〈以下は2018年12月の記録。3年後の今、この思いをさらに強くしている〉
●「この先の自分の人生の中で、今日の自分が一番若い」という言い回しを、昨今、よく耳にする。フェイスブックに現れた、9年前のこの写真を見てしみじみと、「言い得て妙だ」と思う。44歳だったときの、この自分は、身体の欠点を見つけては「40過ぎて、なんか老けたな」とか、体調不良に陥ると「これって、やっぱり更年期?」などと、いちいち老化を確認していた。しかし今、この写真を見たら、若々しいじゃないか。ロン毛も似合ってるじゃないか。結構、かわいいじゃないか!
●世の中には、誰が見ても顔立ちが整った美男美女というのは、絶対的に存在する。しかし、平均的な人々の美醜は、その人の表情や境遇、考え方や生き方によって左右されるということを、この年齢になり、多くの人と関わってきて、実感する。笑顔は無敵。それだけで魅力が増す。まさに笑門来福だ。1日のうち、なるたけ長い時間、笑顔でいられる人生を送りたい。
●4050グラムでこの世に生まれ、幼少時から大柄で、一重まぶたに低い鼻という「平たい顔族」の典型のような顔をしているわたしは、幼少時から縦横大きく、「体格のいいお嬢さんですね」と言われるのが常であった(わたしは幼児期からの記憶がかなりはっきりと残っている)。ゆえに「体格がいい」=「かわいい」という意味と、誤解していた時期もあった。「体格がいい」の本来の意味を知った時は、軽い衝撃を受けたものだ。
●幼児期から、身内に「大人になったら目と鼻の整形手術をしたほうがいい」などとも言われていた。自己評価が低くなっても仕方ないというものだ。アルヴィンドと出会って間もない30代のころ。同情されることを期待して、この話を打ち明けたところ、「僕も同感!」と屈託なく言われて、こけそうになった。正直な男だ。
●ともあれ、子供がいる人には、その子が図に乗りすぎることのない程度に「あなたはかわいい」「魅力的だ」の言葉を、かけてやってほしい。ありのままの姿を褒められることは、自我の成長に、好意的に働くと思う。
●結構なコンプレックスを抱いていた自分をして、「いうほど悪くないのではないか」と思い始めたのは、20歳で初めて米国を訪れたときだ。ロサンゼルス郊外における1カ月のホームステイ経験は、わたしのその後の人生を変えるべく、あらゆる物に見方において偉大なる価値観の転倒を与えてくれた。自身の風貌に関しても然り。
●街を歩けば、わたしよりも大きい女性が、ゴロゴロしている。わたしなど、むしろ「華奢?」に思えるほどの、ダイナミックな容姿をした人々を目の当たりにして、物事の尺度と価値観が大きく覆された。肌の色、髪の色、体型、顔立ち……みなそれぞれに、バラバラだ。世界の広さと、日本の狭さを痛感した。わが座右の銘、夏目漱石『三四郎』の、「囚われちゃ駄目だ」の一文に、ここでも影響を与えられた。
●背筋を伸ばして歩こう。と、思った。
●しかしそれでも、日本に暮らし働けば、年齢で自分を制限させられる風潮が強かった。当時は、20代後半ですでに「お局」と呼ばれる趨勢。職場では「おばはん」などと言われる。年を重ねることが「よくないこと」とされる傾向が強い。体型にしても然り。そもそも日本では、服を買おうにも、欲しいものは大抵小さくて入らない。わたしにとって、「フリーサイズ」は、不自由極まりない存在だった。
●日本では、長身でスラリとした女性が、しかし、猫背気味な人の、いかに多いことか。ファッションモデルのようにスタイルのいい女性が、しかし申し訳なさそうに頭を低くしている姿を見るにつけ、なんと勿体無いことだろうとも思う。
●30歳でニューヨークへ渡ってからは、さらに気持ちが自由になった。ニューヨークでは、わたしのサイズ(8〜10)が、最も標準的でたくさんそろっている。欲しい服が入らない、ということがないのが、うれしくてならなかった。入る服が多いということで、うっかり太りすぎてしまったが。
●老若男女問わず、自分の好きなブランドの服を、自分の好みのデザインの服を着る。それを着て、楽しくて、幸せな気持ちになれば、それでいい。無論、場をわきまえて、見苦しくない服装をすることは大切だと思うが、「好きなもの」を身にまとう方が、楽しい。
