*耐えがたい矛盾の横行。延々と続く福島の原発問題と、東京オリンピックが謳う「復興」
日本を離れて25年の歳月が流れた。2011年3月11日の、絶大なる天災と人災。母国へ寄せる信頼の気持ちが、大きく崩れた。何一つ解決せず、苦しむ人が大勢いる中、「アンダー・コントロール」という「虚言」のもとに、オリンピックが誘致された。それから、現在に至る混沌。
海外に暮らす人間が、母国について何か口を開けば、たちまち叩かれがちだ。そんな趨勢を知っていてなお、憂いを、伝えずにはいられなかった。日本という極東の島国を離れ、異国に暮らし、地球を俯瞰しているからこそ、見えることもあるのだが、それを理解してくれる人は、極めて少ない。
これらの写真は、今年5月27日に、わたしのFacebookやInstagramなどのソーシャルメディアにシェアした写真だ。ことばを添えずに写真だけ。今、確認したところ、反応してくれた人は、Facebookに1人。Twitterに1人。Instagramに10人。
そもそもわたしの発信に関心を持ってくれる人は極めてマイノリティ。そもそもから反応は少ないが、その中でもひときわ、関心を持たれなかった投稿だ。しかし、今わたしが最も伝えたいことは、こういうことなので、敢えて書き残したく、過去の記録も転載する。ごく小人数でも、共感してくれる人の存在があることを信じて。
*戦地に散った竹内浩三のことばは、「残念なことに」色褪せない。
わたしは、東京オリンピックの開催を、誘致している時点から反対してきた。もちろん、その背景は福島の原発問題がある。そのうえ、パンデミック下においても、オリンピックが開催されようとしている趨勢をして、『日本が見えない』という竹内浩三のことばが、幾度となく蘇った。
戦時中の日本はひどかった。今は本当にいい世の中になった……。とは言い難い。異なる類の、しかし似たような異様な狂気の匂いを、母国に対して感じずにはいられない。
竹内浩三は、1921年(大正10年)5月12日、三重県伊勢に生まれた。子どものころから漫画や映画、詩作に勤しんだ青年は、1945年4月9日、フィリピン・ルソン島バギオ北方にて、23歳の若さで戦死する。
わたしが初めて彼を知ったのは15年前。当時、「竹内浩三」の名は、ネット上にあまり見られなかった。ところが先ほど調べて驚いた。折しも今年5月12日は、彼の生誕100周年であった。新聞記事などにも取り上げられているので、ぜひご一読いただければと思う。
◉竹内浩三生誕100年、ゆかりの地で顕彰の動き 三重 (朝日新聞/2021年5月20日)
➡︎https://www.asahi.com/articles/ASP5M7HP7P5FONFB014.html
◉伊勢の詩人・竹内浩三生誕100年記念事業サイト
➡︎https://kozo-takeuchi.club/
◉東京裁判/ 日本国憲法/ 竹内浩三(2006/05/03)
先日、毎年恒例のニューヨークへ行った時のこと。マンハッタンの紀伊國屋を訪れた折、バーゲン対象となっていた山積みの本の中から、「環」(藤原書店)という名の学芸総合誌を買った。「占領期再考」という特集が目にとまったのだ。
非常に興味深い原稿が連なる中、「竹内浩三、遺作新発見」という記事に吸い寄せられた。最初、彼の人となりを知らぬまま、一部掲載されている、彼の詩、短編などに目を通し、深い共感と感嘆を覚えて後、彼の略歴を知って驚いた。太平洋戦争にて、23歳の若さで他界したとのこと。
「ある老人の独白」という短編小説などは、ほんとうにおかしみがあって、すばらしい。もっと彼の作品を読みたいと思う。
ところで60年前。1946年の今日、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開廷した。そうして翌47年の今日、日本国憲法が施行された。
5月3日、竹内浩三という人のことをブログに書き残しておいた。彼の作品をどうしても読みたくなり、先日、amazon.co.jpにて全集を注文した。
ニューヨーク時代は紀伊國屋書店や旭屋書店があったので、日本で買うよりもかなり割高とはいえ、店頭で買うことが多かった。しかしワシントンDCに移ってからは、このamazon.co.jpをよく利用した。
確かに送料はかかるが、本の単価や一度に送る冊数、配送期間などを調整すると、送料が幾分「割安」になることもあり、便利である。今回は、竹内浩三の全作品集『日本が見えない』をはじめ、日本で話題の本、インド関係の本などを選んだ。
ウェブ上からだと、どういう本が「わたしを呼んでいる」のかが鋭く伝わってこないのが玉に瑕。去年の2月、インド移住前に、やはり日本からインド関連の書籍を取り寄せたが、多くが「インド経済を読み解く」ためのガイドブック的なもので、概要などに目を通す限りでは、どれも似たり寄ったりの気がしてならない。どの本がいいのか、手に取ってぱらぱらとめくり、確認できないのが残念だ。
さて、それらの本が、今日、届いた。一番早い便を頼んでいたのだが、それでも予想よりはやく、週末を挟んで中4日で届いた。まずは、一番欲しかった本を開く。竹内浩三の、そのユーモアに満ちた漫画や、小説や、その一方で戦地からの本音の、矛先が向かってくる。一篇を、ここに転載したい。
●骨のうたう
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
苔いじらしや あわれや兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ
白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や 女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった
がらがらどんどん事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨はチンチン音を立てて粉になった
ああ 戦死やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
なんにもないところで
骨は なんにもなしになった。
●日本が見えない
この空気
この音
オレは日本に帰ってきた
帰ってきた
オレの日本に帰ってきた
でも
オレには日本が見えない
空気がサクレツしていた
軍靴がテントウしていた
その時
オレの目の前で大地がわれた
まっ黒なオレの眼漿がんしょうが空間に
とびちった
オレは光素(エーテル)を失って
テントウした
日本よ
オレの国よ
オレにはお前がみえない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない
※竹内浩三死後、50年以上が経過しているため、著作権は消滅しており、転載自由とのこと。
終戦前に、戦地で命を落とし、戦後をしらない彼が、この詩をしたためていたことこそに、驚き、胸が潰れた。昭和22年三重県庁の公報によると、1945年4月9日、「陸軍兵長竹内浩三、比島バギオ北方1052高地にて戦死」。23歳だった。
◉竹内浩三:飯屋/ 雲/ ワルツ/ ソノツトメヲハタセ(2006/05/23)
先日、日本から取り寄せた本を、折を見て、あれこれと、読んでいる。最も心を奪われているのは、やはり一番欲しかった竹内浩三の全集『日本が見えない』だ。
前回、彼の詩、「骨のうたう」を転載するにあたり、彼の「ホームページ」とおぼしきサイトにアクセスし、著作権のことについて念のため問い合わせた。通常、作者の死後50年が経過している場合、著作権は消滅するが、彼の作品はお姉さんである松島こう子さんが所蔵しているらしく、一応確認したかったのだ。
ホームページの担当者曰く、著作権はフリーとのこと。また、お姉さんの松島こう子さんも、多くの人に彼の作品を読んでほしいと思っていらっしゃるようなので、積極的に「転載」を勧めていただいた。
英訳までも依頼されてしまったが、それは大変な任務につき、安請け合いはできない。が、いくつかの詩は、自分なりの感覚で、英訳をができたら、とも思う。
わたしは、編集者、ライターという職業を経て来ている割に、読書数が少ない。わたしは、熱心な読書家ではない。一番読んでいたのは、小学校へ上がる前の数年間と、大学時代ではなかろうか。
東京時代は、日々の仕事に追われていて、仕事以外で活字を読むのが辛く、本を読む時間があれば、寝ていたいと思っていた。
米国に移住してからは、日本語の書籍が手に入りにくくなったうえ、日本語の本を読むよりも英語の本を読んで、英語力を身につけるがいい、などと思っていて、結局はどちらもあまり読まなくなった。
故に、多くの作家の文体を知る訳でもなく、多くの作家の傾向を知る訳でもない。そんな数少ない情報の中からでも、敢えて言うならば、この竹内浩三と言う人の「言葉」「感性」「情緒」「発想」「在り方」が、途方もなく、我が琴線に触れる。すばらしい、という賛辞の言葉よりも、むしろ共感。
遠い時代に、ずっと自分より若くして死した人への。
●街角の飯屋で
カアテンのかかったガラス戸の外で
郊外電車のスパァクが お月さんのウィンクみたいだ
大きなどんぶりを抱くようにして ぼくは食事をする
麦御飯の湯気に素直な咳を鳴らし どぶどぶと豚汁をすする
いつくしみ深い沢庵の色よ おごそかに歯の間に鳴りひびく
おや 外は雨になったようですね
もう つゆの季節なんですか
●雲
空には
雲がなければならぬ
日本晴れとは
誰がつけた名かしらんが
日本一の大馬鹿者であろう
雲は
踊らねばならぬ
踊るとは
虹に鯨が
くびをつることであろう
空には
雲がなければならぬ
雲は歌わねばならぬ
歌はきこえてはならぬ
雲は
雲は
自由であった
●筑波日記(二) 1944年5月8日
隊長室へ入る作法と云うやつはなかなかむつかしい。ノックする。戸をあける。まわれみぎをして、戸をしめる。またまわれみぎをして、けいれいして、中隊当番まいりましたと云う。まわれみぎは二度するだけだけれども、なんどもくるくる廻るような気がする。そして、それがワルツでもおどっているようでたのしい気さえする。その場で、入ったものと、出ようとするものとがかさなって、二人でくるくるまわりをやるなどは、たのしいものである。
●1944年6月14日 手紙(姉の三女、松島芙美代宛) 筑波
オ前ガ生マレテキタノハ、メデタイコトデアッタ。
オ前ガ女デアッタノデ、シカモ三人メノ女デアッタノデ、オ前ノオ母サンハ、オ前ガ生マレテガッカリシタトイウ。
オ前ハセッカク生マレテキタノニ、マズオ前ニ対シテモタレタ人ノ感情ガガッカリデアッタトハ、気ノドクデアル。
シカシ、オ前マデガッカリシテハ、コレハ生マレテコンホウガヨカッタナドト、エン世的ニナル必要モナイ。
オ前ノウマレタトキハ、オ前ノクニニトッテ、タダナラヌトキデアリ、オ前ガ育ッテユクウエニモ、ハナハダシイ不自由ガアルデアロウガ、人間ノタッタ一ツノツトメハ、生キルコトデアルカラ、ソノツトメヲハタセ。
【竹内浩三の詩が読めるサイト】
➡︎https://kozo-takeuchi.club/his_poem
最後に。『日本が見えない』に並んで、先日から脳裏を巡る歌。
高校時代に聞きまくったオフコース。昨日、大好きだった『秋の気配』を聞きたくなりネットを探したら『生まれくる子供たちのために』が出てきた。当時の私には、すんなりと心に入ってこなかったのだが……。
40年の歳月を経た今、強烈に心を揺さぶられる。母国に歌いたい。
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