ムンバイの最南端、カフパレード(コラバ地区)に暮らしていたのは、2008年から2009年にかけての約2年間だった。夫が一時、ムンバイ拠点の会社に勤務していたことから、バンガロールとの二都市生活を送っていた。あのころは、月の大半をムンバイで過ごし、毎月1週間ほど、バンガロールに戻っていた。
2008年9月のリーマンショック、そして11月のムンバイ同時多発テロは、わたしたち個人の暮らしにも、少なからず影響を与えた。その詳細はさておき、わたしたちの濃厚なインド生活の中でも、特に波乱に満ちた2年間だった。だからこそ、この街に対する心情は、ニューヨークとはまた異なる形で、個人的に強い。
年に数回は訪れたいと思いつつ、今回は1年ぶりの来訪となった。年々、目覚ましい勢いで増え続ける高層ビルディングに目を見張り、しかし以前から変わらぬ様子の町並みに、少し安心したりもする。
今回、北ムンバイのバンドラにあるホテルに滞在したものの、訪れたのはすべて、南ムンバイであった。ニューヨークで購入した一眼レフのカメラを持参して、今回は積極的に写真を撮影した。インドに暮らし始めて以来、撮り続けている写真は、大切な資料としてデータを残している。仕事でも使う機会が少なくなく、「これは!」と思う光景は、撮っておくにこしたことはない。
新しいブティックが次々に開店している高級モールのパラディアム。
ムンバイの一大洗濯場、ドビーガート。
貧困層の女性たちによる手工芸品を販売する団体、WIT。
アルフォンソ・マンゴーがあふれるクロフォードマーケット。
なじみの老舗パン&チャイ屋、ヤズダニ・ベーカリー。
1年前にオープンしたばかりのスターバックス・カフェ。
インドの伝統的なテキスタイル、サリーを扱うカラ・ニケタン。
おしゃれなブティックが並ぶオベロイ・ショッピング・センター。
コラバ地区の、最先端ファッションを扱うセレクト・ショップ数店。
インド門、そしてタージマハル・ホテル。
お気に入りのテキスタイル&サリー店、靴専門店のJOY SHOES、
そして、いつものシーラウンジ……。
わずか2泊3日の間、数々の場所を巡ったが、しかし今回のハイライトは、日本山妙法寺への訪問と、初めて訪れる「日本人墓地」であった。
ムンバイに到着した日。ホテルでチェックインをすませ、ランチをとったあと、バンドラ・ウォルリ・シーリンクを渡って南ムンバイへ。橋をおりてすぐのウォルリの目抜き通り沿いにある日本山妙法寺へ、まずは立ち寄った。この寺院はムンバイのビルラ財閥によって創設された。
実は、ムンバイに住んでいるときには一度も訪れる機会のなかった日本山妙法寺だが、2011年、初めて訪問し、森田上人とお会いした。
「日本山妙法寺」とは、日本山妙法寺大僧伽(にっぽんざんみょうほうじだいさんが)と呼ばれる日蓮系の宗教団体のお寺。この宗教団体は、1917年、藤井日達によって創始された。世界各地で太鼓を叩きつつ平和行進を続けていることでも知られている。
わたしの父方の祖母が日蓮宗、ことに藤井日達上人の熱心な信者であったこと、また福岡県糟屋郡久山町にある仏舎利塔の建設に際し、建設会社を営んでいた亡父がお手伝いをしたことなどの背景があることから、わたし個人は信者ではないものの、日本山妙法寺とご縁があった。
その詳細に関しては、2年前の記録に残している。また、昨年訪れたスリランカのゴールでも、日本山妙法寺を訪れた経緯がある。
■絆が見えた日。父と、仏舎利塔と、日本山妙法寺:2011/5/4
■海へも行かずフォート。夕暮れ南無妙法蓮華経:2012/1/27
今回、2度目にお会いする森田上人。最初にお会いしたときにも、ゆっくりお時間をいただいて、いろいろなお話をさせていただいた。森田上人は、非常に溌剌とお元気で、気さくな方である。我が祖母と信仰の話題に始まり、インドでの暮らし、わたしの仕事、インドに暮らす日本人のこと、そして過去の日本人のことなど、さまざまな話題を語り合ううちにも、瞬く間に時間が過ぎてゆく。
