日曜の今日は終日、夫もわたしも、本を読んだり、昼寝をしたり、コンピュータに向かったりで、家で過ごした。
盛夏でも冷房の要らないこの家は、比較的涼しい今日などは天井のファンすら不要で、カーテンを揺らしながら入り込む、緑を含んだ涼風に吹かれて、それだけで幸福である。
従来はエアコンシティと言われていたバンガロールも、年々高層住宅が増加して、緑は減って、気温は上がり、更にはエアコンの室外機や、その他諸々の公害で、「気候」という面においては、明らかに暮らしにくくなっている。
わたしの家の周囲の緑が、いつか伐採されたとしたら、この涼風はもう届かなくなるだろう。
わたしが知る限りの、5年間のこの街の変貌ぶりを見ていれば、それが最早、歯止めの利かない濁流のようなものだということが、よくわかる。
ニューヨークのBOOK OFF。移転したというので立ち寄った。わたしは、正直にいえば、BOOK OFFが苦手だ。嗅覚が鋭いわたしにとって、あの場所にある本は、人や人の家の匂いの濃厚すぎて、どうにも辛いのだ。
しかしながら、日本の書店などないインドから来た身。紀伊國屋書店にも立ち寄ったが、そこにはない本をも探したく、足を運んだ。
目的があった。一つは、友人に勧められた本、有吉佐和子の『非色』を探しに。そしてもう一つは、自分の著書『街の灯(まちのひ)』を探しに。『街の灯』があるのならば、回収したかった。
『街の灯』は、はじめ1冊を見つけた。『非色』はあいにく見つからなかった。他の本も数冊買って、さて店に出ようと思うが、なぜか後ろ髪を引かれる。
引かれるがまま、別のコーナーへ行ったら、そこにも1冊『街の灯』が、あった。わたしの書いた本だもの。BOOK OFFにはいたくなくて、わたしを呼んだのだろう。
2冊とも、わたしのサイン入りである。そのうちの1冊は、謹呈した人の名前入りである。幸いにも記憶にない人なので、友人ではない。名前&サイン入りの本を売るというのは、普通のことなのだろうか。
ささやかに、物悲しい。
カヴァーを捨て去り、サインのあるページを引きちぎって、インドにもって帰ってきた。予備のカヴァーがあるので、それを着せてやろう。
ついつい、インドに関する本を買い求めてしまう。数年前の一時期、「インドビジネス」を念頭においたガイドブックのようなものがたくさん出た。仕事の上では助けになるものもあったが、しかし、すぐに古ぼける。
この1週間に読んだ本のことなどを、あれこれと書いてみたいとも思うのだが、書き始めるときりがないし、書く根性がない。
ただ、一冊。強く興味を引かれたのは、BOOK OFFで2ドルで売られていた、松山俊太郎著『インドを語る』(白順社)。
1988年に書かれたもので、「衰退したインドが現在」であるが、しかし時を経て普遍のテーマが描かれており、非常に興味深い。
自分自身の覚書のためにも、目次のみ記しておこう。
◎インドなんか分からない
・人間にとって〈分かる〉ということ
・〈真理〉とは何か
◎インドは幻
・日本人の〈世界〉観
・人もだましたいし、自分もだまされたい
・インド文化の衰退
・善悪の緊迫したバランス
◎豊饒な国インド
・思想のスケールの複雑さと単純性
・〈我〉とは何か
・諸行は無常
◎お釈迦さまのさとり
・無明と明
・さとりと理性
・理想主義のゆくえ
◎インド人の思想について
・インドの思想は個人主義
・仏教の救済の根本にあるもの
・空の中に住んでいる日本人
・インド文化は深遠かつ幼稚
・あらゆる思想を空ずる立場
◎思想とはどういうものか
・思想の誘惑
・〈愛〉とは何か
・思想と倫理と美学と
・思想をもたなくともいいという思想?
・思想の効用というもの
・思想の影響について
◎華厳経の宇宙
・〈十の百乗〉という誤差
・途方もない最大数=不可説
・小は大よりも大きい
・透明かつ不透明
・〈心〉と〈世界〉
◎百科事典のつくれない国
・インド文化の厖大さ
・やっぱりインドは分からない
◎インド学と当世学問事情
・インドへの正当なる関心
・学者の教養について
・功利主義がすべてを駄目にする
・飽食時代のニヒリズム
◎宇宙における人間の地位ーあとがきにかえて
こうして目次を眺めるだけでも、多分インドに親しい人なら、その内容に興味をそそられるに違いない。
筆者の「あくの強い個性」が時折にじみ出ていて、決して万人受けする内容とは思えないが、しかし興味深くも面白い。
読んでいると、現代のインドにさえも、もちろん残っている「その他先進国とは大いに異なる、理解に苦しむ点」の、その理由が、そこはかとなく、わかってくるのだ。
「ノープロブレム」多発の意味も。時間に遅れても構わないという意味も。混沌の意味も。
たとえばインドでビジネスを行いたいと思う企業や、駐在員も、表層だけを追いかけたビジネス入門だけでなく、むしろこのような本を読んだ方が、この国の理由がよくわかるのではないかと思う。
※さきほどアマゾンで確認したが、あいにく販売されていないようだ。
このごろはもう、自分が誰に向かって何を書いているのか、誰に向かって何を書きたいのか、実はよくわからないのだ。日常の出来事を、ただ純然たる日記として書くことの、どれほどの意味。
なにしろこの5年間のブログだけでも膨大な量で、それ以前の米国生活の記録もまた果てしなく多く、更には20代のころの、一人旅の、数々のノートや写真の山……。
そんな記録の山を、いったいどうしようというのだろう。折に触れて紐解くのは自分だけで、その時間が自分に与える意味はいったいどれほどなのか。
こんなことを思うのも、このインターネットを通しての、地球上を埋め尽くす無数の言語による無数の人々の無数の叫びやつぶやきの渦に、窒息しそうになるからだ。
自分と似通った感性のもと、共感を分かち合える人というのは、そうそういるものではない。
無数の相手に発信するとき、「文章力の拙さ」あるいは「読解力のなさ」、「悪意」「ネガティヴな感情」などを含めた大いなる誤差が発生するのは避け難い。
その誤差の埋め合わせをするように、平坦に書き続けて、当たり障りのない言葉を吐き出すうちに、虚像と実像が曖昧になる。灰汁を取られた野菜のように。去勢された野獣のように。
黙り込んでも、誰も困りはしない。
とはいえ、今日の夕飯も、おいしかった。インドのタマネギ、ジャガイモ、その他諸々の美味なる野菜よ、ありがとう。そろそろ、お風呂にでも入ろうか。
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