●日本人女性は、自己評価を低めにし、周囲との調和を重んじ、「もう年だから」とか「それは若い人に」とかいう風潮が強い気がする。日本にいれば、それも仕方がないことなのかもしれないが……。生まれた瞬間から、他の誰のものとも交換できない、自分だけの肉体。容姿。自己評価高めに、慈しんだ方がいいと、今になって切実に思う。
●日印の精神的な土壌には著しい相違が多いが、着るものひとつとってもそう。両国の結婚式を見れば一目瞭然だ。インドでは、参列者も艶やかに華やかに着飾って、その場を盛り上げる。日本の結婚式で、ゲストがこんなド派手な服を着ていたら、大顰蹙かつ伝説に残るであろうが、インドの結婚式では、花嫁はたいてい「超ド派手」に飾られるので、ゲストが少々派手なくらい、なんということはないのである。ちなみに上の写真は、2011年、デラデューンで開かれた親戚の結婚式の様子。
花嫁に勝るとも劣らぬ派手なお方は、新郎の母。かつてミス・インディアだったという才媛だ。日本でこんなことをやったら、袋叩きに合いそうである。
インドでは、「人にどう見られるか」よりも「自分がどんな服を着たいか」が優先なのだ。それはそれで、いいことなのだ。会場では、艶やかなサリーやサルワールカミーズ、レンガー・チョーリーなどに身を包んだ女性たちでいっぱい。みんな楽しげに、記念写真を撮り合っている。派手派手が多い中、シンプルなドレスを着ている人たちが、むしろ爽やかで目に優しく、印象に残るくらいだ。
●「50歳を過ぎたら、渋めのサリーを頻繁に着よう」とか、「白髪が目立ち始めたからショートカットにしよう」とか、かく言うわたしも最近は、「守り」の思考に陥りつつあったが、この写真を見て、少し考えが変わった。健康で難なく生きていられるとしたら、この先まだまだ、人生は長い。ときに守り、ときに攻め、緩急つけつつ、生きようではないか。
●渋めのサリー着用は70代以降(!)に先送り。ショートカットばかりの未来も退屈だ。久しぶりに、来年は髪を伸ばしてみようかとも思う。
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上記を残した3年後、2021年7月現在。まもなく56歳になるが、むしろ派手で若々しい服を着たくなっている。ロックダウンの日々がきっかけで、図らずも髪が伸びた。思ったほど白髪も出ないから、当面はロングでいけそうだ。4年後の還暦パーティで赤い服を着こなすべく、60歳にちなんで、せめて60キロまで絞りたい(遠い目)と、おぼろげに計画しているところだ。
最後に。あなたが、歳を重ねて自由な人の様子を見て「痛い」とか「歳を考えたら?」と思ったとしても、口に出すのはやめたほうがいい。それはやがて、自分自身に返ってくる。
ファッションに限ったことではない。人の生き方に干渉することは、気づかぬうちに、自分の自由を狭めてしまうことにもなる。人の嗜好も思考も、生き方も、外部の影響を受けながら、歳月と共に変化する。あなただっていつ、「派手な服が着たい」と思う日が来るかも知れぬ。
人に歴史あり。自分の尺度で他人を測るな。
未来の自分に唾しないよう、囚われずに生きよう。そのほうが、楽しいぞ。
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なお! 場をわきまえた服装をすることは、もちろん重要。就職活動にミニスカで行けなどと言っているわけでもなければ、日本の結婚式で真っ白のワンピースを着て行けと言っているわけでもない。あくまでもその国、土地、環境の中で、プライヴェートでの自由を尊重してほしいということだ。
ちなみにこういうことをして、日本ではTPO/Tはtime(時)、Pはplace(場所)、Oはoccasion(場合)と表現されるが、これは100%和製英語なのでご注意を。
TPOで調べると、Thyroid peroxidase(甲状腺ペルオキシダーゼ)と出てきます。😸