今回はまた、わたしが日本に帰国した際、実家に残されていた祖父母のアルバムから、日蓮宗に縁のあるものを数枚、インドに持って来ていたものをお見せしたのだった。
その中の一枚、昭和14年に熊本県の花岡山行勝寺で撮られた一枚の写真が、森田上人がお持ちの、信者の方の自費出版の冊子の中に見いだされ、二人して、深く感じ入る。
当時は福岡県に暮らしていたはずの祖母が、熊本の花岡山まで訪れ、藤井上人はじめ信者の方々とともに、一枚の写真におさまっているのが認められる。写真から、若かりし祖母を見つけるヒントとなるのは、その「なで肩」で、それがわたしにも引き継がれていることが血縁。古い写真に思いは巡る。
森田さんは、現在、藤井上人の足跡をまとめるべく、写真などの資料をお集めになっているとのことで、これらの写真は後日、きれいにスキャンをしてキャプションを添え、お渡しする予定である。
これは、我が七五三のときの写真。このときわたしは、慣れない着物が気持ち悪くて、始終泣き、大人たちを困らせたことを覚えている。
晩年は恍惚の人となって久しく、数年前に他界した祖母。このころはまだ50代だろう。若い。母も若い。そしてわたしも超若い。が、今とあまり変わらない顔をしている気がする。ちなみに、幼児期のわたしは、体格もよく、男子のようであった。
祖父母とお出かけ、といえば必ず訪れていた福岡市の東公園。ここには日蓮像があるのだ。日蓮さんはさておき、わたしは「ハトに餌をやる」のが好きで、喜んでついて行っていた記憶がある。思えば祖父は、機械が好きだった。当時、上質のカメラを携え、折に触れてわたしたちを撮影していた。新しもの好きでもあり、ナショナル(松下電器)の商品を愛用。電子レンジやヘアドライヤー、ミニカセットレコーダーなど、新製品が出るたびに購入していた。昭和40年代のことだ。
祖父とわたしと、妹と。少々成長しても、まだハトに餌をやるのを楽しんでいる模様。素朴な時代だ。
さて今回、日本山妙法寺を訪れたあと、そこから1キロほど離れた場所にある「日本人墓地」を訪れた。その存在を知ったのは、2年前。しかし訪問するのはこれが初めてである。
ウォルリの、ショッピングモールや高級ホテルとスラムが混沌と共存するエリア。フォーシーズンズ・ホテルの真向かい。道路に面しているわけではなく、低所得者層の暮らす古びたアパートメントビルディングの門をくぐり、その裏手へと向かわねばならない。そこに、ひっそりと、その墓地(墓石)はあるのだった。
上の写真は、スラムの中に屹立するフォーシーズンズホテル。そして左下の写真が、墓地に連なるアパートメントの入り口。
同行してくれたのは、大学を休学してインドに来訪、日本山妙法寺にしばらく滞在して奉公されている日本人女性のアヤメさん。太鼓を叩きつつ、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、墓地へと赴く。
墓地自体は、1908年に設置され、この墓石は1933年に立てられたという。「供養塔」とある。
100年以上前、この地に3000人ほども暮らしていたという日本人。最初に訪れたのは「からゆきさん」で、そのほか、「綿」の貿易に関わる仕事に携わる人々などが、この国際都市を訪れていた。この地で命を落とした人々のほか、第二次世界大戦中、捕虜になっていた日本兵の御霊も祀られている。
こんなにも、ひっそりと。
墓石の側面には、亡くなられた人々の名前が刻まれている。名前は祀られている人の一部だと思われる。
敷地内にある御堂。中には仏壇があり、戦没者の霊も祀られているが、寂れている感は否めず。墓守の女性がいて、手入れをしてくださっているが、しかし蜘蛛の巣があるなど掃除が行き届いている様子はなく、少し、心が痛む。ともかくは、自宅から持参した日本のお線香を焚いて、手を合わせる。
墓石と向かい合うようにして立つ、日本山妙法寺の宝塔。威風堂々と。
