絣」をキャッチフレーズに、和服ではなく洋服に仕立てた衣類も増えているようだ。
山村さんの工房見学を終えたあと、産業会館へ戻り、なにか記念に買おうと、あれこれと探した。
かなり時間をかけて、試着してみたのだが、あいにく「これ!」というものが見つからず。
羊候さんが着ていらしたような、シンプルなデザインで、普段に着こなせるものが欲しかったのだが、ちょっと残念。
まだまだ、書いておきたいこと、載せておきたい写真はたくさんあるのだが、ひとまず、備忘録として断片をここに残しておく。
次回の西日本新聞の『激変するインド』では、インドのイカット(かすり)の話と絡めながら、今回の工房見学についてを記したいと思う。
わずか1200字で、うまくまとめることができるかどうか。がんばってみよう。
■藍染絣工房 山村健(←Click!)