雨に洗われて空気のかろく、木漏れ日を受ける植物の葉の、自ら発光するが如きまばゆいさま。青空彼方トンビの叫びも、静寂破る遠い軍用機の唸りも、夢か現かそよ吹く風に溶ける。日射の心地よい温もり。
夕べは遅くまで、夫と二人でDVDを観た。以前、記事を書くための資料用に購入し、「走り観た」ことのある映画。インド最大の私企業、リライアンス・グループの創始者であるディルバイ・アンバニをモデルにした映画"Guru"。
主演はアビシェク・バチャンとアイシュワリア・ラーイ。この映画での共演ののち、二人は現実でも結婚した。
植民地時代からの財閥、富裕層が経済界を牛耳っていたインドにあって、地方の中流階級から飛び出してきた異端児。
彼が一代で築き上げたリライアンス・グループの発展は、その手段に賛否両論大きくわかれたものの、超絶的だ。
ただ現在、リライアンス・グループを二分して率いる兄弟、ムケーシュとアニルの仲の悪さ、その他諸々が「非常に残念」ではある。
映画では、二人の息子のかわりに、双子の娘が誕生するなど、大きく脚色されているところに、その残念さが滲み出ている気がする。
夫は初めて見たのだが、感銘を受けている様子だった。わたしもまた、世を変える力を持つ人の、並大抵ではないパワーを、改めて目の当たりにして、見入った。ちなみにシリアスな映画とはいえ、ボリウッド映画。
唐突なダンスシーンも盛り込まれ、それはそれで楽しめる。インドで働く人にとっても、観ていて損はない映画だと思う。
カルナタカ州。バンガロールと一字違いのマンガロール空港で、昨日土曜の朝、ドバイ発エア・インディア機が着陸ミスでクラッシュし、158人以上が死亡したとの痛ましきニュース。
上の新聞は、本日の朝刊。
最初にこのニュースを知ったのは、昨日の昼ごろ、インターネット上の、しかも日本語の新聞サイトで。その後、テレビをつけて、ニュースで現場の状況を見る。
当時は濃霧で視界が悪かったらしく、滑走路からはみ出し、森(谷)に向けて滑り落ちたような状況の映像が見られる。
それにしても目を見張るのは、現場映像に映る「一般人」の多さ。まだ煙立ち上る機体のすぐそばで、大勢の男たちが群れている。救助隊も地域住民らしき一般人も入り交じり、遺体の救出を手伝っている様子が映し出されている。
2006年のムンバイでの鉄道テロのときもそうだった。一般の人々が、死傷者を運び出すのに懸命な様子を見て、驚かされたものだ。
あの日テレビは、血まみれの人々の姿も、映し出していた。あまりにも悲惨なシーンは避けられていたが、それでも、額に血を流しながらの負傷者がマイクを向けられ、負傷者も負傷者で、きちんと返答しているのに驚いた。
今回も、生き延びた負傷者3名が、病院で手当を受けたあと、痛ましい姿で、しかしそれぞれにテレビに向かって饒舌に、当時の状況を語る姿に、奇妙な感動を覚えた。
みな、タフだな、と思う。
死に鈍感になっているとか、死を軽んじているとか、そういう理屈ではない。
ただ、目を覆わずに、生死を人間の定めとして普通に見ている。
新聞には、黒こげの遺体を、周辺住民が手伝って、運び出す様子さえ見られる。
当事者と、当事者ではない人々の、精神状態の、明確な分離。
命を軽んじているわけではないのだが、死になじんでいる。
死が身近。
わたし自身、いくつかの大きなテロを比較的、身近に経験し、少しずつ年を重ねた結果、このごろは、よく思うのだ。
「自分の身に置き換えて考えること」の無意味さ。
「もしも自分が乗っていたら」
「あのとき、いつものようにあのホテルにいたら」
「あのとき、あの列車に乗っていたら」
などという想定の、果てしない無意味さ。
同時にそれは、当事者にとっても失礼な話である。
想像力をたくましくすればいいというものではない。危機管理は大切だろう。いざというときに、どう対処するかを考えておくことは。
しかし、起こった事実に対して、巻き込まれてもいないのに、巻き込まれたときを想像することが、無意味だと思うのだ。
飛行機に年100回乗る人と、飛行機に人生で1回乗る人と、どちらが飛行機事故に遭遇するかなど、誰にも予測できない。
そして死ぬのは、誰にも平等に「一度だけ」と定められている。一度死んで、黄泉の国からもう一度戻って来るような「特殊な人」は別として。
メメント・モリ。
そんなことを、わざわざ説かれなくても、死はそこここに、転がっている。わかっている。それがまた、インドなのだろうか。
もう少し、丁寧に書きたいテーマだが、うまく言葉を組み立てられない。
■映画『MUMBAI MERI JAAN(ムンバイ・メリ・ジャーン)』
2006年7月11日にムンバイを襲った列車連続爆破テロを巡る物語。非常に心に響く映画だった。
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■(変な)バラの花束の理由。