ムンバイ滞在の最終日、改めて、日本山妙法寺を訪れた。折しもその翌日、5月25日は仏陀の生誕祭であったので、そのお供えのマンゴーをカゴに詰めて、日本山妙法寺へお持ちした。そして、花のない墓石が寂しかったので、改めて花を手向けに、日本人墓地へ。墓石を水で清め、花を添え、線香を焚き、手を合わせる。心が澄む。実は5月27日は亡父の命日でもあったので、日本へ帰れぬわたしは、ここで、父の命日を祈らせてもらったのだった。
異国の地にあって、母国に縁のある場所で、こうして祈りを捧げられるということは、本当にありがたいことだ。異郷に暮らしながらも、ささやかに、しかし確実に、ひとつの心の寄る辺のようなものが、ここにあるような気がして、とてもうれしい。
またムンバイを訪れる際には、ここへ立ち寄りたいと思う。もっと多くの方々にも、この日本人墓地の存在を知っていただけたなら、とも思う。この墓地の存在を知ることで、日印の歴史の一端をまた、知ることもできるのだ。実はそのことが、また非常に興味深いものである。
以下、明治維新以降、この墓地が作られるまでの日印の関連について、資料から拾い上げて見た。この簡単な年表を見るだけでも、当時の様子が透けて見え、非常に興味深い。
1868年:[明治維新]
1868年:ジャムシェトジー・タタが綿貿易会社を創業(タタ財閥の母体)
1877年:日本へのインド綿糸輸入が増加
1882年:大阪紡績設立
1889年:日本のインド綿業視察団がインドを訪問
1893年:ジャムシェトジー・タタ訪日
1893年:日本郵船がボンベイ〜神戸間航路開通
1893年:三井物産がボンベイに出張所を開設
1894年:[日清戦争勃発]
1894年:在ボンベイ日本国領事館開設
1894年:横浜正金銀行がボンベイ支店開設
1902年:岡倉天心がインドを訪問し、ラビンドラナート・タゴールと親睦を深める
1903年:東京に日印協会が設置される
1903年:タタ財閥がボンベイ(ムンバイ)にタージ・マハル・ホテルを創業
1904年:[日露戦争勃発]
1907年:在カルカッタ日本国領事館開設
1908年:ボンベイに日本人墓地が設置される
ムンバイの日本人墓地の100周年にあたる2008年を記念し、ムンバイの日本人会がその記念誌を発行している。非常に読み応えのある冊子だ。どの方が書かれた記事も、それぞれに、学ぶところ多く、 わたしもたいへん勉強になった。
幸いにも、ムンバイ日本人会のサイトに内容がアップロードされているので、ネット上でも読むことが可能だ。インドに暮らす方々は特に、知っておいて損はない事柄だと思われる。
下記、お時間のあるときにでも、ご一読をお勧めする。
それにつけても、と思う。自分が生まれる以前からの縁が、今の自分に映し出される。
わたしが、ミューズ・クリエイションの活動などを行っているお話をした折、森田上人が、
「わたしたち、同じようなことをしてますね」
と、ありがたくも畏れ多いお言葉をくださった。森田さんが数十年に亘ってこの地でされてきたことを思えば、わたしが行っていることなど、足下にも及ばぬことは承知している。
更には、信心深いわけでも、慈悲の心に富んでいるわけでも、私欲がないわけでもなく、ただ、「衝動を優先で」行動しているわたしではあることも、重々自覚している。しかし、敢えてそのことをここに記すのは、そのような言葉をかけてくださる方のお心の広さが切にありがたく、うれしかったからだ。
そのお言葉が契機となり、わが気持ちが格段に引き締まり、そして、少しでも世の中の役に立つことをしていこう、という思いを新たにさせられる。褒められて伸びる。喜ばれると張り切る。まるで子供のようではあるが、まさにそれだ。
もちろん、自身の矜持を保つためには、少なくとも今のわたしは、ビジネスとしての仕事を継続して行くことは必要で、これからも慈善活動と並行して行うつもりだ。しかし、それを前提としながらも、たとえ微力であったとしても、日印の間を結ぶためにできることを、模索していきたいものだと、痛感するのだった。
本当に、いい旅だった。
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