早くも5月。日本はゴールデンウィークの最中で、バンガロールは夏真っ盛りで。ニューヨークは先日の寒さが嘘のように、ここ数日は初夏の様相を呈している。気がつけば、10日以上が過ぎ、すっかりこの街の空気になじんで、バンガロールでの日常が幻のよう。他の街へ旅するのとは違い、今回は特に、かつて住んでいたエリアの近所に滞在していることもあり、すっかり気分がリラックスしている。
外食続きで、そろそろ自分の作るあっさり料理を食べたくなってきたが、去年のような胃腸のトラブルもなく、今のところはいい調子だ。ただ、本当に、食に対する執着と言うか欲求が減ったなと、つくづく思う。特に「食べたい!」と思うものもなく、「胃腸に軽くて消化のいいもの」などと思ってしまうところが、それなりに悲哀。若いうちに、おいしくもりもり食べられるときに、食べたいものをがっつり食べておくべし、とつくづく思う。
尤も、単に「個人的な尺度」として、数年前に比して食欲が衰えているだけであり、平均的日本人女性という括りから捉えると、わたしの現在の食欲は、多分、いまだに平均以上のパワーだと思われる。などという話はさておき。そして、食べなくなったからといってボディがスリム化するわけではなく、代謝が悪くなっているだけという哀しげな現実もさておき。
ニューヨークへ来るときには、大抵、夫は半分仕事、半分はプライヴェートという状況だが、今年は仕事の打ち合わせが少々多い。ニューヨーク本社へ顔を出したり、旧友に再会したり、新しい出会いを構築したり。そういう意味でも、ニューヨーク来訪は、意義深い。バンガロールのトムズ・ベーカリーの近所にあるオフィスとは、世界観が違いすぎる。彼が時折、マンハッタンのオフィスを恋しがる気持ちは、よくわかる。が、敢えて選んだのだ、インドを。それが正しい選択だったか否かに思いを巡らせるなど不毛なこと。現状がいいのだと、思えるような環境を、強引にでも整える。反省は未来に連なるが、後悔は現在を否定する。
1996年に、ここで二人が出会って以来、夫も、わたしも、それぞれに、本当にいろいろなことがあった。誰もがそうであるように、喜怒哀楽、当たり前だがいいことばかりじゃない、さまざまなことが濃密に、いろいろとあって、今だってそれなりにいろいろあり、これから先もまた、いろいろあるだろう。その「いろいろ」の現象を、いかに捉え、対処して行くか。そこが、肝要なのだ。これまでの経験値や、自尊心や、理念や方針のようなものが、多分、問われる。自分を無駄にしてはいけない。
どんな状況にあっても、二人が、家族が、身近な人々が、心身ともに健康で、衣食足りて、互いを慈しみ合っていければ、それでもう、かなり恵まれた人生。こうして、旅ができること、元気で街を歩けることの幸せ。自分の好きな服を来て、自分の好きな音楽を聴き、自分の好きな光景を目にし、自分の好きなものを食べて、自分の好きな場所を歩く。
変容する世界の中で、自分の軸を持つことの大切さは、多分インドが教えてくれた。
揺るがない価値観は、自分の身の丈を知ることから始まる。足るを知ることから始まるということも、こうして折に触れて、確かめながら。ほどほどに、贅沢な暮らしを実現しながらも、しかし物欲や食欲に翻弄されないわたしたちでよかった。さもなくば、尽きないのだ、という例を、身近に明らかに、見ているが故に。
この街の病んでいる部分もまた、今回はしみじみと眺め入った。そのことについては、今は記すつもりはないが、人が暮らすところ、理想郷などあるはずもなく、どの土地にも、それぞれに光と陰。陰の部分だけを見つめていれば不幸だし、だからといって光の部分だけを見つめていればいいというわけでもなく。陰陽の調和。陰があって初めてわかる光の存在を、今回もまた改めて思う。
さて、旅も後半となり、今回は結局、ワシントンDC行きはキャンセルとなった。夫の打ち合わせがニューヨークですんだというのが理由だが、わたしとしては、去年もドライヴしたし、今年はニューヨークだけでよかったと思っている。新しい土地への旅ならば、ゆっくり時間をかけたいけれど、ニューヨーク。2週間以上も滞在すれば、もう十分だ。
そろそろ、アーユルヴェーダのマッサージも恋しくなって来た。ホテルの狭い部屋では、心底リラックスするのも難しい。あと数日間の滞在を大切に過ごし、さて、気持ちを徐々にインドに切り替えてゆくころか。
今日はこれからダウンタウンへ。夫も今日はフリー。なんとなく、ふらりと街を歩いてみよう。