🇮🇳昨日は、夫婦揃ってカルナータカ州の州知事公邸、RAJ BHAVANへと赴いた。
1947年に、インドがパキスタンと分離独立し、今年で75周年になる。それを記念しての、YPO主催による会合に参加したのだ。
ドレスコードは、白い伝統衣装。わたしは白いサリーを持ってはいるのだが、どれも10年以上前に購入したもので、ブラウスが軒並み窮屈。
このごろは、伸縮性のある既成のブラウスなどと合わせて着ていたが、どうやら白で統一した方がよさそうなので、前夜、オリジナルのブラウスのマチをほどいて広げ、アイロンをかけるという作業をする。
インドのサリーブラウス。昔ながらのローカルのテイラーでは、後に太った際を想定して、大きめにマチを取り、約5ミリおきに縫い目を入れてくれている。窮屈になったら、糸を解いてアイロンをかければOKというわけだ。
この写真がそれだ。わたしは太ることを避けたかったがゆえ、その後のサリーのブラウスは、仕事が丁寧なテイラーに頼み、更にはマチに予備の縫い目を入れてくれるなと頼んでいた。
失敗した。
ちなみにこの白いサリーは、2006年に母がバンガロールに来た際、マイソールを旅したときに購入したマイソール・シルク。装飾が少なめの、しかし金糸が美しい。ラジャ・ラヴィ・ヴァルマが描くところの、サラスワティ(弁財天のオリジン)が着用しているサリーに似ている。
さて、公邸内を見学した後、バンガロールの経済を牽引する実業家メンバーの中から、数名がMy dream for Indiaというテーマでスピーチ。その後、州知事によるスピーチが行われた。
実は近々公開の『教えて! みほ先輩!』の動画で、「バンガロールでは、ヒンディー語が必要な場面は極めて少ない」と言った矢先なのだが……州知事はヒンディー語でスピーチを始めた。しかも延々と30分以上!
なぜヒンディー語? 無論、わたし以外のメンバーの大半は、ごく一部の海外育ちのインド人を除き、ヒンディー語を理解する。ゆえにヒンディー語でも全く問題ないのだが、しかしここはカルナータカ州。
こういう場では、たいてい英語が話されるはずなのに……と思っていたら、州知事の出身は北インド出身で、カンナダ語は話せないらしい。
途中で幾度となく睡魔に襲われるが、中盤、何度もJAPANとおっしゃる。話の内容が興味深すぎるが、まったく、何一つ、わからない。
その後、緑麗しい広大な庭園で、ハイティーを楽しんだのだが、そのときに、友人たちがわたしの近くに来ては、異口同音に「州知事はたいへんな日本贔屓だ」との詳細を語ってくれる。
ちょうど日本のバブル経済がピークの時期、州知事は日本企業と仕事をしていたらしく、日本が終戦以降、目を見張る経済成長で先進国の仲間入りをした、しかも英語ではなく「日本語」を武器にして……的な話をもされていたらしい。
若いころに、日本と関わりのあったインド人の多くは、親日感情が強い人が多い。現在の日本が抱える社会問題や、過去30年の停滞などについてを知る人は少なく、日本は今でも優れた先進国だとの敬意を表してくれる。好意的に思われるのはうれしい反面、複雑な気持ちになる。
ハイティーを終え、国旗が降ろされるのを眺めたあと、州知事に「わたしは日本人です」と英語で挨拶をしに行った。
ちなみにRAJ BHAVANを訪れるのは、実は三度目だ。インド移住まもない2007年、日本人コミュニティのイヴェントやジャパン・ハッバが開催されたのだ。スマートフォンの携行さえ許されない厳重なセキュリティの現在は考えられない、出入り自由な場所だった。
インドのホテルやモール、さまざまな場所におけるセキュリティが厳しくなった契機は、2008年11月26日のムンバイ同時多発テロ以降のことだ。
諸々、歴史を振り返りつつ、昨日もまた、有意義な日であった。
【過去の記録から】
◉マイソール週末旅行(4) そしてパレス見学。(2006年3月)
➡︎ https://museindia.typepad.jp/blog/2006/03/4_6d16.html
◉盛大に日印祭り。母、インドTVデビューならず。(2007年8月)
➡︎ https://museindia.typepad.jp/blog/2007/08/tv_21cf.html