昨年、自ら600個のレンガを配して作った庭の一部。レンガの「焼き」が甘いせいか、そのいくつかが、脆くも溶けてしまったので、新しいレンガを調達した。配達に来たのは、二人の少年だった。前回、別の業者に頼んだときも、やはり少年が配達に来たのだった。
その小さな身体には、重すぎるであろうレンガを、何往復もしながら運ぶ彼ら。
ビスケットやバナナ、キャンディーを、急いでビニル袋に詰める。そしてペンとノート、おこづかいも。
「マダム、フィニッシュ」
と、英語でそう言う少年。
「学校には、行っているの?」
と、尋ねれば、
「イエス」
と朗らかに答える。平日の昼間、こうして働いていて、では、いつ学校へ通っているというのだろう。少しは英語ができるようだけれど、それはどこで習うのだろう。本当に学校へ通えているのだろうか。
菓子を詰めたビニル袋と、それからペンとノートとおこづかいを手渡しながら言った。
「勉強を、しなさいよ。ちゃんと、勉強を」
そう言いながら、触れた少年の肩の、その細さといったら!
「サンキュー、マダム!」
満面の笑顔で去っていく二人の少年の背中を眺めながら、胸が迫る。せめて、学校に行けていれば。せめて勉強ができていれば。小さな子供のうちから仕事をせねばならないのは、やはり、どうにも、間違っている。
わたしには、何ができるのだろう?
わずか十数年ほど前までは、街全体が鬱蒼とした緑に覆われていて、だから通りはすべて木陰で、直射日光を受けることなく街を出歩けていたガーデンシティ、バンガロール。
日ごと変貌するこの街は、無秩序としか思えぬ様子で、樹木をなぎ倒しながら、拡張している。増長している。
道路にせり出した大きな樹木が、渋滞の原因になっていることも、その大きな枝が、ビルディングの建設に邪魔だということも、よくわかる。
しかしこのままでは、潤いのない、醜い日本の都市のようになってしまう。コンクリートばかりの無機質な光景に、なってしまう。かつて日本にあった、幽玄なる自然美が、戦後の高度経済成長期を、バブル経済期を経て、ずたずたに損なわれたように、この街も、そうなるのだろうか。
自然と共存している都市は、世界にいくつもあるはずなのに。それを学びながら都市開発を、などと悠長なことを言ってはいられないような、猛スピードで変化するこの街は。
今から16年前、モンゴルへ一人旅をしたあと、「モンゴル旅日記」を自費出版した。500部作ったそれは、友人を介して、さまざまな人の手に届けられた。
当時は、まだインターネットもなく、従っては感想をしたためた手紙を郵送してくれる人がたくさんいた。
「ウランバートルは、これから先、どんな風に発展していくのだろう。束の間の旅人の、身勝手な言葉を聞いてもらえるならば、いつまでも暗闇が美しい、世界で最後の首都であってほしいと思う。」
旅日記をしめくくる、その言葉に対して、苦言を呈してくれた人がいた。モンゴルは、これから発展すべきだし、それを歓迎しないのは先進国に住む人間としての、エゴであるかもしれませんよ、と。
その通りなのだ。
まさに「身勝手な言葉」なのだ。
そのときの言葉がいつも心にあるからこそ、この街の、この国の、激変する様子を見ていても、ただ頭から否定することができないのだ。
ただ、すでに失ってしまい、取り返しのつかないところに到達している日本という国を母国に持っている者として、同じ轍を踏まないでほしいと、切望するのは事実である。
「美しき日本の残像」を著わしたアレックス・カーや、喪われた日本の自然美を嘆くC・W・ニコルの気持ちがよくわかる。
わたしには、何ができるのだろう?